大いなる喜びを分け合う群れ

「大いなる喜びを分け合う群れ」 十一月第一主日礼拝宣教 2021年11月7日

 ネヘミヤ記 12章27節、43〜47節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。11月最初の日曜日の朝、礼拝堂に集う皆さん、そしてオンラインで出席の皆さんとご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。カメラの向こう側におられる皆さんには申し訳ありませんが、今朝この礼拝堂に集われておられる皆さんのお顔を拝見し、声を合わせて神様に賛美をおささげできることは本当に感謝であり、大きな喜びです。ここにおられる方々、オンラインで出席くださっている方々とご一緒に、今朝も礼拝者とされている幸い、恵みを味わい、神様に心から感謝をおささげしたいと思います。

さて、宣教に入る前にどうしても皆さんと分かち合いたいことが二つあります。宣教への導入ということでお聴きいただければ幸いですが、昨日の朝、とっても嬉しいことがわたしにありました。7時前に妻を仕事に送り出した後、どうしても神様にお祈りしなければならないことがあったのでこの礼拝堂に上がってきて、後ろの席に座って祈り始めました。祈りの内容というのは、私の知り合いのあるご家族がいま試練に直面しているので、神様の憐れみと助けとお導きを求めることでした。どれくらいお祈りしたでしょうか、神様にお委ねしたので平安が与えられましたが、しばらくそこに黙って座っていました。そうしましたら、換気のために開けていた窓から耳慣れた鳥の鳴き声が聞こえたので、「あれっ」と思いました。

すぐに一階に降りていって玄関をそっと開け、鳴き声の聞こえる方向へ進み、みかんの木を下から見上げましたら、数ヶ月前に巣作りをしていた鳩のつがいのどちらか、たぶん雌だと思いますが、未完成の巣に帰ってきて、羽を休めていました。録音しましたので、少しお聞きください。わたしは教会に帰ってきてくれたこの鳩をとても愛おしく感じました。祈った後に平安はありましたが、まだ少しうなだれていたわたしの心を鳩とその鳴き声がわたしを励まし、喜びで満たしてくれました。神様って、本当にすごいなぁと感動しました。

主なる神様は、わたしたち一人ひとりが教会に帰ってきて、神様をほめ讃えることを諸手を挙げて喜んでくださいます。ましてや、行方が分からなくなっていた人が神様のもとへ帰ってきて、神様に賛美と礼拝をささげることを神様はいつも待っておられます。神様に愛され、罪赦され、恵みを得ているわたしたちは、自分の都合や感情だけで神様を礼拝するか、しないかを判断すべきではないと思います。いつも神様の愛に感謝を持って立ち返りましょう。

さて、数日前にニュースを読んでいる時に、「人類未踏のお金持ちイーロン・マスク、個人資産がトヨタ自動車の時価総額を上回る」という見出しが目に飛び込んできました。トヨタの国内時価資産は2893億ドルですが、彼の個人資産は3152億ドル(36兆円弱)だそうです。お金の感覚がまったく掴めない天文学的数字ですが、アメリカの電気自動車メーカー・テスラの創設者で、宇宙ロケットの開発事業に乗り出し、民間人の宇宙旅行ビジネスを見据えて貪欲に取り組んでいるそうですが、アメリカにいるわたしの姪いわく、いつも人を見下し、卑劣な企業買収や平気で人を解雇する、言葉は悪いですが、「いけ好かない男」だそうです。

同じ日に彼に関する違う話題を読みました。国連の世界食糧計画(WFP)のビーズリー事務局長という人が、イーロン・マスク氏をはじめ世界の億万長者に対して、「60億ドルあれば、『手を差し伸べなければ死んでしまう』4200万人の人たちを救うことができるから寄付をしてほしい」と懇願したそうです。しかし、マスク氏は国連がその60億ドルという数字の根拠を示せば、すぐに行動に移すとツイッターで発信したそうです。どういうことかと申しますと、「自分の富のほんの一部(60億ドルは彼の総資産の2%)が数千万人の命を救うことを国連が証明できるならば、テスラ社の株をすぐに売って、その収益を全額寄付すると言ったのです。寄付する資金がどのように使われるかの透明性を要求したのですが、自分のお金がどのように使われたかを正確に把握したい、そうでなければ寄付しないと云うことです。

