帰って来たトマス

宣教『帰って来たトマス』 大久保バプテスト教会副牧師 石垣茂夫  2020/04/19

招詞:ペトロの手紙一1章8~9(p428)

聖書:ヨハネによる福音書20章19~31節(p210)  関連聖書箇所・ヨハネ福音書11:16,14:4~5

賛美:新生讃美歌514 恵みの主は、新生讃美歌486 ああ主のひとみ

「はじめに」

わたしたちは、コロナウイルス感染回避のため、3月29日の礼拝から、「礼拝は自宅で守る」ことになりました。初めてのライブ配信の為のお働きには、多くのご苦労があることも分かってきました。感謝して、もうしばらくこのような形で守らせて頂きましょう。皆さまと共に、これまでのように、ご一緒に守れます礼拝が回復しますよう、祈りつつ待ちましょう。

今朝は、「復活の主イエスへの信仰」を導かれた、十二弟子の一人「トマス」をご紹介したいと思います。トマスが、この信仰に導かれたのは、主イエスの復活(イースター)から八日目、丁度、今日のことでした。

その、トマスの人物像を知るには、ヨハネ福音書だけに登場する三回のトマスの言葉が拠り所になります。

トマスについては、讃美歌に歌われていますように、「疑(うたが)い惑(まど)うトマス」であろうと思います。わたしはそのように思いながらも、ヨハネ福音書に登場するトマスを、その始めから追ってみました。そうしますと、彼の口によって短いながら、重要な言葉が発せられていることを知らされ、その人物像が浮かんでまいりました。

ヨハネ福音書の三つの聖書箇所を読みながら、トマスが導かれていった「復活の主イエスへの信仰」に、わたしたち自身も導かれたいと願っています。ご一緒に聖書を開きながらお聞きください。

 

「勇ましい男、トマス」

さて、このトマスですが、トマスが、ヨハネ福音書に最初に登場するのは11章16節です。この時の出来事には「勇ましい男、トマス」が居ます。

その頃主イエスは、「お前は、自分を神としている」、「神を冒涜(ぼうとく)している」と咎(とが)めるユダヤ人たちによって命を狙われる立場に追い込まれていました。そのため、主イエスとその一行はエルサレムを遠く離れ、ヨルダン川の向こう岸・国外に逃れていました。そのときの事です。

折悪しく、ベタニア村に住む友人ラザロが危篤(きとく)だとの知らせがイエスのもとに届きました。ラザロは、マルタとマリアの兄弟です。主イエスは深く悲しみ、「ラザロを起こしに行く」と言いました。ベタニア村はエルサレムからわずか3キロの村です。

弟子たちはこう言ってイエスを留(とど)めました。「ユダヤに戻るのですか。それは死を覚悟するほどの危険な事ではないですか」と。しかし、イエスはベタニア村に向かって歩き出してしまいました。

その主イエスの決断に対して、トマスが言った言葉があります。

11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った(p189)。

ディディモとは双子(ふたご)の事です。仲間からは“トマス”という名前でなく、愛称“ディディモ”、“双子ちゃん”と呼ばれていたようです。彼は、命がけでユダヤに戻るという主イエスの決断に対して、他の弟子に先んじて「我々も一緒に死のうではないか」(11:16)と言ったのです。ここに“勇ましい男、トマス”を感じないでしょうか。トマスにはそうした“一直線の男”という一面がありました。

 

「正直なトマス」

次にトマスが登場するのは、ヨハネ13章から14章にかけてです(p196)。それは「最後の晩餐」と思われる場面です。主イエスがその席で「弟子たちの足を洗った」ことで知られています。

その席でトマスは、主イエスと問答をしています。

主イエスがその席で、「わたしは、しばらくはあなたがたと共にいるが、一度いなくなる。

あなたたちは、わたしを捜しても一緒に行くことは出来ない。

わたしはあなたたちのために、場所を用意しに行くのだ。」(13:33~)と、謎のような言葉を発したのです(p196)。

さらに、14章4節5節で、こう続けます。

『わたしがどこへ行くのか、あなたたちその道を知っている』と主イエスは言われました(14:4)。

すると トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのかわたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と切り返したのです(14:5)。

分からないことは「分からない」、信じられない時は「信じられない」と、正直にはっきりと言えるトマスでした。この言葉から「正直なトマス」とも呼ばれています。分からないことには「分からない」と食い下がって行くトマスがここにいます。「勇ましいトマス」に続き「正直なトマス」といわれることがあります。

 

「弟子たちに現れた復活の主イエス」

聖書朗読では、19節からお読みしました。

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

「その日」とは「主イエスの復活の日」の事です。主イエスの十字架の死から三日目の朝の事です。「その日」、一つの部屋にひっそりと集まっていたのは、ユダを除く十一人の弟子たちです。今は興奮していて、何をしてくるか分からないユダヤ人たちから身を守ろうとして、用心深く戸を閉め、一つ部屋に集まっていました。

