初めと終わりを創る神

宣教要旨「初(はじ)めと終(お)わりを創(つく)る神」   大久保バプテスト教会 石垣茂夫2019/08/18

招詞:ヘブライ人への手紙11章21節  聖書:創世記50章1~3節、50章15~21節(p92)

今朝は、創世記全体を見渡すために、創世記の終わりであり、ヨセフ物語の最後でもあります第50章を取り上げてみます。宣教題を「初めと終わりを創(つく)る神」としましたが、この言葉の意味は「この世界を創(つく)り、その業を始められた神は、愛と責任をもって世界の終わりをも備えてくださる」という事です。この世界は、破滅という終わりに向かうのではなく、イエス・キリストの再臨へと向かっている、それが神の業であると、聖書は全巻を通して伝えています。

『初め良ければすべて良し』

7月と8月は、「創世記」がテキストですので、スイスの牧師リュティーの「創世記からの説教」(三分冊)を読んでいます。この説教集の創世記1章と、終わりの50章の説教は、『初め良ければすべて良し』A good beginning makes a good ending.この格言で始められています。

『初め良ければすべて良し』。創世記によりますと、確かに神がお創りになった世界は、始めは神ご自身が「良し」と言われたほどに、好ましくあったのです。

しかし、神と人間との信頼関係は、人間の不従順によって、事あるごとに崩れ、創(つく)られた神ご自身が大変苦しむほど堕落し、その状況が繰り返されていったのです。「創世記」は人間の不従順と神の忍耐との繰り返しで描かれていると言っていいほどです。果たして、終りは『すべて良し』となるのでしょうか。

そうした中で神は、終りに向かって生きる人間が「ただ一つの悪」、そこには陥らないようにと守っていかれました。「ただ一つの悪」、それは「不信仰」です。「神なしで生きる」と言い替えてよいと思います。

「ヤコブの死と葬儀」

ところで、わたしたちも、それぞれの人生の最後に、死を迎えますが、族長ヤコブの最後、信仰者としての最後はどのようなものだったでしょうか。

50:1 ヨセフは父の顔に伏して泣き、口づけした。

50:2 ヨセフは自分の侍医たちに、父のなきがらに薬を塗り、防腐処置をするように命じたので、医者はイスラエルにその処置をした。

50:3 そのために四十日を費やした。この処置をするにはそれだけの日数が必要であった。エジプト人は七十日の間喪に服した。

ヨセフは父ヤコブが死んだあと、父の埋葬の準備に取り掛かりました。

しかしここはエジプトです。エジプト人は死者を崇拝し、この世の生活が死後もそのまま存続すると考えていました。そのために亡骸を朽(く)ちるに任(まか)せることはできず、巧妙な遺体の保存技術で、ミイラにしました。ミイラとは「蝋」(ろう)、という意味だそうです。

驚くことに、ヤコブの埋葬はエジプト流でなされ、一般の人たちは70日間、喪に服したとあります(50:3)。これはエジプト王ファラオの喪の期間72日にわずか二日及ばない期間です。

ふと、「ヤコブの葬儀」がエジプト流で盛大になされたこと、これが頂点かと思われてしまいますがそうではなかったのです。いかに立派な葬儀であっても、ヤコブもヨセフも、これで終わることを望んではいなかったのです。エジプトの流儀に身を任せながらも、あくまでも「主なる神の言葉」に従い「異教の地エジプトとは、出ていく所」との信仰がここで対比されています。神は一人一人を、信仰を持って生涯を閉じるようにと、こうした場面でこそ導れます。

神はそれを善に変え

50:15 ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。

父ヤコブが目を閉じるや否や、息子たちの間には、過去になしたヨセフに対する悪行が思い出され、急速に不安に覆われていきました。

50:20 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。

子どもメッセージでも触れた言葉ですが、創世記の最後になって、ヨセフは兄弟たちに向かってこう言いました。「あなたがたは悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせられた」(口語訳50:20)と言ったのです。

「人間は悪をたくらむが、神はこれを良きに変えられる」。この言葉は「創世記」を根底から支え、聖書全体を貫いている愛なる神のみ心です。

この事を、新約聖書の記者たちは次のように捉え、伝えています。「神の子キリストを十字架に付けるという人間の悪、この人間の過ちを、神はこの世の救いへと変えられた」。

わたしたちの想像を超えた、神の愛がキリストの十字架において、表わされました。

 

ご紹介しましたスイスのリュティー牧師の説教は、今から60年前になされたものです。1960年前後の時代でした。当時の世界は、大国が核実験を行い、核開発という美名のもとで競い合い、核兵器を造り続けていく、そのような時代でした。牧師リュティーは毎週のように、核の危険性と危(あやう)さを繰り返し指摘していました。ヒロシマを悼(いた)み、核軍縮への祈りを捧げ、特に「終わりを創る神」を強く語り続けました。この世界は今、その時代にもまして悪が繁栄しています。人間の間に起こる憎しみは増幅しています。しかしこの世界は悪の繁栄で終わることはありません。憎みあって終わるのではありません。この世界はキリストの再臨に向かっています。神こそが最後の判断をなさるお方です。そのことをまず、私たちキリスト者が信じましょう。

招詞でお読みいただいた御言葉からは、わたしたちの生涯の終わりにあたっては、このようにさせていただきたいと導かれ、選ばせていただきました。ご一緒に読みましょう。

ヘブライ11:21  信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人

ために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。(参照:創世記47:31)

初めを創られた神は、愛と責任を持って終りをも創られます。

ヤコブはもう、目が見えず自力では立てなくなっていましたが、それでも「杖の先に寄りかかって神を礼拝した」のです。ヤコブは、生涯の終わりに到って、自分の滅びを嘆くのでなく、子孫のために祈り、神に向き合う自分の姿勢を整えて礼拝しています。このヤコブの信仰に倣って歩ませて頂きましょう。