仕え合う模範を示すイエス

「仕え合う模範を示すイエス」 3.11を覚える礼拝 宣教 2023年3月12日

 ヨハネによる福音書 13章1〜17節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。ゲストの皆さん、大久保教会へようこそ。心から歓迎いたします。教会の皆さん、お帰りなさい。今朝もご一緒に礼拝をおささげすることができて感謝です。ご覧のように、教会の屋根と正面壁が改修されました。今朝、教会に来られることを楽しみにされていた方々もおられると思います。皆さんのお祈りと献金の支援によって、建物が本当に明るく、きれいになりました。ありがとうございます。特別修繕献金も短期間で目標額の64%が献げられました。教会員の皆さん、礼拝を共にささげてくださっている客員の皆さん、ロスアンゼルスの教会の皆さんからのお祈りと献金をありがとうございます。あと36%が満たされますように、喜びの源である神様に励ましを共に祈り求めてまいりましょう。また、工事の記録が写真で丁寧に残されていますので、是非ご覧いただきたいと思います。

 さて、昨日は東日本大震災から12年目の記念日でした。朝5時半ごろの地震で目を覚まされた方もおられるでしょうか。昨日の地震は、東日本大震災を覚える日が来たことを呼びかけるリマインダーであったかもしれません。12年前の東北での大震災を覚える手段は無数にあります。しかし、わたしたちは「キリスト教会」という観点から覚える必要があると思います。12年という年月が経過しても、失った1万5900人の家族を今もなお想う人々が被災地に生きておられます。2523名の方が未だに行方不明です。自分だけ生き残ったという無念さを抱えて生きておられる方々、大切な人を助けられなかったという悔いを抱きつつ日々を送っておられる方々、今も仮設住宅で生活されている方々が東北の地に420戸おられます。未だ収束しない原発事故の影響が続く福島を中心に3万884人が避難生活をされています。

 岩手県、宮城県、福島県が最も大きな災害を受けました。それらの県にキリスト教会が建てられていることを覚える必要があります。被災地にある教会の会員の方々の多くも、牧師家庭もみんな被災者です。なかなか進まない復興の中、被災者が被災者に寄り添い、互いに助け合い、共に生きておられます。岩手、宮城、福島の3県に、日本バプテスト連盟に連なる教会が9つありましたが、1つが閉鎖になりました。また震災後、残った8つのバプテスト教会のうち、7つの教会で牧師が代わりました。牧師自身とその家族も日々大きなストレスを抱えながら教会に仕え、被災者たちに仕え、全国・世界中から押し寄せてきたボランティアの人々への対応で、心と身体のバランスを崩しても不思議ではありません。

 さて、先週の木曜日の夜、東北の被災地の復興を支援するメモリアルコンサートがお茶の水のクリスチャンセンターで開かれました。大久保教会から8名の方々がコンサートに駆けつけてくださり、会場スタッフであった私と二人の娘たちと合わせて11名が参加し、わたしは大いに励まされました。わたしは受付ホールにずっといましたが、会場から流れ出る演奏や賛美を聴いていて、コンサートは祝福されたと確信しました。会場で集められた募金は32万円以上でした。すべての片付けと感謝のお祈りが終わって、会場を出たのは10時を回っていました。身体は疲れましたが、心は喜びと感謝で一杯。会場を後にする直前に、韓国ナンバーワンサキソフォン奏者のグワァンシク・パクさんと記念写真を撮りました。

 Pさん、GMさん、Zさんたちは、今日の午後、仙台・石巻市で2回のメモリアルコンサートを開催します。本当は1回だけでしたが、強い要望で当日の追加公演が決まりました。会場は420席ですから、2回で800人以上の方々が素晴らしい演奏と歌で慰められ、励まされ、希望を抱くことができると堅く信じています。昨日のデイリーブレッドの聖書箇所は、第一サムエル記16章14節から23節でしたが、23節に「ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなった」と記されています。ピアノ、ベース、サキソフォン、ドラム、キーボードが奏でられ、美しい歌声で会場が満たされ、今も懸命に被災地で生きる人々の心が安まり、励まされるよう、今日の午後、共にお祈りください。

 わたしは、歌うことは好きですが、楽器を演奏することができません。わたしにできること、それは聖書に記されている神様の御言葉を皆さんや人々と分かち合うこと、そして人々のためにお祈りをすることです。来週19日、わたしはメッセンジャーとしてこの教会からNバプテスト教会へ派遣されます。無牧師になっているN教会の皆さんを覚えてお祈りください。1月、2月、3月と連続して派遣されていますので、信仰と希望と愛について、神様とイエス様の御言葉を分かち合ってきましたが、来週は三つの愛についてお話をし、その三つの愛のバランスをとる事が重要であることをヨハネによる福音書13章後半からお話しする準備をしています。神様を愛し、隣人を愛し、教会の家族の中で愛し合うことのバランスがテーマです。大久保教会でメッセージを聞いておられる方々は、わたしがどのような事を分かち合うか予測がつくと思います。どうぞ働きを覚えてお祈りください。

 さて、今年のレント・受難節では、イエス様の愛の行動・行い、「Jesus’ Acts of Love」というテーマで福音書から分かち合いをさせていただいておりますが、先週はマルコ福音書に記録されている弟子たちとの最後の晩餐での出来事から、主イエス様はわたしたちを救い、神様との契約を新たに結ばすために、ご自身の体と血を十字架上で分け与えてくださったこと、その裂かれたイエス様の体と流されたその血潮の意味と目的について聞きました。

