人々の命を惜しむ愛の神

「人々の命を惜しむ愛の神」 十一月第四主日礼拝 宣教 2022年11月27日

 ヨナ書 4章5〜11節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。今年の待降節・アドベントの最初の朝、このように礼拝堂に集って、またオンラインで賛美と礼拝をおささげできる恵みを神様に感謝いたします。主に感謝すべきことはたくさんありますが、気を付けなければならないこと、残念なことも色々あります。コロナの感染者が依然増加しています。今週木曜日から12月に入りますが、今年も対面式とオンラインのハイブリッドでクリスマスイブ礼拝とクリスマス礼拝をおささげすることになると思われます。礼拝堂での対面式礼拝が継続できるように祈りましょう。

 さて、今朝の礼拝第二部では、本日から始まります世界バプテスト祈祷週間のアピールが女性会からあります。国内の宣教のみならず、海外に目を向け、世界の隅々まで神様の愛、イエス・キリストの福音が届きますように、一人でも多くの人々がその神様の愛を受け取る事ができますように、お祈りと献金による支援をよろしくお願いしたいと思います。

 今朝は、礼拝第二部でM・S宣教師が証しをしてくださいます。来週の4日の朝の礼拝では、N・S宣教師が、「イエスに従うことは価値がある」と題して、マルコによる福音書からメッセージしてくださいます。今年3月に来日されてからまだ8ヶ月ですが、ご夫妻はアメリカで来日の準備をされている頃から日本語の勉強を頑張って来られ、努力を積み重ねて来られました。先週は体調を崩されましたが、元気を取り戻してメッセージすることができるように、皆さんのお祈りのサポートをお願いしたいと思います。

 さて、連盟のオンライン会議が昨日午後にあり、「連盟のこれからの国外伝道」というテーマで意見交換がされました。2022年度は、インドネシアとカンボジアへ宣教師家族をそれぞれ派遣し、ルワンダにもミッションボランティアを派遣していますが、2023年度はインドネシアとルワンダのみの派遣となります。

 協力伝道献金が年々減少している連盟の財政難ということだけが原因ではなく、機構改革の中で、宣教師派遣の手続きをする宣教部のマンパワー不足という課題があり、連盟が責任を持って働き人を宣教の任地へ送り出すことが困難になっているという原因が確かにあります。来年度から様々なことが変更になります。連盟の変革が進められてゆきます。主の御心が成りますようお祈りいただきたい。

 しかし、日本国内を見渡しますと世界中から、特にアジア諸国から労働者や留学生が大勢来日されて、各地で生活をされています。海外へ宣教師を派遣することや、福音を携えてわたしたちが出かけて行くことが難しい状況の中で、国内でそのような方々に出会っていって、イエス様を伝えて行くこと、アジア諸国から集まってくるクリスチャンの方々とも交わり、協力してゆくことも「宣教」につながるという意識を持ち始めて、そこに注力してゆくこと、そのために共に祈って支えてゆくことが話し合われました。

 わたしたち大久保教会は、神様がこの日本に導かれる世界の方々と出会い、日本語で一緒に礼拝をささげ、交わりを深め、信頼関係を築き、そしてその方々をまた母国へ派遣してゆく国際的な教会を目指しています。アメリカの南部バプテスト連盟が、「海外宣教局」から「国際宣教局」にネーミング変更したように、「海外」ではなく、国内外を問わずに「国際的な宣教」を担うこと念頭に置き、この世界バプテスト祈祷週間を祈りつつ、ご一緒に過ごして行きたいと願います。

 さて、もう一つだけ分かち合いをさせてください。私の散歩コースにたくさんの花々や苗木を販売しているお花屋さんがあります。私はいつもそこに立ち寄って植物を眺めるのですが、最後に向かうのが「サービス品」コーナーです。「サービス」とは、聞こえは良いですが、いわゆる「売れ残り」が置かれたところです。お店側にもう売れないと見切りをつけられた苗や花々のポットが一つ税込110円で置かれています。わたしの趣味は、その「見切り品」の花々を買ってきて、元気に再生させることです。再生に失敗することもありますが、成功すると大きな喜びで満たされます。