「その日」、朝早く、弟子たちは、主イエスのご遺体が墓から消えたという事を、マグダラのマリアによって知らされていました(20:1~10)。更に同じ日、マリアはただ一人、復活の主にお目にかかっていたのですが、そのことも知らされていました(20:16)。そのことで、マリアは「復活の主」に最初にお会いした人となりました。

「その日」の夕方になったときのことでした。「あなたがたに平和があるように」と言って主イエスが現れたのです。これは、「シャローム」・「こんにちは」という言葉です。そう言って弟子たちの真ん中にお立ちになり、十字架の傷跡をお見せになりました。これで二度目です。

20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

ところがどうしたことでしょうか、トマスだけが、その場にいませんでした。トマスはどこに行ってしまったのでしょうか。そしていつ帰って来たのでしょうか、いつの間にか、また一緒に座っているのです。

「この大事な時に、お前はどこに行っていたのだ。わたしたちは今、復活の主にお会いしたのだぞ!」このように咎(とが)められたことでしょう。

そこでトマスは、「わたしは信じない。あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(20:24,25)。と言いました。

トマスは、主イエスの十字架の死を見てからは、益々主イエスの事が分からなくなっていました。ふらふらと、どこかへ行っていたのは、そのためかもしれません。しかし、幸いにもトマスは帰ってきました。「 帰って来たトマス」は、いつしかそうした話し合いの輪に加わっていました。

 

「帰って来たトマス」

20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

さて、復活の主イエスが登場するのは、それから八日目のことです。

八日後とはイースターから数えて八日後のことです。復活の主イエスは、 十一人の弟子たちがひっそりと集まっている中に「あなたがたに平和があるように」と挨拶してお立ちになりました。これで三度目です。

その三度目に、主イエスが言葉をかけたのはトマスだけでした。八日の後、主イエスは“ディディモ”トマスを目指して現れなさったのです。

20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

主イエスは、「トマスよ、自分がしたいと思うように、いましてみたらどうか」と言われ、傷ついた体をお見せになりました。トマスは主イエスの傷口に触れたのでしょうか。いや、トマスは主イエスに触れることはしなかったのです。トマスは、主イエスに触れてもよかったのですが、それはもうどうでもよい事でした。トマスはもう何も言えなくなっていました。ただ一言、 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った(20:28)。

 

わたしは本日の宣教題を「帰って来たトマス」としました。これは、ボンフェッファーが「ヨハネ20章の説教」の中で、以下のように言っていましたので、そこからいただきました(Dietrich Bonhoeffer説教全集ⅠⅡⅢ 第三巻p190)。

「トマスは、主イエスの復活を信じる思いをもって弟子たちの中に帰って来ていた。本当は復活の主イエスを信じたいとずっと思っていた。今、ここでこの方を信じなければ、これまでの人生は空しくなるのだと知ったのだ。

トマスは、主イエスを疑ったことを恥じて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。主イエスの前にひれ伏して、“わたしの不信仰を助けてください”そう言ったに違いない。」このように言っています。

 

この日、この時こそ、トマスに「復活の主イエスへの信仰」が生まれた瞬間であったのです。トマスはこれまで迷いに迷い、疑ってきたけれど、もうここで逃してはならないと思ったのです。

主イエスは“ディディモ”トマスを目指して現れなさったのです。

主イエスは、いつも、一番弱っているとき、弱っている所を目指して来てくださいます。“信じられない”、“わたしはだめだ”と思っているところを目指してお出でになり、その人の前に立たれるのです。

わたしたちもトマスのように、一人一人が、思いがけない出会いで主イエスと出会って来ました。その出会いをただ思いがけないこととして受け流してはならないのです。この出会いは、ここでつかまなければならないという瞬間でもあるのです。トマスはこの瞬間に、そのような思いに導かれ、手を伸ばしたのです。

トマスの、信仰への歩みは、まさに、わたしたちの歩みでもあります。

お読みいただきました聖書箇所の終わりは、この言葉で結ばれています。

20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

復活された主イエスに対して、トマスが告白したように、今捧げている礼拝で主イエスを「わが主、わが神」と告白するように導かれましょう。復活の主は、わたしたちの新しい命です。わたしたちは救われています。この度の苦難の中でこそ信じて、主イエス・キリストの祝福を受け、その命によって歩ませて頂きましょう。

 

[祈り]

主なる神様。あなたは「復活のキリスト」となって、トマスを訪れてくださいました。

今も、主に在る兄弟姉妹のお一人お一人に、ご家族に、そして共に働く仲間に訪れてくださり、深い慰めと勇気を与えてくださっています。コロナウイルス感染防止のため、医療の最前線に立つ方々が、休む間もなく忍耐を以て戦ってくださっています。そのような現場に立つ方々に、特別な力を与えてください。

主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン