友のために力を尽す者たちの信仰

「友のために力を尽す者たちの信仰」 協力伝道を覚える礼拝  宣教要旨 2017年1月29日

マルコによる福音書 2章1〜5節       牧師 河野信一郎

今年の日本バプテスト連盟の「協力伝道週間」を前にいろいろと考え、祈っていましたら、「力がなければ借りれば良い。恥ずかしいことではない。」という言葉に出会い、なぜだか心が妙に揺さぶられました。「もし自分に何かをなし得る力がなければ、誰かに借りれば良いんだ。恥ずかしいことではない。大切なのは、抱いている志を成し遂げることだ」ということです。私たちにもそれぞれなし得たい、達成したいことが色々とあると思いますが、自分を顧みると、志を成し遂げられる力がないと気付かされ、悲痛の思いの中で諦めたりします。しかしながら、私たちは簡単に諦めないで、周囲に目を向け、助けを求めることも大切なのです。「恥ずかしい」という思いを勇気もって捨て去り、目的を達成するために周囲の人の力を感謝しつつ借り、そして目標が達成できたら、感謝のお返しを心からすれば良いのです。

一昔前の日本では、醤油や味噌、砂糖が切れてしまうと、隣の家に借りに行く事が当たり前で、互いに助け合うことでつながりを強めてきましたが、現代ではそのような習慣はなくなり、「人様から借りることは恥ずかしいこと」になり、その恥ずかしいという思いが人との「つながり」、「コミュニティー」をなくしてしまっているのではないかと思うのです。

しかしながら、私たちの多くは、愛する家族や親友のためならば、恥をかくことをいといません。愛する人、大切な人を苦しみや悲しみという暗闇から救い出すことができるのであれば、私たちは何でもします。心からその人を愛しているので、恐れや痛み、恥など関係なく、何でもできます。躊躇も迷うことも一切しません。そうではないでしょうか。

主イエスがガリラヤ湖北部のカファルナウムという町に来られた時のことです。ある家に入られました。そうしますと、イエスがおられると聞きつけた人々が群衆となって集まってきます。戸口の辺りまで隙間もないほどになってしまったと1節と2節に記されています。

大勢の人たちは主イエスに対して非常に強い関心を寄せていました。イエスの話を聞いてみたい、人を癒すところを見てみたいという人たちで溢れかえりました。そこには、心に思い悩みを抱き、身体に病を負っていた人たちもたくさん集まってきたと思いますし、野次馬たちもたくさんいたと思います。そういう場所で主イエスが御言葉を語っておられると、4人の男性が中風の人を運んで来たと記されています。

「中風」とは身体が麻痺・不随する病気です。そのような身体が不自由な人を運んでくるのは大変であったと思います。また、身体に不自由さを抱えて生きていた人も、人前に出る事、その不自由さをさらけ出すことに恐れやためらい、恥ずかしさもあったのではと思いますが、心の奥底には「癒されたい。不自由さから解放されて自由になりたい」という切なる願いがあったのではないでしょうか。また、力を合わせて彼を運んで来た人たちの心には、その人を愛する思い、どうにか癒され、救われて欲しいという思いがあったと思いますが、それ以上に、主イエスならばこの人を、友を癒せるという信仰があったのです。

しかし、4節を見ますと、彼らは群衆に阻まれて、主イエスのもとに近づくことができなかったことが分かります。群衆が人垣、高くて分厚い壁となって主イエスに近づくことができなかったのです。すぐそこにおられるイエスに近づくことができず、本当に歯がゆい思いをされたのではないかと思います。「友を主イエスのもとに連れてゆくために、どうか道を開けて欲しい、私たちを通して欲しい」と何度も頼み、切なる願いと焦りで声が大きくなったでしょう。しかし、その思いと声は人々の心に届きません。群衆の壁は、自分たちの力だけでは砕くことができなかったのです。

しかし、彼らは決して諦めませんでした。絶対にイエスのもとにこの友を連れて行き、癒してもらう、救ってもらうという強い意志、愛、信仰を持っていたのです。なんと、彼らはその家の屋根に上り、イエスがおられる辺りの屋根を剥がして穴を開け、身体の不自由な友を寝ている床のままつり下ろしたのです。なんという大胆不敵なことを思いつくのでしょう。なんという無茶ぶりでしょう。この人たちは家主のことを考えなかったのでしょうか。家の人たちは目も当てられない状態、ショックであったでしょう。この人たちは屋根を修理するために多少なりの費用がかかることは考えなかったのでしょうか。端から見ている人たちは、なんと感じたでしょう。迷惑だとおもったでしょうか。呆れたでしょうか。つり下ろされた人は、つり下ろされている間、群衆の視線を一身に受け、恥ずかしい思いになったでしょうか。しかし、「癒されたい。自由になりたい」という思いの方が遥かに大きかったでしょう。4人の人たちも、大切な人を癒して欲しい、救って欲しい、信じます、「主イエスよ、お願いです」という思いが強かったのです。ですから、恥ずかしいとは思わなかったでしょう。友を愛する思い、主イエスを信じる信仰が勝ったのです。

主イエスは、4人の人たちの愛と信仰をご覧になられます。そして、彼らの、中風の人の願いを叶えられるのです。「子よ、あなたの罪は赦される。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」とおっしゃり、罪の赦しの宣言と祝福の言葉を与えられます。

その光景を見ていた4人の喜び、感動はいかばかりであったでしょうか。笑顔の頬に喜びの涙が流れたかもしれません。4人の友それぞれが、病気の友を大切に思っていたでしょう。しかし、一人の力では、この友を主イエスのもとへ連れて来ることはできませんでした。二人や三人では、この友を屋根からつり下ろすことはできませんでした。一人の友を主イエスのもとに連れて来るために、4人が一つ思いとなり、信仰をもって力を合わせたのです。

私たちも、一人を主イエスのもとへ連れて行くために、共に祈り、力を合わせましょう。一つ一つの教会が共に祈りを合わせ、心一つとなり、人々の救いのために力を合せましょう。それが「協力伝道」なのです。

一人を主イエスのもとへ連れて行ったならば、主イエスがその人と関わってくださり、罪を赦し、救いを宣言してくださいます。主イエスは神の御子、神から遣わされた愛に満ち満ちたお方であり、私たちの罪を赦す権威を唯一お持ちの救い主だからです。このお方を信じて、このお方のもとへ、私たちの大切な友、愛する家族たちを連れて行きましょう。