共に忍耐し、希望を抱き、祈る

「共に忍耐し、希望を抱き、祈る」 11月第二主日礼拝 宣教     2018年11月11日

ローマの信徒への手紙8章18節〜30節       牧師 河野信一郎

今朝もご一緒にローマの信徒への手紙を読み進めてまいりたいと思いますが、先週は、8章14節から17節を通して、私たちがほめたたえている神様は、私たちを神の子、また相続人としてくださる神であられるということを聴きました。

14節でパウロ先生は、イエス様を救い主と信じる人の心に神の霊が与えられ、この神の霊・聖霊によって導かれる人は皆、「神の子なのです」と宣言します。つまり、イエス様を救い主と信じることで、罪の奴隷であった私たちが、主イエス様の贖いによって罪赦され、罪と死の恐怖から解放され、神様の家族の一員として数えられ、永遠の祝福に与るということです。

もし神様の子どもであれば、私たちは神様の相続人でもあるということを聴きました。では、私たちは何を相続するのかと言う問いについて聴きました。私たちが主イエス様を通して相続するのは、大きく分けて2つある。一つは神様が用意してくださっている天国での永遠の祝福:永遠の命と言う宝。

もう一つは、この地上で相続するもので、主の僕として、イエス様の十字架と復活を証しし、神様の愛を宣べ伝える働き、つまり主イエス様と同じようにこの世に仕えて生きると言う任務です。そしてそのような任務に就いたことを喜び感謝し、神様の御心に従って忠実に生きようとしたのが、この手紙を書き記し、ローマにあるクリスチャンたちに送ったパウロ先生です。

しかし、そのパウロ先生が私たちにこう言うのです。私たちは人間の弱さ、罪にあふれた不完全な世界の中で生きているから、私たちのこの地上での人生には苦しみが伴うと。

この地上での人生には、数え切れないほどの戦いが日々連続してあります。クリスチャンになったからと言って、問題や不幸が全くなくなると言う訳では決してなく、むしろイエス様を信じる者であるからこそ日々歩む中では困難がいつもつきまとう。戦いがある。

サタンが巧みに誘惑してきたり、激しく襲いかかってきて、私たちを主から引き離そうとし、主に不忠実な者にしよう、罪の中に引き戻そうとします。しかし、パウロ先生は17節の後半でこのように言います。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるから」と。先週の礼拝の中で私たちが聞いたのは、「キリストと共に」と言うことでした。

つまり、私たちは一人だと思っていても、決して独りではないということ、イエス様が共にいて、共に苦しんでくださる、悩んでくださる、共に涙を流してくださる、共に祈ってくださる、いつでも必ず一緒だから大丈夫だということです。それが神様の私たちへのこの地上での固い約束なのです。私たちは、この約束を信じる信仰へと招かれています。目の前の困難に気を取られたり、翻弄されて不安になったり、失望するのではなく、キリストに目を注ぎ、イエス様に従ってゆくことが大切であることを聴きました。

今朝の宣教は、先週の宣教の続きになりますが、今お話ししました神様の恵みを私たちがどのように分かち合うことが神様の御心、神様が私たちに求めておられることなのかと言うことをご一緒に聞いてゆきたいと思いますが、今朝の宣教主題にもありますように、教会という信仰のコミュニティの中で、イエス様を救い主と信じる同じ信仰が与えられている神様の家族の人たちと一緒に、共に忍耐し、共に希望を抱き、共に祈ることが神様の御心ではないかということを聴いてゆきたいと願っています。

パウロ先生は18節で、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と言っています。パウロ先生の言う「現在の苦しみ」とは何なのか、イエス様を信じる人たちに差し迫っている迫害なのか何なのかわかりません。しかし、わたしたちに分かる「現在の苦しみ」、それはわたしたちそれぞれの心に今ある苦しみではないでしょうか。皆さんの心には、今どのような苦しみ、悩みがあるでしょうか。

パウロ先生は、様々な各地の教会に書き送った手紙の中で、自分が体験した苦難を繰り返し語っています。第二コリント6章4節5節を見ると彼の受けた苦難というのは、「欠乏、行き詰まり、むち打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」などであったと記されています。同じ第二コリントの11章にはもっと具体的な苦難が記されていますが、今朝はそのような苦難に目を止めるよりも、もっと基本的なことに注目したいと思います。

つまり、パウロ先生は、自分の苦しみを教会の兄弟姉妹たちと分かち合っていると言うことです。パウロ先生は、「私はこんなにもキリストのために苦労し、あなたがたのために苦しんでいますよ。偉いでしょ!」と自慢するためにそう書いているのではありません。「わたしの苦しみを分かち合うことで、幾分かでもあなた方の慰めに、励ましになるように、あなた方がイエス様から離れず、神様からいただいた信仰を捨てないようにするために」という強い思いがあったからだとわたしは信じます。

主の恵みを分かち合うとは、「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣きなさい」とパウロ先生が言うように、嬉しいこと、感謝なこと、感動したことを分かち合うだけではなく、心の中にある痛みや悲しみ、苦悩、辛いことも一緒に分かち合って、共に忍耐すると言うことではないでしょうか。表面的なことだけの薄っぺらい付き合いではなく、神の家族としてのもっと内面的と言うか、心に関わること、弱さにも関わることを分かち合うと言うことではないでしょうか。

