力と愛と慎みを与える聖霊

「力と愛と慎みを与える聖霊」 六月第一主日礼拝宣教 2021年6月6日

 テモテへの手紙Ⅱ 1章7節〜14節      牧師 河野信一郎

 おはようございます。早いもので6月に入りました。今朝もご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。東京も梅雨に入り、冷たい雨がよく降るようになりました。教会の花壇の花々、植物たちは喜んでいますが、雨の日の合間には夏日のような気温が上がる日もあり、体調管理が難しい季節となりました。ワクチン接種も始まりました。新宿区は20代30代への接種を先に重点的にするそうで、50代半ばの私の順番はいつになる事やらと思いながら、感染しないように努めております。ワクチン接種に前向きな方や否定的な方、心待ちの方や不安の方もおられると思いますが、お大事にお過ごしいただきたいと思います。

さて、6月20日まで緊急事態宣言が延長されていますので、解除明けの27日から礼拝堂での対面式の礼拝が再開できればと切に祈っておりますが、それまではオンラインで礼拝をささげてまいりましょう。この礼拝をライブで配信するために奉仕者が5人体制で頑張ってくださっています。宣教師ご夫妻と私の身内の家族ですが、いつも感謝の気持ちいっぱいです。若者たちは毎回ガンバってその賜物をささげてくれていますが、前日に部活やアルバイトがあるとやはり疲れてしまい、翌日の日曜の朝に起きるのが大変です。朝の礼拝と夕礼拝がある日は、礼拝の合間に昼寝をしますと、4時からのリハーサルのために起き上がるのがもっと大変になります。疲れがあると小競り合いと言いましょうか、小さな兄弟喧嘩がよく起こります。夕礼拝後の夕食は、よく頑張ったと労いと感謝を込めて彼らの好きなピザや美味しいチキンなどを食べさせてあげようと努力はしていますが、わたしたちは若い奉仕者だけでなく、共に教会の働きを担ってくれている方々のために、いえ、奉仕者だけでなく、一緒に教会生活をしている神の家族の一人ひとりに対して、いつも何を心がけてすべきでしょうか。

皆さんは、職場やコミュニティの中で、同僚やご年配の方や若い方たちに日々どのように接しておられるでしょうか。何をいつも心がけておられるでしょうか。言葉をかけて励ますことではないでしょうか。色々な形で励ますことはできますが、優しい言葉をかけること、その人の存在自体を喜び、その働きをよく認め、心から感謝することが励ましになるのではないかと思います。つまり、わたしたちに必要なのは互いに「励まし合う」ということです。

人間関係の中で頻繁によく起こるのが競争、プレッシャーをかけること、批判すること、悪口を言ったり、噂話を始めることで、それらは人を萎縮させたり、追い込んだり、心を弱らせたりします。しかし、人間関係の中で最も大切にし、常になすべきことは励まし合うことです。励まし合うことは、共に前進する大きな力になります。たとえ過酷な状況にあっても、重荷を多く担っている時であっても、くじけそうになる時でも、いつも自分を認めてくれる人がいて、心を自分に向けて前向きで優しい言葉、励ましの言葉をかけてくれることは大きな力となり、困難な時期を耐えることができます。祈りを通して励ますこともできます。言葉がなくても、一緒にいてあげるだけで弱った人の慰め、心が折れそうな人の励ましになり得ます。いつも心がけること、それは周囲に存在する大切な人たちを励ますということです。

先月の5月は聖霊降臨日がありましたので聖霊の働きについてご一緒に聴きましたが、6月の朝の礼拝でわたしが宣教をする時は、テモテへの第二の手紙から神様の語りかけを共に聴いてゆきたいと祈りつつ準備しています。欲張りな者ですから、7月まで少し延長があるかもしれませんが、主の導きに従いたいと思っています。今朝は聖霊の働きについて聴いた流れに沿って、「力と愛と慎みを与える聖霊」と題して宣教をさせていただきます。新共同訳聖書では「力と愛と思慮分別の霊」と訳されていますが、「思慮分別」を「慎み」に変えました。

