主イエスへのチャレンジ

宣教「主イエスへのチャレンジ」           石垣副牧師2018/03/18

聖書 マルコによる福音書7章24~30節(75p)

イエスさまはこの日、助けを求めるギリシャ人の女性に対して、はじめは冷たく突き放しています。しかしこの女性は、そうしたイエスさまの態度をものともせず、冷静に食い下がっていきます。イエスさまも、そのようにチャレンジしてくる女性に向きあっていかれます。そしてついに、イエスさまの方が“参った”と言われたのです。今朝はこの女性の信仰から、厳(きび)しい局面に立たされても、諦(あきら)めずに、その問題に向き合う姿勢を教えられたいと思います。わたしたちが信仰を持って粘り強く求める時、聖霊はそのような時にこそ働き、助けてくださいます。そのような確信に、この朝も立ちたいと思います。

「ギリシャ人女性の訴え」

7:25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 7:26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。

フェニキアは、現在のレバノンにあたります。「ギリシャ人の女性」と呼ばれること、これは当時として、これだけで、「教養のある、豊かな家柄の女性」であることを表わしています。幸せそうに思える彼女の、大きな苦しみは、幼い娘が悪霊に取りつかれて伏していることでした。イエスさまの評判を聞いていた女性は、ティルスに現れたイエスさまに「悪霊を追い出して娘を助けてください」と率直に願い出たのですがイエスさまの返事は、冷たい言葉でした。

7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」

27節の、この言葉が私たちを困惑させるのだと思います。「小犬」とはユダヤ人から見た外国人のことです。イエスさまは異邦人を「小犬」と、可愛らしい表現で呼んで精一杯やさしく、「なんといっても子供たちに届けたい。まず、ユダヤ人に救いを届けなくてはならない」と、外国人女性の申し出を断ったのでした。

「主イエスへのチャレンジ」

女性に対しては、突き放したイエスさまでした。ところが女性は諦めなかったのです。女性は次のように思いめぐらしながら、主のお言葉を聞いていたのでしょう。『食卓に子どもが座っている。その足元には、愛犬がおとなしく座って待っている。子どもは可愛い小犬のために、わざとパン屑を足もとに落とす。そのようにして小犬もパンのくずをいただくはずだ。』

7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」

女性は、イエスさまが自分たちの事を「小犬」と言われたが、憤慨(ふんがい)することなく、なおすがりつくという、熱心な女性の態度が、イエスさまを動かしたのです。

7:29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」その様に言われました。

「岩波の聖書」と呼ぶ聖書のこの箇所を開いて見ますと、ユニークな言葉に出会います。

29節に、「それほど言うなら、よろしい」という言葉がありましたが、「そう言われてはかなわない。」と訳されています。イエスさまは「そう言われてはかなわない」、「あなたには負けた」と言われたのです。

この女性は言った。「主よ、あなたの言われる通りです。あなたはわたしたち異邦人の救いのために来られたのではない。あの、救いを拒み続けるユダヤのために来られたのでしょう。しかしあなたの恵みはそこからこぼれ落ち、あふれ出てくるでしょう。その余った恵みで良いのです。あなたの恵みをこの私たちにも分けてください。わたしの娘にも与えてください。」

イエスさまは、フェニキアの女性の、謙遜で、しかも諦めない願いを聞くことによって、ご自分が地上に遣わされた意味を、胸の内で問い直されたことでしょう。

イエスさまは、ご自分はユダヤの民だけでなく、全世界が神の国となる、そのために父なる神によって地上に遣わされたことを、この日、改(あらた)めて思い起こされたことでありましょう。

「アブラハム物語から」

わたしたちは「フェニキアの女性」の物語から、信仰の父アブラハムに起きた一つの出来事を思い起こします。アブラハムの弟ハランの子、ロトは、ソドムの町の豊かさに目を奪われ、遊牧民としての生活を止めて、ソドムの町に住むことを選びました。

ある日、アブラハムの前に、神は三人の旅人として現れます(18:1~2)。神が現れた目的は、ソドムの町の、罪の有様を調べ、滅ぼすためでした。そのうちの二人の神は、ソドムに向かいますが、アブラハムは自分の前に残る一人の神に向き合います。神が人の姿で現れるという、ここはとても興味深いところです。

ロトを救いたいと願うアブラハムは、その一人の神に、食い下がります。お読みしたように、「あなたは悪の町をほろぼすために、正しい人を巻き添えにするのですか」と食い下がるのです。神は「それならば、五十人のために赦そう」と答えます。

アブラハムはここぞとばかりに、正しい人の数を少しずつ減らし、ついに神は、「もしも、正しい人が十人いたら、わたしは滅ぼさない」と約束させられます。アブラハムも安心しました。当時ソドムには王が居たということですので(14:17)、大きな町であったと思われます。その中の10人とはなんと少数なのでしょうか。この後(あと)の事ですが、実はソドムに、正しい人は一人もいなかったのです。先に出発した二人の神は、ソドムを出ることをいやがるロトを、何とかして助け出しました。間もなく、ソドムは硫黄の火で焼きつくされてしまいました。

 

神はこのソドムの町に、正しい人が十人いたなら「その十人のために、わたしは滅ぼさない」と約束しておられます。

わたしたちは紛れもなく異邦人です。しかしその町の、たった十人なのです。完成の時、終わりの時はまだきていません。わたしたちは、今与えられている状況の中で、終わりのその日を待ち望みつつ、主イエスの十字架を見上げ、共に祈り、賛美し、御言葉に導かれて歩みましょう。

イエスさまによって、既に、神の国の土台は据えられていることを信じましょう。神の国を待ち望む十人のうちの一人として歩んで行きましょう。