富と知恵と知識に豊かな神

「富と知恵と知識に豊かな神」 三月第四主日礼拝 宣教  2019年3月24日

 ローマの信徒への手紙11章25〜36節            牧師 河野信一郎

今朝もご一緒にローマの信徒への手紙11章25節から36節から、神様の語りかけを聞いてゆきたいと願っています。この箇所は、9章から11章までを締めくくる所となっていて、なぜ9章から11章の部分がこの手紙に必要であったのか、その理由が記されています。これまた難解な箇所なのですが、ここにも私たちが聴くべき大切なこと、神様の愛が記されていると信じていますので、ご一緒に聴いてまいりましょう。

まず最初に、9章から11章の内容がなぜこの手紙に挿入され、ローマのクリスチャンたちに書き送られたのかという理由をお話ししますが、その答えが25節の最初の部分に記されていますのでご覧いただきたいと思います。「兄弟たち、(あなたがたが)自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような(神の)秘められた計画をぜひ知ってもらいたい」とあります。つまり、9章から11章の部分が書き送られたのは、ローマで生きるクリスチャンたちが自分は知恵ある者だとうぬぼれない、高ぶらないため、謙遜に生きるためだという理由が記されています。口語訳聖書では「あなたがたが智者だと自負することのないため」とあり、リビングバイブルと現代訳聖書では「あなたがたが自慢したり、高ぶったりしないため」と訳されています。新改訳聖書では「あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするため」となっています。

前回の宣教で聴いたことですが、11章17節から21節を読んでゆきますと、異邦人であるわたしたちは、救われていることを誇ってはいけないということ、わたしたちが救われているのは神様の愛と憐れみ、恵みによることを忘れないようにという注意がパウロ先生によってされています。17節から18節を読んでみます。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」とあります。

すべての恵みは神様から与えられます。私たちに誇れるものは何一つありません。私たちは神様の愛・憐れみによって救われた者です。私たちは神様の愛で「支えられている」存在です。ですから、へりくだって生きなさい、謙虚にいきなさい、私たちには主イエス様以外に誇れるものは何一つないのだから、謙遜に生きなさいということをパウロ先生は教えようとしているのです。

パウロ先生は、1章から11章の手紙の前半を用いて、なぜ神学的で難解な内容を書き送ったのでしょうか。25節でも「秘められた神の計画」ということがありますが、「秘められた計画」という言葉は、他の聖書訳では「奥義」、「秘義」と訳されています。何故このような難しいミステリアスなことを書き記すのでしょうか。それは、神様の御意志が簡単に理解できると、私たちは自分には知恵があると誤解し、うぬぼれ、高ぶるようになるからです。そのうぬぼれが一人歩きしてしまい、神様を信じているようで、信じていない、つまり御都合主義の生き方をしてしまうからです。

私たちは、神様の愛・憐れみによって救われた罪人です。神様の愛と憐れみなしに今ここに、主の御前に出て礼拝できないような存在でありますが、信仰生活が少し長くなってきますと神様の憐れみが与えられていることが当たり前のように思い込み、自分の祈りや願いがすぐに聞かれないと文句を言ってしまう、そういう危険性が私たちにいつもあるから、あえて神様の御心、ご計画は人知では計り知れない秘められたものになっていて、私たちがへりくだって神様のみ言葉を日々慕い求める者として生きて欲しいと神様は願っておられるからです。

20節には、「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」とあります。恐れなければならない理由が21節にあります。「神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、おそらくあなたをも容赦されないでしょう」と言っています。私たち異邦人は、神様の憐れみによってオリーブの木に接木された野生のオリーブの枝であって、神様の愛と慈しみ、厳しさを軽んじると、その傲慢さゆえに、せっかく接木された木から切り取られる可能性も無きにしもあらずだからと忠告してくれています。私たち一人ひとりが救われたことは、ただただ神様の愛・憐れみ、恵みですから、決して誇らずに、感謝して、謙虚に生きることが大切であると教えられています。

さて、パウロ先生は「次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい」とローマのクリスチャンたちに言います。神様の秘められたご計画というのは、25節後半と26節に記されています。「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです」とあります。ここに3つの真実が記されています。1)イスラエル人が頑なになったこと、2)それは私たち異邦人が救われるためであったこと、3)しかし異邦人が救われた後に全イスラエルが救われるということです。

ここに私たちの人知を超えた神様のご計画が記されています。神様に選ばれた選民、イスラエルの民、約束の民がイエス・キリストに対して心をかたくなにし、救い主として拒絶したのは、まず異邦人全体が救われるためで、その異邦人の救いが達成したならば、その後に全イスラエルが救われる、それが主なる神様の御心、ご計画であるとパウロ先生は言っています。つまり、神様はイスラエルの民も、それ以外の民族たちも救いたいというご意思とご計画があるということです。

しかし、そのようなことは現実的なのだろうかと疑う人の方が多いのではないでしょうか。ユダヤ人たち全体がイエス・キリストを信じるようになる時が本当に来るのだろうかと疑う人もいると思います。しかし、「神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです」とパウロ先生は23節ではっきりと言っています。福音書にも神様にできないことは何一つないと記されています。私たちさえも救われたのですから、神様に不可能はありません。神様には私たちの家族や友人知人、周囲の人々を救うことはできるのです。ですから、神様を信じて、祈って、委ねて、神様からいただく愛と恵みを日々分かち合ってゆく必要と働きと責任が私たちにはあるのです。