世界はお金持ちと貧しい人たちとその中間に生きる人たちで構成されています。世界的に貧富の差が拡大していると言われていますが、日本も同じです。前のスクリーンをご覧いただきたいと思いますが、ここに一枚の写真があります。左側は貧しい人たちの家、右側はお金持ちの家です。どう見ても不平等です。大抵の人は、右側の生活を望むでしょう。しかし、次の写真をご覧いただきたいと思います。どんなにお金を持っている人でも、必ず死を迎え、墓に入れられます。この地上での命の最後はみんな平等です。

自分の力で得た富だと思い込んでいる人たちは色々難癖を付けて富を手放しません。しかし、富とまではいかないけれど、神様が与えてくださったお金、手元にあるお金を必要としている人にほんの一部でも分け与えることのできる人は、分け与えられた人たちと喜びを分かち合うことができます。喜びがいく倍にもされます。そして、人々と共に喜びを分かち合う人の喜ぶ姿を一番喜ばれるのは、恵みを与え、祝福をさらに与えてくださる神様です。なぜこのような話が宣教の導入になるのかとお思いでしょうが、後でご理解いただけると思います。

さて、8月からシリーズで聴いてまいりましたネヘミヤ記からの学びは、今朝と来主日14日の宣教で完結いたします。このシリーズが始まった8月初旬、東京・首都圏の新型コロナ感染陽性者数は4千人、5千人以上と過去最多を連日更新し続けていましたが、シリーズが終わるこの11月、神様の憐れみの中で、コロナ感染が収束へと向かっているように見受けられます。しかし油断は禁物です。医療従事者の方々のご苦労を思い、感謝する中で、これから第6波が来ないことを日々祈る者ですが、この期間に聴いたネヘミヤ記からの学びの目的は、ウィズコロナからアフタコロナの時代に移り変わってゆく中で、わたしたち一人一人が、そしてわたしたちの教会が再び霊的に元気を取り戻し、再興されてゆき、神様の喜ばれる霊の実を豊かに結ぶため、まず神様のみ言葉に聴いて、どのように霊的健康を取り戻し、教会を再建して行くべきかを学び、学んだことを実践に移して行くということにありました。

宣教シリーズの準備の段階からわたしは多くの励ましと深い学びと不思議な導きをネヘミヤ記からいただきましたが、牧師だけの自己満足、独りよがりにならないように心配りしながら、主の導きを求めながら、教会を思いながらこの3ヶ月間宣教をしてまいりました。そのシリーズも今朝と来週で完結し、28日からクリスマスに向けての宣教に入ります。今年のアドベントとクリスマスの宣教テーマは、今の段階では「慰め・Comfort」になると思います。「慰め」と聞かれて、「神様が憐れんで慰めてくださるっていうメッセージね」と思われるかもしれませんが、ちょっと違います。神様がわたしたちを再び力強い状態にしてくださるという希望にあふれるメッセージを祈りつつ準備しています。宣教者のためにお祈りください。

さて、エレミヤ書31章31節から34節に預言された神様の約束が、ネヘミヤとエズラとバビロニアから帰還した人々の信仰と祈りと心が一致した働きによって果たされました。神様は、まずペルシャ帝国の王キュロスの心を動かされ、捕囚の民とされていたイスラエルの民をエルサレムへ徐々に戻し、そこで神の神殿の再建と城壁の修復と再建をお命じになりました。最初にエルサレムに帰還したゼルバベルと第一陣から、第二陣のエズラたち、そして第三陣のネヘミヤたちまで、足かけ140年の大きなプロジェクトでしたが、最後のプロジェクトであったエルサレム城壁再建をたった52日間で完成させたネヘミヤのリーダーシップとイスラエルの民たちの熱心さ、彼らの信仰の歩みに多くを学ばされました。

エルサレムの神殿と城壁の再建築はイスラエルの民たちの業ではなく、神様の御業です。なぜ捕囚の民がエルサレムに戻され、神殿を再建させ、城壁を含めた町全体を再興させたのか。それは偶像に走り、神様を捨てたイスラエルを、再び神様の民とし、神様との親しい関係性の中に、祝福の中に入れるためでした。神様の御心を受け止め、理解したイスラエルの民は、神様が立てたリーダーたちの言葉に従い、幾多の困難を乗り越えて、神様から委ねられた大プロジェクトを完成しましたが、これは神様のためというよりも、自分たちが再び神様の祝福に預かって生きるために神様が道を備えてくださったものでした。先週聴きました10章では、彼らはモーセの律法を読む中で、先祖たちが繰り返し犯してきた偶像と背信の罪を自分の罪として認め、涙を流して悔い改め、罪に染まった自分たちをそれでも愛してくださり、エルサレムという魂の故郷へ戻してくださった愛と忍耐の神様に聴き従う再決心をします。

