十字架の道は何のためか

「十字架の道は何のためか」 二月第四主日礼拝宣教 2021年2月28日

 マタイによる福音書 20章17節〜28節      牧師 河野信一郎

 おはようございます。今日も寒い一日になるようですが、この素晴らしい朝にインターネットを通して皆さんと共に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。

東京と首都圏の緊急事態宣言の解除は、当初3月7日になるとの予測でしたが、見識者によりますとさらなる延長もあり得るとのことです。解除後に感染者数がリバウンドすることを誰もが恐れていますので、政府には慎重の上にさらなる慎重を重ねて解除の是非を判断して欲しいと思います。もし7日以降も発令が続く場合は、朝と夕の礼拝は引き続きオンラインのみとなります。7日以降につきましては、今週土曜日の17時を目処に判断し、教会ホームページにて今後の対応をお知らせいたしますので、教会HPをご確認いただきたいと思います。

さて、今朝はまず一枚の写真をご覧いただきたいと思います。オンライン礼拝の開始前のスライド写真として使われていますので親しみがあると思いますが、では次の写真と何が違うでしょうか。そうですね、一枚目の写真ではみかんの木は生い茂っていましたが、先月終わりに剪定をしてもらい、見栄えも大変良くなりました。それが二枚目の写真です。みかんの木は常緑樹ですので、一年中青々とした葉をつけていますが、不思議なことに剪定をしてもらうと1ヶ月に渡って青々とした葉がボロボロ落ちます。剪定された痛みを訴えるかのように、みかんの木が涙を流すかのように、驚く数の葉が落ちます。今年も例外なくたくさん落ちましたが、わたしはその葉っぱをホウキで集める中で、このようなことを考えました。

新型コロナウイルスが猛威を振るう以前は勢いよく生い茂っていたわたしたちの生活は、昨年2月から続くパンデミックの中で、たくさんのものを諦めたり、手放したり、計画の変更を迫られたり、掛け替えのないものを失ったり、様々な意味において不自由な生活を強いられてゆきました。信仰生活、教会生活においても同様です。たくさんの痛みを負いました。そのような苦しみや悲しみの中で、心の中で泣き叫んだり、涙をいっぱい流された方も多くおられると思います。知り合いや親しい間柄にある方々が苦しむのを見て心が張り裂けそうになったこともたくさんあります。ほぼ強制的に人生の断捨離を迫られた感がある方もおられるのではないでしょうか。そういう中で、わたしたちは本当に何が必要であり、何が重要でないのか、何を大切にすべきなのか、あるいはどんな無駄なことにお金や能力を費やしてきたのかが初めて分かったということもあると思います。常緑樹のみかんの木の葉が涙をボロボロ流すかのように枝から離れて地面へ落ちてゆくようすを見ていて心が痛みました。

しかし、そのような中で示されるのは、次の季節に豊かに実を結ぶためには剪定が必要であるということです。ヨハネ福音書15章の最初の部分を思い出される方もおられると思いますが、神様はわたしたちと共に痛みながら、わたしたちに不必要なものを切り取り、省かれます。神様は平気でそうされる訳ではありません。必要でないものを切り取ることによって、美味しい実をたくさん付けることをわたしたちに、わたしたちの教会に期待されるのです。困難なコロナ危機を過ごす中で、皆さんの心も良い意味でだいぶ変わったのではないかと思います。それがはっきりと見えなくても、主によって変えられた良い部分を感謝しつつ持ち寄って、ご一緒に神様とイエス様に仕え、出会ってゆく人々、地域に仕えて参りましょう。

