宣教「昇天のキリスト」

宣教「昇天のキリスト」                石垣副牧師2018/05/20

招詞  ペトロの手紙一1章8

    あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。

聖書  使徒言行録1章1~11節

     イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。(1:3))

 

今日はペンテコステ礼拝です。主イエス・キリストの十字架の死、復活、昇天、聖霊降臨という出来事がわずか五十日ほどの間に続けて起きました。その出来事を体験したのは使徒たちなど、極、限られた人たちだけでした。それにもかかわらず、真実であり、命に溢れた出来事として、2000年を経たわたしたちに迫ってきます。

招詞には、ペトロの手紙一から、み言葉を選ばせて頂きました。

この手紙は、1章1節の言葉から、ペトロが、現在のトルコ一帯に点在した幾つかの教会に宛てたことが分かります。当時トルコはアジア州と呼ばれていました。

わたしたちは、何百万人というシリヤ難民がトルコに逃れて行くのを、つい最近目にしましたが、その一帯は新約聖書の舞台でもありました。新約聖書の時代にもキリスト者が他国に追いやられることがありました。散らされたキリスト者は、教会を造り信仰を守っていましたが、迫害に会う苦しい道のりでした。わたしには、この手紙の調子から、散らされてアジア州に住む人たちの信仰に触れたペトロが、感動して書いているのだと感じました。『わたしはキリストに直接出会っている。しかし彼らはそうではない。それなのに、この喜びようは何なのだろうか』とペトロは感動したのでしょう。

スイスのある牧師は「ペトロの手紙」のことを「それにもにもかかわらずの手紙」と名付けたそうです。ペトロはじめ弟子たちは、主イエスが捕えられ、十字架の刑で死を迎えた場面では、主の前に立っていることが出来ずに逃げ、みな隠れてしまいました。ところが間もなく、今度は復活の主イエスによって集められ、他の弟子たちと共に四十日にわたって導きを受けていました。四十日経ったとき、自分と同じ、肉を持った復活の主イエスが、天に帰って行かれる有様を見たのです。そのような、限られた者にしかできない経験をしたペトロたちだからこそ、「イエス・キリストこそ神の子、救い主である」との確信を得たとすることもできるのです。

しかし、このアジア州のキリスト者たちは誰一人、彼らは主イエスに直接お会いしてはいないのです。それなのに、それにも拘わらず、主イエスを信じ、喜びに溢れているのです。これこそが聖霊の働きだと、ペトロは確信したに違いありません。

「昇天日とペンテコステ」

ペンテコステよりも少し手前の、日付から、「既に始まっていた教会の働き」を覚えたいと思い、「キリストの昇天」の箇所を読んでいただきました。

四十日間、復活のイエスさまは、わたしたちと同じ肉体を持って現れ、四十日にわたって弟子たちと共に過ごし、神の国について教えられたのです。

弟子たちは、これからは、主イエスは必ず最終の目的に向かって行動されると思っていました。そしてこう、尋ねました。

1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。

 1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。

1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

果たして弟子たちは、この言葉を、理解しすぐに受け入ることが出来たのでしょうか。

1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。

この「キリストの昇天」、実は私たちの信仰理解にとっては大切なことです。弟子たちの目の前に復活され、同じ肉を持ったまま、天に帰って行かれました。しかも天に居られながら、キリストは「聖霊」となって、入れ替わるようにしてわたしたちの側におられます。わたしたちはこの事を信じるようにと求められています。

招詞のペトロの手紙一1章8節のみ言葉に戻ります。

「 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、」

主イエスの使徒であったペトロはこうした言葉をわたしたちに残しました。

地上の教会がしていくことは、「聖霊の働きを信じて委ねて行くことだ」と、アジア州の教会から、ペトロは確信を持ったのでしょう。

地上の教会は、聖霊に導かれ、何よりも主イエスを愛するこということだと確信したのです。主イエスを愛するとはどういうことでしょうか。

アジア州の教会の人々は、礼拝に集う事が待ち遠しく、信仰の仲間と集うことを喜びとしていたのです。

聖書の言葉に触れることが嬉しくてたまらなかったのです。皆さんに祈られることが力になり、皆さんと祈ることが喜びとなっていたのです。

地上の教会は、聖霊に導かれて、導いてくださる主イエスを信じると言うことです。

地上の教会は、聖霊に導かれて、主イエスを、喜びをもって伝えるということです。

私たちは愛する主イエスを天に持ちますが、同時にこの地上においても、共にいてくださる主イエスを身近に感じて歩んでいます。

この朝は、ペトロが教えられことを心に留めましょう。

わたしたちも同じ思いを抱き、聖霊の働きに期待し、ここから新しく出発しましょう。