土の器同士の謙遜

「土の器同士の謙遜」 八月第四主日礼拝 宣教要旨 2017年8月27日

  ペトロの手紙Ⅰ 5章5b節       牧師 河野信一郎

 人生というマラソンを走り抜くために心にとめるべきことを第二コリント4章からシリーズで聴いていますが、今回は4つ目のことを第二コリント4章7節とペトロの第一の手紙5章5節の後半から聴いてゆきたいと思いますが、まず千葉バプテスト教会牧師の矢野満先生のことを分かち合わせていただきたいです。

 今年の夏休み、私は矢野先生ご夫妻と一緒に礼拝をおささげしたくて、千葉教会に行ってきました。矢野先生は、忍耐を持ってとてもしつこい癌と戦いながら牧会をしておられますが、矢野先生と私たちがシリーズで聴いているテーマに強いつながりがあると感じるのです。

 長期にわたって癌と向き合い、手術を受けられる矢野牧師は、主イエスのみを見上げつつ、人生を共に走ってくださる主イエスを近くに感じて、信仰を持って日々戦っておられます。この主を見上げつつ生きることが人生というマラソンを走ってゆく中で最初に大切なことですが、神の憐れみのうちに日々生かされていることを喜び、感謝しながら生きることが次に大切だと第二コリント4章1節から聴きました。救い主イエス・キリストを通して罪赦され、愛され、祈られている存在、神の愛と憐れみを毎日受けて生かされている存在であり、その恵みを感謝し、その恵みに応えて生きてゆくことが私たちに求められている神の御旨であり、矢野先生は主の憐れみに寄りすがって千葉教会の牧会に当たっておられます。

 二つ目の大切なこととして神と主イエスに忠実に、隣人には誠実に、そして自分に対しても信実に、正直に生きてゆくことが大切だと第二コリント4章2節とコロサイ3章9節から聴きました。心を込めて愛してくださる神に忠実に生き、隣人に対しては誠実に生きるためにもまず自分自身に嘘をついたり、無理を強いたりしないということ。自分の弱さを認め、弱さを持った自分と正直に向き合う必要があること、そうでないと、主の愛と恵みに応えて生きてゆくことができないことを聴きました。

 人はなぜ嘘をつくのか。それは自分を守るため、自己愛から引き起こされることであると聴きました、私たちは自分を守るためにとっさに、あるいは無意識のうちに、あるいは意識的に嘘をついてしまう弱さがあるのですが、私たちを本当に最後まで守ってくださるのは主イエスなのです。主イエスが私たちの命を守り、私たちを神につなげるために十字架に架かって贖いの死を遂げてくださった。その主イエスを神は甦らせ、復活されて今も生きたもう主イエスが私たちのために日々執りなし、祈り、守っていてくださる。だから、私たちは大丈夫。主イエスがいつも共にいて守ってくださるので、私たちは落胆せずに生きられる。だから、自分に嘘をつかなくても良いし、無理をしたり、自分を追い込まなくても主が守ってくださるから大丈夫なのです。私たちにただ必要なことは、この主イエスを信じて従うこと、これからの人生を委ねることだけです。矢野先生は、そのように生きておられます。

 三つ目に心にとめるべきことは第二コリント4章5節にあって、主イエスに従う者・弟子として主と隣人に仕えて生きる、つまりキリストの福音を伝えてゆくことが神の御心であり、私たちにとって幸いな道であり、人生であることを聴きました。主イエスを通して神から受けた愛と憐れみを独り占めにしないで、隣人に御裾分けする者として生かされていて、御裾分けするのはイエス・キリストと主イエスの十字架と復活の福音であると聴きました。この任務に忠実な人に永遠の命と天国での住まいが準備されていることも聴きました。矢野先生も、その希望を確かに抱いて癌と戦い、牧師としての働きを担われています。

 さて、人生というマラソンを走り抜いてゆく中で心にとめておくべきことが四つ目のこととして第二コリント4章7節に記されています。「わたしたちはこのような宝を土の器に納めています」とありますが、「宝」とはイエス・キリストであり、主イエスを通して受けている神の愛と憐れみと赦しです。けれども、今回ご一緒に注目したいのはその「宝」ではなく、むしろ、その「宝」を納めている「土の器」である私たちです。使徒パウロは、私たちは神に造られた「土の器」だと言っています。私たちは明日の命も分からない存在で、ただただ神の愛と憐れみを受けて生かされている存在、自分の力で生きているのではないということを知る必要はあります。私たちは金の器でも、銀の器でもなく、土の器。しかし、その土の器を神はこよなく愛してくださり、その私たちに素晴らしい宝を置いてくださるのです。

 私たちがいつも心に留めておくべきこと、それは私たちには肉体の弱さや限界があるということ、つまり自分の弱さをいつも認めつつ、神の愛と憐れみを日々受けて生きてゆくこと。傲慢にではなく、謙虚に、謙遜に生きるということです。矢野先生は、そのことを十分知りつつ、謙遜に生きておられます。

 今回の第一ペトロ5章5節の後半に、「皆、互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』から」とあります。私たち一人ひとりが神の愛を受けている土の器であることを認め、信じて、喜び合ってゆく時に、私たち一人ひとりに謙遜が与えられ、土の器同士が互いに受け入れ合い、認め合い、愛し合い、祈り合い、仕え合ってゆくことができます。

 謙遜のないところに神の愛が芽生え育ち、神の望んでおられる実を結ぶことはありません。謙遜のあるところに神の愛と恵みは豊かに注がれ、キリストのからだなる教会が建て上げられてゆきます。

 私たち一人ひとりが自らの罪を悔い改め、謙遜を身に着ける時、私たちは主イエスの弟子として、僕として、神と隣人に仕えてゆくことができ、神の御心にかなった人生を主イエスと共に走り抜くこと、歩いてでも完走することができるように主イエスが成してくださいます。ですから、主イエスを見上げ、謙虚に生きて参りましょう。