心が神から離れていては

「心が神から離れていては」 二月第二主日礼拝宣教 2021年2月14日

 マタイによる福音書 15章1節〜20節      牧師 河野信一郎

 おはようございます。昨夜11時過ぎには非常に大きく長い揺れの地震がありましたが、みなさんは大丈夫でしょうか。わたしたち家族や教会を心配してくださり、メールをくださった方々もおられて励まされました。実に10年ぶりの大きな揺さぶりを受けましたが、昨夜の震源地である宮城・福島にいらっしゃる方々、諸教会を覚えたいと思います。今回の大きな地震は、関東圏で生活するわたしたちにとって10年前の東日本大震災を覚えるタイムリーなリマインダーになりましたが、来月7日の主日礼拝は、オンラインのみとなりますが、東日本大震災を覚える礼拝をささげますので、どうぞ今からお祈りに覚えてください。

しかしそういう中で今朝も皆さんとご一緒にオンラインで礼拝を神様におささげできる幸いを嬉しく感じますし、この幸いを与えてくださる神様に感謝いたします。今日は「バレンタインデー」でありますが、日頃からわたしたちに愛を豊かに注いでくださる神様といつも共に歩んでくださる主イエス様に対して心を込めて礼拝をささげてゆくことを大切にし、ご聖霊の励ましと聖書のみ言葉によって、神様の愛を今朝も豊かに受けて行きたいと願います。

新型コロナウイルスの新規感染者数は、幸いなことに減少の一途をたどっています。東京の去る週の感染者数は平均388人です。世界的にもこの一ヶ月ほどで感染者数がほぼ半減しているとの報道が昨日されていましたが、ワクチンの接種ができる日も近づいてきております。またご一緒にこの礼拝堂に集って礼拝できる日が来ますので、それまで神様に信頼し、イエス様から目を離すことなく常に祈り、日々忍耐してまいりましょう。お互いのために祈りましょう。主イエス・キリストのみ名によって祈り合える恵みが与えられている事に感謝です。

さて、今週の水曜日17日から今年の受難節・レントが始まり、4月3日まで続きます。主イエス様の十字架への道のりを覚えつつ過ごす1ヶ月半です。教会学校と水曜日の祈祷会では昨年のクリスマスから4月4日のイースターの期間、バプテスト連盟から出版されています「聖書教育」に沿ってマタイによる福音書を読み進めておりますが、緊急事態宣言が解除されても3月末まで教会学校等は休会としておりますので、週報の裏面にあります「聖書日課」と石垣副牧師が毎月ご準備くださっている「聖書の学び」をお読みいただければと思います。

しかしもっと学びたいという場合は、大久保教会が宣教協力をしていますアメリカのガーデナ・トーランス南バプテスト日本語教会へわたしが毎週送っていますメッセージがその教会のフェイスブックに掲載されており、大久保教会の教会学校と水曜祈祷会で聴いています同じ箇所を取り扱っていますので、そちらを合わせて読んでいただければ新しい発見があるかもしれません。ガーデナ・トーランスの日本語教会は無牧師になって3年以上過ぎていて、大久保教会はずっとサポートしています。これも協力伝道の一つですので、お祈りください。

さて、今日から3月28日の棕櫚の日礼拝まで、私が宣教する時は、今回の聖書教育の学びでは取り上げられていないマタイによる福音書の箇所を選び、主イエスのみ言葉の分かち合いをしてゆきたいと思います。その第一弾として今朝導かれたのが少し長い15章1節から20節です。この箇所が今回とても強く心に迫って来たのは、この箇所がわたしたちの今年度の年間聖句と標語に関連していると感じたからです。今朝は「心が神から離れていては」という主題で宣教させていただこうと思いますが、わたしたち一人一人の心が神様から離れていては心が汚れてしまうということをお話ししたいと思います。では「心が汚れてしまう」とはいったいどういうことなのか。今の自分の心の状態は果たしてどうであるのか。そういう心のチェックができればと願っていますが、重要なのは神様から離れないということです。