さて、今年の受難節・レントはマタイによる福音書に記されているイエス様の十字架への道をご一緒に聞いてゆくようにしておりますが、その核心である「主イエス様の十字架の道は何のためであったのか」ということを今朝聞いてゆきたいと願っています。本来は水曜日の祈祷会、日曜日の教会学校、そして礼拝という中で共に聞いてゆきたかったのですが、祈祷会と教会学校は休止していますので、礼拝の宣教に集中することになります。ゆえに教会学校と祈祷会で学ぶ箇所は石垣副牧師が毎月準備してくださる「聖書の学び」を用いて読んでいただきたいと思います。それ以外にわたしがアメリカの日本語教会へメッセージしている文章があります。前のスクリーンに教会名が出ると思いますが、フェイスブックでこの教会を検索していただきますと受難節に関連するマタイ福音書の聖書の学びができ、少しでも皆さんの助けになると思います。今週はマタイ21章のイエス様が子ロバに乗ってエルサレムに入城される箇所を扱っていて、とても興味深いことを準備しながら学ばされましたので分かち合いました。先週の16章の学びもとても面白い内容でしたのでぜひお読みください。

さて、主イエス様の十字架への道は、弟子たちに重要なことを教え、彼らを整える道でもありました。重要な局面では弟子たちをすぐに集めて大切なことを教えられました。しかし、弟子たちの飲み込むスピードはとても遅かったわけです。わたしたちもイエス様の言葉の真意をすぐにしっかり受け止められず、飲み込むまでに時間を要することがあるわけですが、しかしわたしたちの飲み込みが遅くても、イエス様は愛と忍耐を持って教え続けるのです。

今朝の聖書箇所は、マタイによる福音書20章17節から28節で、二つの出来事からなる箇所ですが、ここにもイエス様は何のために十字架の道を歩まれたのかがはっきりと記されています。まず17節から19節では、主イエス様が迫ってきているご自分の死と復活を呼び集めた弟子たちに伝える箇所です。ご一緒に読んでゆきましょう。「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二弟子だけを呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。』」とあります。ここに主イエス様が十字架の道を歩まれる目的が記されています。

イエス様がご自分の死と復活を弟子たちと分かち合うのは今回で3回目です。しかし、弟子たちは事の重大さになかなか気付きません。1回目は16章21節から記されていますが、その時はペトロがイエス様を自分のわきへ引き寄せ、「主よ、とんでもない事です。そんなことがあってはなりません」とイエス様を諌め始めたと記されています。2回目は17章22節と23節に記されていますが、予告を再度聞いた「弟子たちは非常に悲しんだ」と記されています。

この最初と2回目の主イエス様の予告に対する弟子たちのリアクションは非常に感情的なもので、怒ったり、悲しんだりというものです。つまり、弟子たちはイエス様がおっしゃられた予告の最初の部分、「十字架にいたる苦しみとその死」という事だけに過剰なリアクションをしています。つまりイエス様が祭司長たちに捕らえられ、異邦人たちから侮辱を受け、最後は十字架刑によって殺されてしまうということだけに彼らの思いが固定されてしまい、「三日目に復活する」という希望については思いが至りません。至らないというよりも、眼中にないという具合です。今回の3回目の予告でも、「人の子は三日目に復活する」とはっきりとイエス様は言っておられますが、弟子たちのリアクションは20節から24節に記されていて、彼らの心を支配していたものは何であったかがはっきりと記されています。

さて、17節から19節を通して今朝ご一緒に心に止めたいことが三つあります。一つ目は、イエス様の言葉を最後まで注意深く聞くということです。二つ目は、迫り来る苦しみや痛みや死にだけ集中し、そこに心をすべて費やさないということです。そこに心が固定されると心には恐れしか湧いてきません。希望を持つことができなくなります。三つ目は、復活の約束を信じることです。イエス様はご自分の死を予告されました。イエス様を愛する弟子たちにとって、そのことは聞きたくなかった事のはずです。しかし、わたしたちは死を避けて通ることはできません。必ず、この地上での生活に別れを告げる時がすべての人に平等にあります。しかし、わたしたちの命はこの地上だけでは終わらない、この地上での生活が終わっても、その先に天国での永遠の命が主イエス・キリストを通して神様から約束されていて、神様は真実なるお方であるからわたしたちを必ず死から引き上げてくださり、永遠の命と住まいを与えてくださいます。その祝福を受ける唯一の方法は、イエス・キリストの十字架の死はわたしの罪の代償を肩代わりしてくださるためのものであり、キリストの復活はわたしに永遠の命と祝福を与えるために神様が成してくださった愛のみ業であったと信じることです。この祝福に与るためには、イエス様を救い主と信じて、イエス様につながるしかないのです。