新約聖書には、使徒パウロが弟子のテモテに書き送った2通の手紙が第一の手紙、第二の手紙として加えられており、「どうせシリーズで宣教するなら第一の手紙から始めたら良いのに」と感じられる几帳面な方もおられるかもしれません。確かにそうかもしれませんが、第一の手紙と第二の手紙では、書き送られた時期も違いますし、一番の違いは手紙の特色といいましょうか、テーマが大きく違います。第一の手紙というのは、教会を牧会する若き牧会者テモテに対して教会役員の資格に関してや様々な年齢層の教会員、性別の違う人々にどう接してゆくべきかなどが記されていますが、今回ご一緒に聴いてゆく第二の手紙は、若き牧会者テモテを励まし、また様々なアドバイスを与える個人的な内容となっています。この手紙を読んでゆくと、自分の命に限りがあると察知したパウロが多くの課題を抱えてもがき苦しんでいるテモテを愛し、彼のために日々祈り、励まそうとしている熱意が伝わってきます。

わたしたちも18ヶ月に亘るコロナ危機の中で、様々な課題に直面し、知らず知らずのうちに心が疲れ、弱り果てています。長いトンネルの出口がなかなか見えないで不安を抱き、苦闘しています。教会で、礼拝堂で皆さんにお目にかかれない、ご一緒に礼拝できない日々が続く中で大きな寂しさ、悲しみを覚え、それが積もり積もっています。連絡が途絶えてしまった人の事が頭から離れません。アフタコロナのことで色々考えたり、悩んだりする。伝道のことで良い提案があっても、どこか内向きになり、前向きになれない部分がある。希望が、励ましが今必要と感じます。ですから、この第二の手紙を共に聴いてゆきたいと思いました。

使徒パウロには、我が子のように愛している大切な弟子テモテがいました。第一回目の伝道旅行の中でテモテはイエス様を救い主と信じ、第二回目と第三回目の伝道旅行に参加し、パウロと苦楽を共にしました。一緒に過ごす中で、テモテには教会を監督・牧会するリーダー的才能というか、主を愛する思いと、教会に仕える誠実さを兼ね備えられていると確信し、彼をエペソにある教会の牧会者として抜擢し、エペソの地に残しました。しかし、その地の教会にはその後に異端的な教えが入り込んだり、無意味な議論を好む人や傲慢なお金持ちが教会にいて、奴隷の問題や金銭に関わる問題が数多くあり、テモテは苦労していたようです。

第一テモテの手紙4章には使徒パウロのテモテに対する有名な言葉があります。「あなたは、年が若いということで、誰からも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい」との言葉ですが、この言葉を裏返すならば、年若く経験の浅いテモテは牧会者として何度もなんども大きな壁にぶち当たり、苦しみ悩むことがあったのだろうということです。彼は孤独であったのだろうと思います。

20年前のわたしを知っておられる方々は痛いほど覚えておられると思いますが、アメリカ帰りで日本社会の右も左も分からない孤独なわたしは、大久保教会の牧師としてやってはいけない重大な間違いや牧会的な判断ミスをくり返しました。あの時に致命的な間違いをしていなければ、大久保教会は祝福されてもっと大きく成長していたのではないかと悔やまれる部分が多々ある訳ですが、当時の状況は本当に苦しかったとしか言えず、傷となって残っています。しかし、わたしよりも教会員の皆さんの方が当時苦しまれたと思います。それでも祈って忍耐してくださった方々が今の大久保教会を支えてくださっており、感謝しています。

優柔不断なわたしと違い、純真で誠実な人柄であったテモテは、神様に望みを置き、主イエス様をいつも見上げ、パウロ先生の励ましに後押しされて誠実に教会と人々に仕えていたことでしょう。しかし、パウロ先生の第二テモテ1章4節の「わたしは、あなたの涙を忘れることができず」という言葉から、テモテが涙を流しながら苦闘していたことがうかがえ、心が張り裂けそうになります。しかしパウロ先生は続けて5節でこう書き送るのです。「あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしつつ、祖母と母から受け継いだ主を愛する信仰があなたに宿り続けていると、わたしは確信しています」と。とてつもなくパワフルな励ましの言葉ではないでしょうか。わたしはそのように感じます。しかし、パウロ先生のこの「確信」は、一体どこから来たのでしょうか。そうです。他でもない、2節にもありますが、恵みと憐れみと平和の源である父なる神様と主キリスト・イエス様から来た、主なる神様とイエス様を信じる愛と信仰から来たと言っても間違いはないと思います。

