待ちわびし日

宣教「待ちわびし日」 十二月第三主日礼拝  大久保教会 石垣茂夫  2017/12/17

招詞 イザヤ書55章6~7節 聖書 イザヤ書55章8~11節 応答賛美 195「待ちわびし日」

 

応答賛美は195番「待ちわびし日」です。「待ちわびし日」、この讃美歌は日本人の作詞・作曲によりますので、このタイトルを河野先生はどのように英訳して下さるのか、楽しみでもありました。「Longing Day」ではどうかと、提案してくださいました。日本語の表現に、「首を長くして待つ」という言葉がありますので、わたしは「“Longing Day”、これはぴったりだな!」とうれしく思いました。

しかし、どうでしょうか。わたしたちは待つことに疲れてしまうことがあります。時には、待っていたことを忘れてしまうことさえあります。わたしたちは、そのように不確かな者です。今朝は、イザヤ書55章の御言葉が与えられています。

わたしたちの神様は、そのようなわたしたちを、繰り返し訪ねてくださり、わたしたちを導いてくださるお方です。この朝、そのことを心に留め、アドヴェント(近づいてくる)の残りの日々を、救い主の来臨を待ちつつ過ごしてまいりましょう。

「預言者・第二イザヤの言葉」

わたしたちは、このアドヴェントの時に、あらためて旧約聖書に目を注ぎ、自分の信仰を見つめ直すことを求められていると思います。

それは何故でしょうか。パウロはテモテへの手紙でこう言っています(Ⅱテモテ3:15他)。

「初代教会の人たちは、幼いころから『旧約聖書』に親しんできた。そのことによって、イエス・キリストへの信仰に導かれ、救いの道を与えられた」、こう言っています。

ユダヤ人が「旧約聖書」を読み、イエス・キリストこそ「神の独り子」であり、「神から与えられた最も大きな恵み」であると示されたこと、これは重要な出来事でした。

そればかりでなく、そこで得られた大切なことは、私たちの救い主・イエス・キリストは、あるとき突然のように現れた救い主ではないということです。長い時間を積み重ねた「神の救いの計画」という歴史の中で、来られた方であると確信したことです。

そうした「旧約聖書」の文書の中で初期の教会の人たちが特に重要だとみなしたのがイザヤ書でした。本日、招詞をはじめ、イザヤ書55章の数節をお読みいただきました。

ここでは、神と、わたしたち人間との間に横たわる、無限の距離が強調されています。

古代のユダヤ人たちは、限りなく聖である神と、限りなく罪に染まったわたしたち人間が直接に面と向かって出会うとき、そこには爆発的な反応が起きて、人間が滅びると信じていました。

はじめに(イザヤ55:6~7)、預言者によって「主を尋ね求めよ」「呼び求めよ」と呼びかけられ、続いて、人びとが神のもとに立ち帰ることが、勧められています。

55:6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。

55:7 神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。

そのように隔(へだ)たりがあり、異質な存在であるにも拘わらず、神は、人間に向きあってくださるお方です。神は罪ある人間の事をお忘れにならず、どこまでも、わたしたちのことを心にかけてくださると聖書は繰り返し証言しています。

 

続くイザヤ書55章10~11節に、「神の言葉」は雨あるいは雪といった天から降ってくる自然の恵みになぞらえて語られています。

雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ   種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。(55:10)

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。

「神の言葉」は、神のもとから与えられる恵みであることが示されています。雨が降り、雪が降り、大地を潤し、作物を芽生えさせ、成長させ、そして実を結ばせて行きますが、これはわたしたちの手柄ではありません。神の計り難い意思が、それを成し遂げられるのです。「雨と雪」、これと同じ様に、神から与えられる御言葉にも、わたしたちを目覚めさせ、成熟させ、豊かな実を結ばせる力があると、イザヤは語っています。

雨は何度も降ります。雪も繰り返し降ります。大地を潤し、作物を芽生えさせ、成長させ、そして実を結ばせて行きます。

同じ様に、クリスマスは何度何度も、繰り返しわたしたちを訪れます。

終わりに申命記の言葉を読みます。

「その預言者が、主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られた言葉ではない。」(申命記1822節)。

旧約聖書では「言葉」という語と、「出来事になる」という語は全く同じ語が使われています。従って「言葉」が「出来事」にならないのなら、それは神の言葉ではない(申命記18:22)ということになります。神の言葉は実現するという信仰です。

2000年前、「神の言葉」はわたしたちのもとにイエス・キリストとなって現れ、十字架と復活によってわたしたちを目覚めさせてくださいました。

「神の言葉」は、わたしたちを成熟させ、豊かに実を結ばせようと、絶え間なく与えられています。

55:11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。

それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

イザヤの言葉に励まされつつ、アドヴェントの日々を過ごして参りましょう。