 今朝は、同じイエス様と弟子たちとの最後の晩餐の中で、イエス様が弟子たちの足を洗われたというヨハネによる福音書にしか記されていない出来事から三つのことをお話ししたいと思います。今朝の主題を「仕え合う模範を示すイエス」としましたが、イエス様は弟子たちの足を洗われる中で三つの模範をわたしたちに示されたと思います。一つ目は、謙遜に生きる模範。二つ目は、仲間を愛する模範。三つ目は、心から人々に仕える模範です。

 ヨハネによる福音書では、13章からイエス様の受難の物語が始まりますが、その序文が1節の「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」という言葉です。イエス様は、弟子たちを、そしてわたしたちを愛して、愛し抜かれる救い主です。そのイエス・キリストは、弟子たちへの愛を彼らの足を洗うという行動で示されました。

 まず、一番目の「謙遜に生きる模範」ということをお話しします。1節に「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」とあり、また3節には「父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」とありますが、これは神様の御心を第一にされるイエス様の謙遜さが現れている言葉です。自分ではなく、自分の思いでもなく、神様を第一にし、神様の御心を最優先してゆく時、本当の意味で謙遜になれます。自分の力を遥かに超えた大きな働きを成すことができるように、神様が愛をもって力を豊かに注いでくださいます。

 わたしたちにとって最も難しい行動は、自分を裏切った人、これから裏切ろうとしている人を受け入れること、許すことではないでしょうか。皆さんはどうか分かりませんが、わたしはそこまで寛大にはなれません。しかし、イエス様は違うのです。2節に「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」とあり、11節では「イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた」とあります。ユダの裏切りを知った上でイエス様は次に何をされたでしょうか。

 4節から5節に、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」とあります。人の足を洗うのは、誰もやりたがらない事、当時は奴隷や使用人がさせられた汚い仕事です。しかし、イエス様はユダの足も洗われるのです。わたしであれば、ユダを最初に排除したでしょう。しかし、イエス様はユダを受け入れ、彼の足を洗いました。ユダを愛していたからです。ユダはどのような思いで、イエス様が自分の足を洗う様子を見ていたでしょうか。ユダやわたしたちの思いは二の次で、大切なのは、裏切る者さえも受け止めるイエス様の愛の深さと本当の謙遜さです。イエス様は、どのように謙遜に生きるかの模範をわたしたちにここで示されるのです。

 二つ目の模範は、イエス様が弟子を愛されるということから、わたしたちが「仲間を愛する」という事です。6節から10節に、「シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、『主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか』と言った。イエスは答えて、『わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる』と言われた。ペトロが、『わたしの足など、決して洗わないでください』と言うと、イエスは、『もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる』と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。『主よ、足だけでなく、手も頭も。』イエスは言われた。『既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい』」とあります。

 ペトロは、自分の足を洗われる事を拒絶し、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と聞くと、今度は「足だけでなく、手も頭も」と言い出します。イエス様の行動の意味と目的をまったく理解できていない証拠です。

 「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」ということですが、「後で」というのはイエス様の十字架に死と復活の後という意味です。そして「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」というのは、イエス様が弟子たちの罪を肩代わりして贖いの死を遂げなければ、罪を洗い清めなければ、弟子たちの罪は神様に赦されない、つまりイエス様を通して神様から救いを得ることができなくなるということです。この救いを通して神様の愛を心で理解することができるようになり、神様の愛を受けて、隣人や仲間を愛する力がイエス様を通して与えられてゆく。そうしたら、隣人や仲間のために普通は避けたがる汚いことや煩わしい事をイエス様のようにできるような謙遜さが与えられてゆく、その模範をイエス様は示されたのです。

 弟子たちの足を洗われる一連の行動の中で注目すべきは4節の「上着を脱いだ」というイエス様の動作と12節の「上着を着た」というイエス様の動作です。「脱ぐ」というギリシャ語(ティセミー)はヨハネ10章17節でも使用されていて、そこでは「命を捨てる」の「捨てる」と訳されています。「着る」というギリシャ語(ランバーノ)は同じ10章17節では「再び自分のものとする」と訳されています。つまり、弟子の足を洗うという行動は、イエス様の十字架の死(命を捨てる)という出来事と復活(再び命を得る)という出来事に繋がっていて、イエス様の十字架の死と復活を信じる恵みによって救いがあるということです。

 イエス様は示された三つ目の模範、それは「心から人々に仕える」という模範です。イエス様は12節後半から15節でこう言われます。「さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と。

 弟子たちは、みんなそろって傲慢で、いつも弟子たちの中で誰がイエス様に愛され、信頼されているか、誰がイエス様に忠実かということを競い合っていました。いつも自分と他の弟子だけを見て、比べ合ったりしていました。しかし、そのようなことをしていると、みんなバラバラになり、神様の愛を、イエス・キリストの福音を分かち合うことができなくなります。ですから、イエス様は弟子たちに、まず神様を見上げて謙遜になりなさい、神様の愛をいつも受けて互いに愛し合い、受け入れ合いなさい、教会を建て上げるために互いに心を配り、仕え合いなさいということを愛の行動をもって模範を示してくださいました。

 17節に「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」とありますが、主の御心を知り、イエス様のお言葉通りに主には忠実に、人には誠実に生きるならば、あなたがたは神様から豊かな恵みを受けると励まされています。救い主イエス・キリストは、十字架の死へ向かってゆく中で、ご自分の使命を認識し、神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合うことの模範を示され、主の忠実な僕として生きてゆきなさいと励ましてくださるのです。このイエス様の言葉と示される模範に従って、共に歩み、主の栄光をあらわしましょう。