光と闇の狭間に生きる者のために主は

「光と闇の狭間に生きる者のために主は」 八月第一主日礼拝 宣教要旨 2016年8月7日

ヨハネの手紙一 2章7〜17節       牧師 河野信一郎

4年に1度のオリンピックがブラジル・リオで開催されています。サッカー、バレーボール、柔道、体操、卓球で試合に勝てば脚光を浴び、負ければ暗雲が立ちこめます。また、輝かしいオリンピックの影で犯罪があったり、ドーピングによる失格・追放がある訳です。

オリンピックに歓喜している人たちがいる日本で、被災地や沖縄では苦しみがずっと続いています。繁栄の反対側には、病気や貧困問題や差別に苦しみ悶えている人たちが存在している。良いことがあれば喜び、悪いこと・悲しいことが起れば憂える。わたしたちは、そのような光と闇の狭間に生きています。

このヨハネに手紙を読み進めてゆく時、「光と闇」、「真理と偽り」、「義と不義」、「愛と憎しみ」という反対語がところどころに登場します。その理由は、この手紙を受け取った諸教会に異端的な教えが入り込んできて、イエスはキリスト・メシヤではないと否定する者や不道徳と言いましょうか、神が悲しまれる生き方をする人たちが実在していたからです。

わたしたちは、何が善であり、何が悪であるのか、また何が愛であり、何が憎しみなのか、強いて言えば、何が神に喜ばれることであり、何が悲しませるものなのかを心の奥底では判っていると思います。そして出来る限り、良い行いをし、自分だけでなく人を愛し、神の喜ばれることをしたいと心の奥底で思っています。しかし、そのように出来る時と出来ない時があり、心で判っていても身体が言うことをきかないということがあります。また、この人は愛し、許せても、この人は許せないと恨みや憎しみを持って生きることがあります。毎日でなくても、時々そういうことがあります。信仰においても、光と闇の狭間でもがくことがあるのではないでしょうか。しかし、そのようなもがき苦しみからわたしたちを救い出し、光のうちに歩ませるために主イエスはこの世に来てくださいました。

暗闇の中で、自分が誰なのか、何処に向かって生きているのか、何のために生きているのか判らない。そのようなわたしたちに救いの手を差し伸べるために主イエス・キリストは来て下さり、わたしたちの罪を贖うために十字架に架かり、その命を捨てて下さいました。この愛をわたしたちは覚えなければなりません。主イエスは、光と闇の狭間で苦しみ悶えるわたしたちを解放するために、わたしたちのもとに来て下さった。

そうであるはずなのに、何故わたしたちは今も光と闇の狭間で苦しむのでしょうか。主イエスにしっかりつながっていないからではないでしょうか。サタンに心の隙間に入り込む余地を与えてしまっているからではないでしょうか。主イエスを見上げずに、周りの人たちばかりを見たり、自分に酔いしれているからではないでしょうか。自分のことを王様、お姫様のように思い込み、人々に仕えるのではなく、仕えさせてしまっているからではないでしょうか。しかし、救い主イエス・キリストは神に仕える僕のようにわたしたちに仕え、罪人であるわたしたちを救ってくださいました。その救いは、過去・現在・未来において不変です。わたしたちが悔い改めて、主なる神に立ち返るまでわたしたちを愛し続け、赦し続け、祈り続け、仕え続けてくださるのです。しかし、はたして、本当にそのような状態のままでこれからも良いのでしょうか。

ヨハネの手紙一の2章7節から17節は、大きく2つに分けられます。7節から11節は、神が救い主を通してわたしたち教会に求めておられることです。それは「互いに愛し合う」という一言に尽きます。7節と8節に「古い掟」とありますが、この掟は主イエスが十字架に架かる前に弟子たちに与えた「新しい掟」です。しかし、ヨハネが「古い掟」というのは、最初の弟子たちが主イエスから直に受け取った時代からクリスチャン2世(2代目)、3世(3代目)の時代に入っていたことを示します。しかし、時代が移り変わっても、主イエスと神がわたしたちに求めておられることは変わりません。つまり、わたしたちが光の中に歩み、兄弟姉妹を愛して生きる、互いに愛し合うことです。これがわたしたちの結ぶべき実です。

さて、12節から17節は、光と闇の中に、真実と偽りの中に、平安と不安の狭間に、希望と失望の狭間に生きるわたしたちを励ます言葉です。12節に、「子たちよ。わたしがこの手紙をあなたがたに書き送っているのは、イエスの名によってあなたがたの罪が赦されているからです」と宣言しています。何と言う力強い励ましの言葉ではないでしょうか。わたしたちの罪はすでに主イエス・キリストの名によって赦されている。わたしたちは罪人であり、罪の赦しを受ける資格など全くないのに、ただ神の深い憐れみと愛ゆえに、主イエスの十字架の血潮と死によって罪赦されているから、ただ信じなさい。すべての不安と恐れを主イエスに委ね、それでも心に平安がない時には、主イエスの名によって神に祈り求めなさいと励まされているようです。

13節前半に、「あなたがたは初めから存在なさる方(キリスト)を知っている・信じているのですから、しっかりとこのお方につながり続けなさい」と励まされ、13節後半では「キリストの助けによりあなたがたは悪い者に打ち勝ち、これからも勝利し続けることができるから、信仰をしっかり持ちなさい」と励まされています。14節前半では、「あなたがたは主イエスの父であり、あなたがたを愛して下さっている神を、キリストを通して知り、信じているのですから、このお方を信じ続け、委ね続けなさい」と励まされています。14節後半では、「あなたがたを強くしてくださる神がキリスト・イエスという『言葉』を与えて下さり、この言葉を通して聖霊があなたを守り、悪に打ち勝つ力をくださるから勇気を出しなさい」と励まされています。

これ程までにわたしたちは神と御子イエスとご聖霊に愛され、憐れみと恵みのうちに行かされているのですから、「この世にも、この世にあるものに執着して愛してはいけません」と15節で励まされています。もしこの世のものを愛するならば、神への愛はその人のうちにはありません。何故ならば、16節で「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出ているからです」とあります。つまり、この世は神によって創造されたものですから、神に敵対するサタンの支配下にあるからです。「世も世にある欲も、過ぎ去っていきます。しかし、神の御心を行なう人は永遠に生き続けます」と17節にあります。この節で語られていることで大切なことは「神の御心を行なう人」です。光と闇の狭間で苦しむわたしたちに寄り添い、神の愛と御心を伝え、神の愛に生きさせようと主イエスはこの世に来て下さり、その貴い命をわたしたちに与えてくださいました。このお方は、昨日も、今日も、明日もいつも共にいて、この地上での歩みを導いてくださいます。この主イエス・キリストを信じて従うことへとわたしたちは招かれています。