 2週間前に散歩した時にミニバラがたくさんありました。それを12個買いました。スクリーンの写真をご覧ください。植物を再生する方法は簡単で、次の写真のように、小さくて窮屈なポットから大きな鉢に入れ替え、栄養たっぷりの土で鉢を満たし、あとは日差しの良い場所に置き、適度な水をあげるだけです。昨日もお花屋さんに行きましたら、まだミニバラがあったので7つ全部購入してきました。玄関の所にありますので、帰りがけにご覧なってください。そして花々の祝福をお祈りください。

 さて、どうでしょうか、実際問題として、社会では人から「見切りを付けられる」ということがあります。それはとても悲しいことです。またその反対に、人を「見切る」という行為も絶対にあってはならない事です。しかし、日々孤独感や寂しさを味わっている人々、社会からつま弾きにされて孤立している人々、社会から見捨てられたと感じながら苦闘している人々もおられるのが現実です。

 社会の中にあっても、家庭や職場や学校や様々な人の輪の中に身を置いても、疎外感を抱いている人、援助を求めて叫びたくても叫べないほどに小さくされている人、見向きもされない人、存在が忘れ去られている人という人々が存在し、諦めたり、人生を呪ったり、もがき苦しんでいる人たちが今も世界中に大勢おられるわけです。

 人々の只中で、傷ついたり、弱っていたり、何もかも失って困窮している人々がいます。生きる意味や人生の目的を見失って暗闇の中を彷徨って生きる人々、放蕩に身をもち崩している人々、同じ間違いを何度も繰り返している人々、深い沼に陥って自力では抜け出すことができない人々がいます。しかし、「個人の自由」、「自己責任」、「自業自得」などという言葉で切り捨てられ、見て見ぬ振りをされたり、面倒がられたりするということがあります。

 しかし、神様はそのような人々を愛しておられます。その人たちを助けたい、救いたい、光の中へ、祝福の中へと招き入れ、流れのほとりに植え替えたいと主は願っておられます。ですから、闇の中で苦しんでいる人々にイエス・キリストという救い主、世の光、神様の愛を伝え、分かち合う者として、神様から遣わされる代理人がいつの時代も必要とされています。その人とはいったい誰なのか。遠くを見渡す必要はなく、わたしたちがその人です。

 さて、8月からヨナ書を通して神様からの語りかけをずっと聴いてきましたが、これまでのメッセージをお聞きになられて、どのようなことをお感じたり、お考えになられたでしょうか。ご自分との共通性を見出すことは難しかったでしょうか。ヨナ書から神様の語りかけを聞きたいと導かれましたきっかけは、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻です。もうすでに9カ月が過ぎましたが、最近では大々的に報道されることもなりました。他にもミャンマーやイランやコンゴなど世界各地でも悲惨な状況が続いています。

 この間、皆さんの中にも怒りや不満や不安を覚えることが色々あったと思います。神様の御心はどこにあるのだろうか、いつまでこの悲惨な状態が続くのだろうかと感じ、主の憐れみを求めて祈られてきたでしょう。皆さんの日常生活においても、心の中に何かしらの怒りや不満を抱くことがあると思います。しかし、神様はわたしたちに対して、「あなたの怒りは正しいか、あなたが抱く不満は本当に正しい思いか」と問われるのです。

 さて、預言者ヨナは、ニネベの異邦人たちが悔い改めたことを受け、神様が彼らを滅ぼすことを思い直されて救われたことに納得できず、激しい怒りを抱き、「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも、死ぬほうがましです」と言って、神様に激しく抗議します。彼には神の愛や憐れみや赦しは、イスラエルに限定されるべきだという強い選民意識と偏見、差別意識があり、異邦人は神に見切られて、見捨てられて当然という考えを持っていたことが彼の言動から分かります。

 彼の根本的な間違いは、自分を神様よりも上に捉えていたことでした。ヨナはニネベは滅ぼされるべきと思い込み、そのように神様に期待していたのですが、結果は彼の思いどおりにはならなかった。ヨナは神様に裏切られたと思い込み、彼の怒りは頂点に達し、「生きているよりも、死んだほうがましです」と叫ぶのです。その叫びは、彼が自分のためだけに生きていたことを証明するものでありました。しかし、神様には他のご計画がありました。計画というよりも、神様の愛は広くて深く、すべての人に注がれるもので、神様の愛と憐れみと忍耐が示されている大きな「恵み」なのです。