最初にみなさんと確かめ合いたいことは、わたしたちの心は神様から離れているかどうかということです。みなさんの心は神様につながっていますか。心が神様から遠く離れていませんか。心が離れているという意味は、神様を信じ、神様により頼まないで、自分の知恵や経験や感情を優先して、自分の力、努力だけで生きている、生きようとしていることです。

もし自分の心は神様から離れている、信じていない、自分の信念だけで生きている、そのために心に疲れや虚しさを感じ、神様を遠くに感じているという思いがあれば、今朝イエス様はあなたに「こっちだよぉ〜」と手招きしてくださっています。このイエス様の手招きに答えてイエス様のそばに来てイエス様の手を握れば、あなたは神様につながります。今後一切、神様を遠くに感じたり、離れていると感じることは無くなります。どうしてそのように言えるのか。それはイエス様があなたの手を常に握りしめ、共にいてくださっているからです。あなたがイエス様を救い主と信じてこのお方の手につながれば、イエス様はあなたの手を決して離したりしません。そしてこのイエス様がわたしたちを神様のもとへ導いてくださいます。実は、イエス様はわたしたちと神様を再びつなげるためにこの地上にお生まれになり、教えと行いをもって神様につながる方法、道を示してくださいました。イエス様はわたしたちと神様をつなげるパイプです。この祝福のパイプにつながると神様の愛と生きるために必要な知恵と力が日々絶え間なくわたしたちに注入され、豊かな実を結ぶことができるようになります。わたしたちが結ぶ実については、昨年の10月から1月までお話しして来ました。

しかしイエス様につながらず、心が神様から遠く離れていますと、どういうことが心に起こるのか。あまり良くないことです。様々な罪の症状が人間関係の中で表れてきます。今朝はそれらの症状を見てゆきたいと思いますが、まず1節2節をご覧ください。「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません』」と言ってきます。このファリサイ派の人々と律法学者たちは、「神様の近くに常にいて、神様に忠実に仕える者」という自負がありました。

わたしたち現代に生きる者はコロナウイルスに感染しないために気をつけて手洗いをしますが、ユダヤ人にとって「手を洗う、洗わない」というのは衛生上の問題ではなく、宗教上の問題でした。何故ならば、神様を信じない異教徒や律法を守らない生活する人々が周りにたくさんいる中で、ファリサイ派の人々は「聖なる生活」を送ることを重視し、特に食事は神聖な時と場所であると考え、その時に口にする食べ物に触れる手が汚れていることは許されませんでした。ですから、異教の人々や律法を守らない「汚れた人」とされる人々が共に生活する社会に触れてきたイエス様の弟子たちが、まかりなりにもユダヤ人たちが手を洗わないで食事をすることは見過ごせないことでした。イエス様を通して神様につながっていないと、人と自分の行いを比べ、自分のことは棚に上げて周りの人の行動をいとも簡単に批判したりします。心が神様から離れているとそういうことが頻繁に人間関係の中で起こります。

しかしイエス様は彼らに対して「あなたがたは律法を守っているのではなく、律法に付け加えられた人間の言い伝えに縛られ、その言い伝えを武器に人々を見下し、心の中でいつも人々を裁いてしまっている」と3節から6節で彼らの間違いを指摘します。読みましょう。「そこで、イエスはお答えになった。『なぜ、あなたがたも自分の言い伝えのために、神の掟(律法)を破っているのか。神は、「父と母を敬え」と言い、「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。「父または母に向かって、『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』というものは、父を敬わなくて良い」と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている』と言っています。ユダヤ社会には「コルバン」という「これは神様への献げものだから」と言えば両親への責任を果たさなくても良い「言い伝え」があり、両親を大切にしない風潮がありました。イエス様はそういう心の醜い部分、「主のために」と言いつつも自分の都合や利益のために律法と言い伝えを良いように使い分けている間違いを指摘しています。