わたしたちの希望、救い、信仰の確信はどこから来るのでしょうか。そうです。父なる神様から、救い主イエス・キリストから来る、主から与えられるのです。西暦2021年に生かされているわたしたちにも思い悩むこと、苦しむこと、悲しみ痛むこと、希望を失いかけるほどに心身ともに疲れ切り、弱り果てる時があります。何もかも捨てて逃げ去りたいという思いに駆られる時が過去に何度もあったかもしれませんし、今そのような状態、疲労困ぱいの状態であるかもしれません。もうどこかに逃げ始めているかもしれません。しかし、そのようなわたしたちを決して見捨てずに追いかけてくださり、信仰につなぎとめてくださる主イエス様が、神の霊であるご聖霊がおられる。そして教会には神の家族である主にある兄弟姉妹たちがいてくれている。祈ってくれている友がいる。それが神様の愛、憐れみなのです。

苦闘して涙しているテモテに対してパウロ先生は、「あなたに与えられている神の賜物を、再び燃え立たせるように勧めます」と6節で励ましています。「あなたに与えられている神の賜物」とあります。神様が皆さんに与えてくださっている神の賜物は何でありましょうか。テモテにとっては牧会者としての召命を受けた時に与えられた聖霊であったと思いますが、わたしたちもイエス・キリストを救い主と告白し、イエス様に従ってゆく決心へと導かれた時、それぞれに等しく聖霊が神様から与えられているのです。その聖霊を再び燃え立たせるようにとパウロ先生は励ましますが、それは神様の助けを受けて聖霊に満たされ、再び立ち上がるために喜びで満たしてくださいと祈り求めなさいという励ましであると思います。

今朝の箇所である7節で、パウロ先生は「神は、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別(慎み)の霊をくださったのです」と言って励まします。この「臆病」という言葉から、テモテが内向的で臆病な性格の持ち主であったことが分かりますが、同様な弱さのあるわたしたちに力と愛と慎みを与えてくれる聖霊を神様がくださったと宣言しています。これはペンテコステの時に教会に注がれた神様の霊です。この聖霊は、神様に心から仕え、教会に誠実に仕え、キリストの福音を宣べ伝えてゆくために「力と愛と慎み」として与えられた祝福です。聖霊がわたしたちに与えられているのは、わたしたちのためではなく、神と主の教会と福音(神様の愛と赦しと救い)を必要としている人々のために仕えて生きるためです。

そのような力と愛と慎みの霊が与えられ、その霊がいつも励ましてくれるから、8節にあるように、主を証することを恥じたり、パウロ先生がローマに捕らえられて殉教の死が迫っていることを悲しんだりすることなく、神の力に支えられて、福音のために生きなさい、福音のために生きることは大変だけれど聖霊が共にいてくださるから福音のために忍び耐えなさいと励まします。「福音のために生きる」とは福音を必要としている人々のために生きるということ、日々襲いかかって来る様々な課題や問題に苦しみ悩み、もがいている人たちに神様の愛を伝えて喜びを分かち合うために生きなさいという励ましであります。

9節に「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出されたのは、神様のご計画と恵みによるのであって、わたしたちの救いのためだけではない」と言い、その恵みはイエス・キリストを通してこの世に現され、その恵みの中にわたしたちは今生かされている、だから今受けている苦しみを恥じだと思わないし、いとわないと10節11節でパウロ先生は言います。しかし、その恥だと思わない、苦しみをいとわない原動力はどこから来るのでしょうか。

日本では臆病な人を「へっぴり腰、逃げ腰、弱腰、および腰」と形容しますが、および腰というのは、「確信のないフラフラとした態度」という意味であり、弱腰は「消極的で問題や相手に立ち向かう意気地がない」という意味です。しかし、12節の後半でパウロ先生は「私は自分が信頼している方を知っており、私に委ねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信している」と言って、彼には信頼を置くキリスト・イエスがおり、この主を通して神様から信仰と愛が与えられ、主イエス様につなげられていれば絶対に大丈夫という確信を得ていたとテモテに言って、あなたもそのように主イエス様に望みを置き、キリストにつなげられ、神様に愛され、守られているという確信を持たせていただき、そのために「力と愛と慎み」を与えてくださる聖霊を受け、14節、「あなたに委ねられている良いものを、恵みをわたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」と励ますのです。

イエス・キリストがパウロ先生の確信でありました。この確信がわたしたちに今日も与えられ、受けなさい、信じなさいと招かれています。力と愛と慎みを与えてくださる霊を今日受け取って神様が与えてくださる喜びと平安で心満たされてください。