エズラ記とネヘミヤ記、最初は一つであったこの二つの書物には、神殿再建築と城壁再建に携わった人々や部族の長の名前がたくさん記されています。ネヘミヤ記11章から12章26節までには、エルサレムに帰還した民や祭司やレビ人、各工事に参加した各部族の長たちの名前が列挙され、その数が記録されていますが、神殿再建と城壁再建にかかった総工費がいくらであったかはどこにも記されていません。相当な金額が必要であったと思いますが、全く記されていません。なぜでしょうか。それは先ほども申しましたように、これは人の業、偉業ではなくて、神様の愛の御業であるからです。現実的なことを言えば、確かにお金は必要であったでしょう。しかし、税金であるとか、誰かに命じられた金額を、強いられて嫌々手渡したお金ではなく、神様の愛に心動かされた者たちがみな率先して献げたもの、それを神様は祝福して用いられたのです。興味のある方はネヘミヤ記1章を読み返してください。

教会は、皆さんの、わたしたちの献げもので活動を続けることができます。その献げものはお金だけではありません。他にも献げることができるものがあります。また献金の額が重要ではありません。何が重要でしょうか。それはわたしたちの真心です。神様の愛に感謝し、心動かされた者たちが喜びと感謝を持ってささげる心です。神様はそのような献げものをいく倍にも祝福し、主の働きのために用いられます。マスク氏のように「寄付する資金がどのように使われるかの透明性を、自分のお金がどのように使われたかを正確に把握したい、そうでなければ寄付しない」と云う考えは間違いです。何故ならば、わたしたちがいま手にしているものすべては、神様からのプレゼントであるからです。命も、体も、時間も、健康も、能力やスキルも、持ち物も、富も、社会的な地位もすべて。その与えられている賜物をわたしたちは何のために、誰のために、いつ献げて用いるか、その心を神様は見ておられます。

悔い改めて神様に従うと再決心し、神様との関係性を喜ぶイスラエルの民たちは城壁を奉献します。ネヘミヤ記12章27節をご覧ください。「エルサレムの城壁の奉献に際して、人々は、あらゆる所からレビ人を求め、エルサレムに来させて、感謝の祈りと、シンバルや竪琴や琴に合わせた歌をもって、奉献式と祝典を行おうとした」とあります。主を賛美し、感謝をささげる礼拝者たちが続々とエルサレムに戻ります。その光景を想像してみてください。

43節には、「その日、人々は大いなるいけにえを屠り、喜び祝った。神は大いなる喜びをお与えになり、女も子供も共に喜び祝った。エルサレムの喜びの声は遠くまで響いた」とあります。想像してみてください、なんという喜ばしい光景でしょうか。神様の愛とその救いの御業を喜び、感謝するお祭りが始まるのです。わたしたちがささげるこの礼拝も、お祭り・セレブレーションのような喜びの時、神様をほめ讃える時としてささげることが神様の御心です。神様の愛と憐れみ、イエス様の十字架と復活の恵みに心動かされたわたしたちが、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様とイエス様を礼拝する、それはイエス様を通して神様から受けた大いなる喜びを分かち合うわたしたちのささげものなのです。

確かに、わたしたちの心を包み隠さず正直に言うならば、わたしたちの心の内には悩みや迷いや心につっかえているもの、打ち明けたいこと、神様に助けて欲しいことがあります。しかし、礼拝は神様への感謝と喜びのささげものです。心に重荷がある方は、牧師との面談の時間を求めるか、祈祷会への出席をお勧めいたします。何かと雑用に忙しいわたしたちは、日曜日の礼拝にあれもこれも引括めて解決してもらおう、恵みを受けようとしてしまうので、消化不良で教会をあとにすることになるのです。しかし、それでも神様はあなたの帰りを待っていて、神様を礼拝し、喜びを集められた人々と分かち合うことを楽しみにされています。感謝ですね。