平和の神

「平和の神」 宣教要旨 父の日・命どぅ宝の日を覚える礼拝    2015/06/21

聖書  フィリピ4章2-9節(p366)

今朝は先ほどのアピールにありました6月23日の「命(ぬち)どぅ宝の日」を覚えて礼拝をしています。

長い間沖縄で起きて、沖縄の人が苦しんでいる問題を、沖縄の人々の戦いに負わせたままでいいのかと、多くの皆さんが思わされておられることでしょう。信仰を持って教会に集うわたしたちは、「社会の様々な課題」に対してどう向き合っていくことを求められているのでしょうか。特に、フィリピ4章8節9節のみ言葉に耳を傾けて、ご一緒に考えて行きたいと思います。

今朝は2節から9節までを読んでいただきました。2節から7節までには、教会内で教会を二分するような問題になっていたと考えられる、教会を代表する二人の女性の、信仰にまつわる対立が記されています。この争いに対して、パウロは、何よりも神に祈りなさい。「神の平安」は、祈りの答えとして神が与えてくださると伝えています。

8節と9節は語調を変え、「終わりに兄弟たちよ」と、教会の全員に向って呼びかけています。

ここからは、教会は内部のことに捉われていないで、社会で起きている課題に関心をもち、社会との関わりを深めなさいと勧めているように思えます。「平和の神」は社会全体において、広く働いておられると、教えたいのでしょう。アテネで、あるいはコリントで苦戦したパウロは、既に、大事なもう一つの面に目を開かれていたと思われます。それは、キリストの福音とは無関係に思える社会の中でも、神は働いておられるということです。

4章8節と9節、ここはパウロがキリストに結ばれて生きる者が、この世と如何に関わっていくべきかについて、語っている箇所です。聖書を開いてください。

4:8 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。

すべて・・・、すべて・・・、と「すべて」と言う言葉一つ一つ付けて、六つあるいは八つの項目をあげていることが特徴的です。ここにあります八つの項目はみな、当時のギリシャの思想家たちがたどり着いた、正しい生き方を表わす言葉だと言われています。

パウロは、その言葉一つひとつに、念を入れるように『すべて』という言葉を付けました。

パウロの意図は、一つ事をこれと、決め付けないで、各自の感性に委ね、各自が社会で出会ったことを広く受け止めて、自由に判断し行動できるようにと配慮して、『すべて』という言葉を付けたと言われています。

パウロは、神に逆らい、非信仰的と思われている社会にも、「神が良しと認めるもの」が見出さると捉えるようになっていました。人間とその社会は、多くの面でキリストと対立します。その罪の根深さはわたしたち自身が一番よく知っています。しかしわたしたち自身も、「神がいない」と思われるような、そうした中から救われて、今この恵みの中にあるのではないでしょうか。従って大事なことは、反キリストと見える社会においても、キリストご自身は主であることを知るということではないでしょうか。今日のみ言葉から、わたしたちは、信仰者の交わりの場である教会の形成に仕えるとともに、教会から遣わされ、神とは無関係に生きているかのように見えるこの世に向って「わたしたちは神のみ手の中にある」と、証ししつつ参画していくようにと促されているのです。

わたしたちは「平和の神」(4:9)の使者なのです。