26節と27節にイザヤ書59章20—21節と27章9節が引用され、神様の約束の言葉が記されています。しかし面白いことに、イザヤ書では「主が贖う者としてシオンに来て、ヤコブから不信心を遠ざけ、彼らの罪を取り除く」となっていますが、パウロ先生は「救う方がシオンから来て」と言葉を変えて記しています。イザヤ書では「シオン、つまりイスラエルに来て」となっていますが、パウロ先生は「シオンから来て」と記します。「に」と「から」では大きな違いですが、旧約聖書ではシオン=イスラエル・エルサレムですが、新約聖書ではシオン=天国という意味になります。

つまり、イエス・キリストが再び天から地上に来られる時、主の再臨の時にイエス様をメシア・救い主と信じているイスラエル人と異邦人の全てが救われるとパウロ先生は信じています。タイムリミットは主の再臨の時です。しかし、それがいつあるのか、誰も分かりません。いつ来てもおかしくないわけです。しかし、その前に兆候があると聖書には記されています。ですから、神様からいただいている時間を大切に用いる必要があるわけです。

神様にはダブルスタンダードはありません。しかし、28節から29節でパウロ先生が書き記している内容は、パウロ先生の中にダブルスタンダードがあるのではないかと一瞬思わせることが記されています。ご覧ください。「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがた異邦人のために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」とあります。

イスラエル人はイエス様をメシア・救い主と信じないのに、それでもアブラハムたち先祖のお陰で神様に愛され、救われるのかという思いを抱いてしまうニュアンスのある言葉に聞こえます。しかし、このように読み替えるとどうでしょうか。私たちの家族のことに当てはめてみましょう。「私の家族はイエス様を救い主と信じないのに、それでも神様に愛されていて、神様は私たちを通してその家族たちを救いたいと切に願っている。」そのように聴くことが大切なのではないでしょうか。なぜなら、私たちが神様の愛・憐れみが必要であったように、私たちの家族や友人、隣り人たちも神様の愛と憐れみ、救い主イエス様が必要だからです。

30節から32節を読みましょう。すべての人、イスラエル人も、私たちの家族や隣り人も神様の愛と憐れみが必要で、それを与えるための不思議なご計画が神様にはあり、そのために神様が常に働いておられることが記されています。「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼ら(イスラエル人たち)の不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、イスラエル人たちも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順担っていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それはすべての人を憐れむためだったのです。」

イスラエルの民は、自分たちは神に選ばれた民である。だからユダヤ人である以上、必ず神様から祝されるし、律法を絶えず守っていれば必ず救われるし、死んだのちも必ず天国へ行けると信じ込んでいました。自分には憐れみなどいっさい必要ないと思い込み、ひたすら自分の信仰、力と努力で自らの救いを達成することができると信じて励んで来ましたし、今もそのように生きておられます。

しかし神様は、そのイスラエルの民たちにも私たちと同じように憐れみが必要だと、彼らこそ憐れみが必要だというのです。ですから、主なる神様は、イスラエル人と異邦人を憐れみ、救うために御子イエス・キリストを天国・シオンからお遣わしになり、私たちの罪を贖うために御子イエス様をご自分から引きちぎり、見捨て、十字架で御子の命を犠牲とされました。そして天国に私たちを招き、永遠の命を与えるためにイエス様を死から三日ののち、死人の中から甦えらせ、天国へのドアを開いて私たちを招いてくださっている。

33節、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」とパウロ先生は神様の愛と憐れみを驚き、喜び、感謝し、神様をほめたたえているのです。

神様の富というのは、主イエス様の十字架上に示された神様の無限の愛、優しさを意味する言葉です。私たちを愛し、私たちを救うために、神様は知恵と知識の限りを尽くして計画し、すべての事柄、特に私たちの罪と弱さから生じてしまう痛みや苦しみや悲しみの出来事を取り繕い、すべてのマイナス要素をイエス様の十字架の贖いによってプラス要素に変えながら、すべてを良いものへと造り変えるために、昨日も今日も、そしてこれからも、主イエス様が再びこの地上に来られる時まで、神様の道を整え続けてくださるのです。

34節と35節に「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」とありますが、これはイザヤ書40章13節とヨブ記41章3節からの引用であると思われますが、ここにも主の心=主の知識、相談相手=主の知恵、報い=主の富がどこから来るのかと問いかけられていますが、答えは誰からも、どこからも来ていないということ、つまり神様がすべての出発点であり、源であり、そして終着点であるということです。始めであり、終わりなのです。その愛の中で、主の御手の中で、私たちは生かされています。

36節にこのようにあります。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」と。私たち一人ひとりは、神様から出て、神様の愛によって保たれ、神様に向かって歩む者です。

神様に背を向けて罪に生きていた私たちがイエス様を通して悔い改め、神様に立ち返って、神様の喜びのために、神様の栄光のために生きること、つまり神様を愛し、隣り人を愛し、互いに愛し合って生きることが神様の御心です。

この愛の手紙は、私たちがいつも謙遜に生きることが神様の御心であると私たちに伝えるために書き送られました。主イエス様とご聖霊の助けを受けて、この大いなる恵みと愛に日々応えて生きる者とされてゆきましょう。