 神様の前から無言で神様の前から立ち去ったヨナは、5節にあるように「ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日差しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした」とあります。「東の方」とは神様から遠く離れる方角です。「座り込む」とは、神様に対する無言の抗議・デモです。「都に何が起こるかを見届けようとした」というのは、ニネベが滅びることをまだ諦めずいたという表れでありましょう。

 そのような傲慢で、強情なヨナに対して、神様は、6節、「すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ」とあります。神様は、ヨナを愛し、彼を苦痛から救うために、とうごまの木を備えるのです。しかし、神様にはヨナに御心を教える教育的な目的がありました。それが7節と8節に記されていることです。「ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるように命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。『生きているよりも、死ぬ方がましです。』」とあります。自分に都合の良いことが起これば単純に喜び、それとは逆のことが起これば大いに落胆し、怒り、短絡的に死を願うのです。わたしたちにも思い当たる部分はないでしょうか。

 しかし、神様はヨナやわたしたちに大切なことに気付かせるために、9節で、「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」と問われます。枯れた木は、ヨナが自分で植えて、苦労しながら育てたものではなく、ヨナの知らない間に、神様が一夜にして備えてくださったもので、ヨナには好都合なもので、愛情を注いだものではありませんでした。しかし、暑さが襲い、苦しみを味わう中で、ヨナは「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです」と言って、自ら死ぬことを願います。彼は、命という恵みを非常に軽く見ています。しかし、命とは神様から与えられた恵み、何にも代え難い尊い宝物なのです。

 10節と11節前半に、「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか」という神様の問いかけがあります。11節後半には、「そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」という神様の愛の対象を示す豊かな言葉があります。

 ここに「惜しむ」という言葉が2度用いられていますが、これは「愛おしく思う」という意味です。ヨナは、自分が生み出したものではない物を失って怒り狂います。そこには自己愛しかありません。しかし、神様はご自分が造られた人間や生き物を愛され、その死を惜しまれるということが記されています。

 「右も左もわきまえぬ人間」とは人生に右往左往する異邦人を指す言葉です。神の民は律法、神の言葉が与えられていますので、神様だけを見上げ、御言葉に従って真っ直ぐに歩めば良いのです。しかし、神様はユダヤ人だけでなく、すべての異邦人を、それだけでなく動物までも愛しておられます。その愛は平等です。その愛を闇の中で示すために、救い主イエス・キリストを、世の光を、神の言葉を、この地上で苦闘するわたしたちを救い、平安を与えるためにお遣わしになられたのです。一本の木と12万以上の人々と無数の家畜が数字的に対比されていますが、神様の豊かな愛の対象は人間だけに限られるものではなく、動物にまで及ぶことが示されています。実に感動的です。

 わたしたち各自に必要なのは、まず自分自身が神様の愛の対象であることを喜び、感謝することです。周りの人が自分のことをどう見ようが、どう考えようが、どう取り扱おうが関係なく、創造主なる神様がわたしを愛してくださっていることに感動することが重要です。そのことがわたしたちの心を作り変え、周りの人々も神様の愛の対象であることが見えてきて、何の偏見も、躊躇もなく、互いの存在を認め合い、喜びあい、受け入れ合い、愛し合い、互いのために生きることができるように神様が仕える者に完全に変えてくださいます。

 日々の不安や病や日常の様々な葛藤や闘いに疲れ果て、ストレスを抱え、重荷を抱えて生きておられる人々は、わたしたちの周りにどれだけおられるでしょうか。生きているよりも死んだほうがましだと叫ぶ人々、絶望の崖っぷちに立たされている人たち、闇の中で苦しみ悶えている人たちはどれだけおられるでしょうか。

 わたしたちにその人数は把握できなくても、神様はすべてを知っておられ、その人々の只中に入って行きなさい、そして神様の愛を分かち合いなさいとわたしたちは遣わされています。神様からの恵み、主イエス様を分かち合うために生かされ、「神様に立ち返って、神の愛によって生きよ」と宣言するために、わたしたちはそれぞれのニネベへと派遣されています。

 ですから、まずわたしたちが神様の愛を受け取り、感謝し、謙遜になり、神様には忠実に、人々には誠実に生きる者とされつつ、神様の御言葉に従って行きましょう。わたしたちが遣われる場所で、神様の愛をさらに広く、深く、強く体験する恵みが準備されているとイエス様に約束されています。主に感謝!