さて、20節から24節に3回目の予告に対するリアクションが記されていて、彼らの心を支配していたものが何であったかが分かります。20節をご覧ください、最初に「そのとき」とあります。イエス様の3度目の予告に対するリアクションが始まることが分かる言葉です。「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、『何が望みか』と言われると、彼女は言った。『王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください』」と願い出ます。ゼベダイの息子たちとはヤコブとヨハネで、マタイ27章56節とマルコ15章40節に寄れば、母はサロメという名の女性であったと考えられます。この親子はガリラヤのカペナウムで漁業を営むゼベダイという人の妻と子どもで、マルコ1章20節では「雇い人たち」がいたともありますので、経済的にはかなり裕福であり、そのために母親はどこかお高くとまり、息子たちは苦労知らずの坊々であったのかもしれません。

「王座にお着きになる時」とは、ローマ帝国に勝利し、イエス様がイスラエルの王として君臨される時という意味で、「一人は右に、もう一人は左に座れるように」とは王の側近としての最上位に据えてくださいという意味で、そう「おっしゃってください」とは「宣言してください」という意味で、ここにはゼベダイ兄弟とその母の「野心・野望」が記されています。

そのような野心を聞いたイエス様は続く22節で「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と彼らの間違いを指摘し、「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と言って悔い改めへ導こうとしますが、彼らは「できます」と答えます。しかし、彼らは、そしてその母親もイエス様が飲もうとしている杯が何であるか分かっていません。イスラエルの王として君臨すると信じ、大きな力を得るとだけ信じています。杯と聞いて、ローマに勝利した後に飲む祝杯と思い込んでいたのかもしれません。しかし、イエス様がおっしゃった杯とは次元の違う、勝利とはまったく正反対の「十字架の贖いの死」でした。イエス様はご自分の身の上に起こることをすべて分かっておられたように、弟子たちの行く末もすべて知っておられましたので、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」と言われます。ヤコブは12使徒の中で最初に殉教します。ヨハネも使徒として福音書を書き、エルサレム教会の指導者となりますが、晩年はエペソで厳しい迫害を受けて死を迎えます。

 24節を見ますと、この兄弟の抜け駆けを聞いた他の10人の弟子たちは「この二人の兄弟のことで腹を立てた」と記されていて、弟子たちの中に不協和音が生じたことが記されています。しかし、イエス様は弟子たちの弱さ、野心が原因となった不協和音をそのままにしておくことはなさいません。25節から読んで参りましょう。「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。』」と言われます。神様の愛を知らない人々は野心を持ち、力で人々を支配し、仕えさせ、苦しめていると主は言っておられ、どのような現状に人々が置かれ、苦しんでいるのかを把握しておられます。しかし、イエス様は弟子たちにこう続けてお命じになります。「あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で、偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕となりなさい」とこの世の価値観とは正反対のことをお命じになります。「皆に仕える者、皆のしもべになりなさい」と。

 主イエス様はわたしたちに無理難題を言っておられると聞こえるならば、わたしたちの心にはまだ野心、野望、欲望があるからかもしれません。周りの人たちと自分を比べて、いつもその上を行きたいと思っているからかもしれません。しかし、主イエス様は28節にこう言われるのです。「人の子が、仕えられるためではなく使えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」、あなたがたも生きなさいと招かれるのです。この主イエス様の生き方が十字架の道を歩まれる主の生き方であり、わたしたちを救うためなのです。