心が神様から離れていると悪知恵が働き、自分のことしか考えなくなるのです。両親を粗末に扱ったり、人を小馬鹿にしたり、優越感に浸って人を簡単に裁く偽善者になるのです。ですから7節から9節で主はこう言われます。「偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている」と。神様から心が離れていると口先だけで、つまりダブルスタンダードで生き、神様の前にいる時とそうでない時の生き方は全く違ったものになっていて、はたから見て滑稽なものになっている。しかし、みんながそういう生き方をしているから滑稽に見えない。そこが問題なのだと思います。

そのことを指摘されたファリサイ派や律法学者たちはイエス様につまずいたと12節に記されています。そしてイエス様を憎むようになり、その憎悪が殺意に変わって行き、十字架に繋がってゆきます。わたしたちの心が神様から離れているとそのような感情が心に芽生え、たとえ本当に人を殺さなくても、心で人を殺してしまう。そういうことを繰り返してしまう罪を犯すのです。イエス様は「そのままにしておきなさい」と弟子たちに言われます。そのままにしておくことによって神様の御心がなされる、のちに主の十字架上で成就するからです。

さて、ファリサイ派の人々にそのように話した後、イエス様は群衆に向かって語り始めます。10節から11節です。「それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。『聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである』」と教えます。しかし聞いていた人々は弟子たちを含めてよく理解できなかったようですので、15節で弟子のペトロが進み出て来て、「その例えを説明してください」とお願いします。

続く16節から18節を読みます。「イエスは言われた。『あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出てくるので、これこそ人を汚す』」のであるとイエス様は言われます。その心から出て来る人を汚す醜い思いや行為の例が19節に列挙されています。すなわち、「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口など」です。使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙5章でそれらを「肉の業」と読んでいます。「肉の業」とは神様の思いを優先せず、隣人の心も尊重しない、まったく無視してひたすら自分の欲望を満たそうとする行為です。

「口からわたしたちの身体の中に入るものがわたしたちを汚すのではなく、わたしたちの心から出て来る思いが人を汚す」と主は言われます。それでは、主イエス様が言われる「人を汚す」とはどういうことでしょうか。短く二つのことを申し上げます。

一つ目は、わたしたちの心から出る愛と配慮のない言葉や行動によって目の前にいる人、周りにいる人たちを傷つけたり、悩ませたり、悲しませたり、怒らせたり、苦しめてしまい、その人たちの心のリアクションとして怒りや憎しみや拒絶感を心に抱かせてしまうということです。一旦口から出た言葉はどんなに頑張っても元へ戻すことも、消すこともできません。わたしたちの愛と配慮のない言葉や行動が周りの人の心を「汚す」ことにならないように、わたしたちは常に心と口を制御することが大切です。しかし、それでも間違いを犯してしまう弱さがあります。間違いを犯した時にすぐにすべきことは「ごめんなさい」と謝ることと「主よ、助けてください」とイエス様に助けを求めることを心にとめましょう。

「人を汚す」ということでもう一つ分かち合いたいことは、罪を犯して汚れることによって神様の御前に立つ時に自分では申し開きができないということです。申し開きや自己弁護ができる言葉がないのです。しかしそのようなわたしたちを神様は憐れんでくださり、救い主、真理の「言葉」を遣わしてくださり、わたしたちが担うべき罪の代価をわたしたちに代わってすべてをイエス様が担ってくださり、十字架にかかって死んでくださいました。この主イエス様がわたしたちの代わりに十字架の道を歩まれます。わたしたちは悔い改めて、イエス様につながり、いつも主に助けを求め、主の言葉に聴き従って歩む必要があります。しかし、その必要も神様が満たしてくださるのです。大切なのはイエス様を通して神様につながることです。つながっていれば、主イエス様がわたしたちの心を作り変え、神様に喜ばれる実を結ぶ心へと変えてくださるのです。