ただ何でもかんでも分かち合うと言うことではありません。しっかりと境界線を引くこと、節度を保ち、相手を尊重することも重要です。自分勝手になっては相手を苦しめ、傷つけることにもなりかねません。しかし、喜びも悲しみも分かち合うと言うのは、互いを受け入れあうと言うことであり、共に生きると言うことではないでしょうか。

わたしたち人間だけがこの地上で苦しんでいるのでは決してありません。パウロ先生は、被造物も私たちの罪ゆえに苦しんでいることを決して忘れてはいけないとここでわたしたちに釘をさし、19節で「被造物は神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」と言っています。

神様は人間にすべての被造物を治めさせる責任を与えましたが、神様に対して罪を犯し、不従順に生きることによってすべての被造物に対する治め方を間違え、従わせようとした結果、被造物は「虚無に服し」、「滅びへの隷属」、「産みの苦しみ」を強要され、今うめいているとパウロ先生は言っています。この被造物のうめきは、人間による自然破壊によって引き起こされているオゾン層の破壊から来る自然災害に現されていると言えると思いますが、この傷つけられ、破壊され続けている被造物は、私たちと共にうめき、神様の救いの完成を待ち望み、いつか虚無や隷属、苦しみから解放されることを待ち望んでいる。その救いの完成のためには、神の子たちが現れることが必要不可欠で、自分勝手に罪に生きてきた人間の悔い改めが重要であることを指摘しています。私たちが神の子とされ、神様から託されている被造物、自然を大切にすると言うことに立ち返ることが大切であります。

さて、23節に「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり体の贖割れることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」とありまして、これは先ほどすでにお話したことですが、「“霊”の初穂をいただいている私たち」と言うことだけをお話します。「“霊”の初穂」とは、キリスト・イエスの甦り、ご復活を意味します。このイエス様の甦り、復活があるからこそ、私たちは死の先にある永遠の命に希望を持つことができるわけです。もしイエス様が甦っていなければ、わたしたちは永遠の命を希望として持ち、希望に伴う平安を得てこの地上で生き続けることはできないのです。

現在の苦しみは確かに苦しいのですが、永遠の命が約束されているから、私たちが近い将来神様から賜る救い、永遠の命、慰め、祝福に比べるとその苦しみは取るに足らない、今の苦しみは一時的なものであって、永遠に続かないし、「私たちは、このような永遠の命の約束、希望によって救われているのです」とパウロ先生は24節から26節で私たちを励ますのです。

私たちが共に待ち望むべきものは、いま私たちに見えるもの、手に触れられるものではなくて、この地上での生活が終わった後に与えられるものなので、今は共に忍耐して待ち望むしかないのです。一人で忍耐し、待ち望むのではなく、「共に」なのです。

さて、私たちはイエス様を救い主と信じる時、神様の恵みによって信仰が与えられ、神の子とされます。そして、神の子は集められて、他の神の子たちと共に主の道を歩み、主に従うように教会というコミュニティ、神の家族に繋げられます。しかし、私たちはそれぞれに欠けや弱さを持つ者です。主に従いたいという強い思いがあったとしても、主の助けなしに世の中で、また教会の中で互いに愛し合い、支え合い、仕え合うことは至難の業です。しかしその私たちを助けてくださるのが神様であり、神の霊・ご聖霊なのです。

26節から27節に記されている神様の霊・ご聖霊のことを少しお話します。

私たちが日常生活で疲れ果て、霊的にも弱さを感じているとき、私たち一人一人を慰め、励まし、力づけてくださるには、神様の霊です。身体的・精神的な弱さのあまり、希望を見失い欠けている私たちをその都度助け、祈ることを忘れている私たちを祈りへと導くのが神様・ご聖霊です。私たちが祈ることもできないほど憔悴し、うめくことしかできない時に私たちを憐れみ、祈り中で言葉を与えてくださり、またわたしたちに代わって執りなしてくださるのも神様の霊・聖霊です。私たちには、いつも神様の伴いとご配慮、備えがあるということを心に留めて歩ませていただきましょう。

もう一つ大切なことが28節に記されています。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とあります。

パウロ先生がこの8章前半でわたしたちに伝えたいこと、それは「神を愛する者たちの万事を主なる神が共に働いて益としてくださるから、それを約束と信じ、すべての不安や恐れ、苦しみから解放され、喜びなさい、希望を持ちなさい、たとえ苦しみがいまあったとしても忍耐し、絶えず祈りなさい」ということだと私には聞こえてきます。

「万事」というのは、全被造物や私たちが置かれている現在の苦しみを指していると思います。そして「益」とは、この8章18節から27節までを踏まえて言うならば、18節にある私たちが将来受けると約束されている栄光、21節にある全てのしがらみからの解放、23節にある「贖い」という言葉にあるように、益とは「神様の救い」ということです。この救いを私たちに与えようとして神様はイエス様をこの地上に救い主としてお遣わしくださり、贖いの死を遂げさせ、私たちに永遠の命を与えるために死人の中からイエス様を甦らせられた。このイエス様を信じる信仰によって救われた恵みを私たちが日々分かち合うことが神様の御心であり、求めておられることではないでしょうか。この御心に従ってゆく時、主イエス様に従ってゆく時に神様は私たちをキリスト・イエスに似た者にしてくださり、聖られ、整えられて神様の御国へと迎えられてゆくと信じます。私たちが悩むときも、試みに遭うときも、弱るときもいつも共にいてくださる主を仰ぎみて、共に忍耐し、同時に希望を抱き、祈りつつ、歩んでまいりましょう。