協力者として生きる恵み

「協力者として生きる恵み」 協力伝道を覚える日礼拝  宣教要旨  2015年1月25日

コリント人への第二の手紙8章16〜24節      牧師 河野信一郎

 聖歌隊が新生讃美歌536番「燃え立つ言葉も」を賛美してくれました。「燃え立つ言葉も、預言の力も、もし愛がなければ意味なく、空しい。全てを施し、命を捨てても、もし愛がなければ益なく、空しい。み霊よ、わたしの心を満たして、すべてを愛もてなさせてください」が歌詞です。神にこのままを心から願います。イスラム国に拘束された日本人の解放のために数えきれない数の人々、団体組織、諸国が協力してくれています。わたしたちも祈りによって協力しようとしていますが、この協力、祈りも愛がなければ意味なく、空しいものとなるでしょう。

 さて、わたしたち罪人を救うため、神は御子イエスをこの世に遣わし、キリストが福音宣教と十字架の道を歩まれる前に聖霊を注がれました。つまり、救いの御業は、神と御子と聖霊の一致団結、協力による働きであったということで、愛と協力なくして救いは無かったのです。

 「神はそのひとり子を世に遣わし、彼によってわたしたちを生きるようにしてくださった。それによってわたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださって、わたしたちの罪のために贖いの供え物として御子をお遣わしになった。ここに愛がある」と第一ヨハネ4章9・10節に記され、またヨハネ3章16節にもあります。「だから、互いに愛し合うべきである」と11節で命じられています。

 わたしたちが互いに愛し合うもっと具体的な方法は、「協力し合い、仕え合う」ということです。バプテスト連盟に連なる325教会・伝道所の約46%が財政的に苦しい状況です。325ある諸教会が日本の地、またアジア・アフリカの地で福音宣教の働きをこれからも共に担ってゆくためには、325の諸教会が互いに愛し合い、祈り合い、支え合うという協力が必要であります。

 使徒パウロがマケドニア、小アジア、ギリシャ地方で福音宣教の業を担っておられた時に、彼の耳にエルサレム教会が経済的に苦しんでいるという情報を耳にします。主イエスの福音はエルサレム教会から最初に発信され、たくさんの使徒・伝道者が派遣されて行きましたが、時が経過し、度重なる迫害によって力を失っていました。そのエルサレム教会を助けるために使徒パウロは立ち上がり、小アジアやマケドニア地方にある諸教会に献金のお願いをします。パウロ先生は、エルサレム教会とその兄弟姉妹たちを愛し、どうにかして助けたかったのです。強い思いがあっても身体は一つですから、一人では何ともなりません。しかし、主なる神はパウロにテトスという共に働く仲間、協力者を与えてくださいました。神はテトスにパウロ先生と同じ、エルサレム教会、コリント教会の兄弟姉妹を愛し、仕えたいという熱情を与えられましたから、パウロ先生は16節でそのことを神に感謝しています。

 神がわたしたちの心を聖霊で満たしてくださる時、わたしたちは奮い立たされ、惜しむ心からでなく、また人に強いられてでもなく自発的に人に仕え、協力することが御力によってできます。テトスは聖霊に満たされ、励まされた時にパウロ先生の勧めを受け入れ、従ったと17節に記されています。そのようなテトスにも協力者が二名与えられます。

 あなたも一人で頑張り過ぎていませんか。一人で苦しまなくて良いのです。あなたのすぐ傍にあなたの救い主イエスがおられます。このキリストを信じる時、わたしたちは全ての苦しみから解き放たれ、造り変えられ、新たなる力で満たされて人を愛し仕える者とされて生きてゆく人生の目的が恵みとして神から与えられます。互いの協力者として生きることがわたしたちに求められています。互いに協力し合い、仕え合う中でわたしたちは恵みの内に生き続けます。