心に納め、思い巡らす時

「心に納め、思い巡らす時」 年末感謝礼拝 宣教 2019年12月29日

 ルカによる福音書2章19節        牧師 河野信一郎

2019年最後の主日の朝を共に過ごし、神様と主イエス様に賛美と礼拝をおささげできる恵みを主に感謝いたします。

今朝は「心に納め、思い巡らす時」と題して、宣教をしたいと思います。ルカ福音書の2章19節にある「マリアはこれらの出来事を全て心に納め、思い巡らしていた」という言葉から題名を付けました。マリアが心に納め、思い巡らしていたものとは一体何であったのかをご一緒に考え、神様の御心を探し求め、神様がわたしたちに求めておられることを聴き取ってゆきたいと願っています。

皆さんは、今年のクリスマス、どのようなことを思い巡らしながら過ごされたでしょうか。イエス様のことでしょうか。離れて暮らす家族のこと、ご高齢のお父様やお母様のこと、仕事や勉強のこと、今抱えている問題や課題のこと、将来のこと、思い巡らすことは色々とあると思いますが、多くの場合、日々不安に感じていることかもしれません。クリスマスが終わった今、この1年間の歩みを振り返りながら、様々なことをお感じになられていると思います。神様が与えてくださった数々の恵みを思い返しておられるでしょうか。今日を含めて後3日、この1年を思い巡らすことができると思いますが、感謝をもって終わることができれば、幸いなことではないでしょうか。神様もそのように望んでおられると思います。

さて、わたしには5・6年前に天城の全国少年少女大会で出会った人で、今は助産師になるべく国家試験の勉強中で、九州の看護学校でただいま実習中の友だちがいます。彼女は、実は大久保教会で学生時代を過ごされたSCさんの娘さんです。その彼女が24日の夜にこんなことをフェイスブックに投稿していました。

「助産学生のクリスマスはクリスマス礼拝には出れたものの、アドベントの時期もイヴも実習。いつもと違う少し寂しいクリスマス。そんなこんなで考えること。マリア、出産後にどこの誰かも分からん人が天使に言われたりしてわが子を見に来たわけやん?出産ってめっちゃ体力使うし、そもそも旅の途中で疲れとるやろし。とりあえず寝たかったやろな〜と。そんな中で(わが子を見に来た羊飼いたちに)ちゃんと対応して偉いな〜と。で、そもそも誰が介助したんやろ?生まれてくる時赤ちゃんであるイエスをその手で受け取った人がいるはず!介助した助産師?産婆さん?も、まさか生まれた子が神の子とは思わんやったろうな〜。イエスはどんな風に生まれてきたんやろ?最初にイエスに触れた助産師はどんな人で、イエスが生まれた時どんな気持ちやったんかな?そんなこんなで年末まで実習です。」

この彼女の投稿に対して、彼女の友だちから色々なコメントが寄せられていましたが、大半はポジティブなものした。「馬小屋を貸してくれた宿屋の女将さんが介助してくれたんじゃあないだろうかとか。モーセを取り上げた助産師のように、その町の助産婦であったかもしれないし、その町の女性たちであったかもしれないとか。基本的に男性は出産に関わることはなかったらしいから、今みたいに夫の立会い出産はなかったかもねとか。きっと色々な人に助けられて彼女はイエス様を産んだんだろうね。でも、今とは考えられないほど不衛生な中での出産だっただろうね。でも、そのような中にイエス様は生まれて来てくださったんだよねとか。」、こういうコメントがあり、わたしも色々と想像力を働かせて考えました。

彼女は、このクリスマスの時、助産師の立場から色々なことを思い巡らしたようです。彼女が思い巡らしたことは、福音書には記されていないことです。イエス様を出産した本人のマリアも、10ヶ月の妊娠期間や身重のままの旅、見知らぬ町での出産に関して大変であったこと、言いたいこと、苦労話は山ほどあったと思いますが、福音書には「マリアはこれらの出来事を全て心に納め、思い巡らしていた」とだけ記されています。ヨセフに関して云えば、一言も触れられていません。どうしてでしょうか。それは、クリスマス物語の主役は、救い主イエス様であるからだと思います。たとえ乳飲み子であったとしても、神の子イエス・キリスト、王の王、主の主、救い主としてお生れになった方が神様の愛の表れであり、わたしたちは、イエス様に集中すべきだからだと思います。

しかし、この2019年の最後の主日、アフタークリスマスの時に、「マリアはこれらの出来事を全て心に納め、思い巡らしていた」という「これらの出来事」とは何であったのか、彼女は心に何を納め、何を思い巡らしていたのかを少し考えてみたいと思います。しかし、これからわたしが皆さんと分かち合うこと、お話しすることは、限られた時間内でわたしが思い巡らしたことですので、思いと配慮の足りない部分や気づかない所があると思います。もし皆さんが気づいたこと、考えた視点があれば、ぜひ後でお聞かせいただければと思います。

まず、マリアが思い巡らしたこととして考えられるのは、大きく分けて二つのステージがあると思います。一つは、神様がマリアの人生に介入する前と、もう一つは神様が介入した後です。もっと大げさに言うと、つまり、BC・紀元前とAD・紀元ということになります。ビフォークライストとアンノドミニ、Before Christとin the year of Our Lordということです。マリアが思い巡らした事は、彼女にとってそれ程までにインパクトのあったことと考えることができます。

神様がキリストを通してマリアに介入されるまで、マリアはガリラヤ地方のナザレという町に住む一人の若い娘でした。彼女は神という存在を信じ、神を畏れる者であったと思います。申し分のない男性との結婚も決まり、幸せな婚約期間にあったと思います。家族や友人たち、町中の人たちからも祝福されていたでしょう。

しかし、ある日突然、神様が彼女の人生に一方的に介入して来て、天使ガブリエルを遣わし、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と一方的に宣言するのです。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と命じます。マリアは、「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。わたしはまだ結婚していません。男の人を知りませんのに」と言うのですが、天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。神にできないことは何一つない」と言います。マリアはただただ神様を信じ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言って、神様の御心を受け入れ、神様を受け入れます。

その後、ヨセフにこの出来事を話し、これからのことを真剣に話し合ったでしょう。様々な思いが最初の分かち合いの中でぶつかったと思いますし、ヨセフが苦悩する姿をマリアは見ていたでしょう。ヨセフにも天使が夢の中で現れ、マリアを妻として迎える決心をした後も、自分たちの都合や様々な計画・予定を繰り上げて結婚をしたと思いますが、その中でも両家の両親や家族への説得、早急な準備など、色々大変であったと思われます。マリアは、その後ユダの町に住む親類のエリザベトを訪ねて、そこに3ヶ月ほど滞在します。エリザベトやザカリアと過ごした日々、交わりはどのようなものであったでしょうか。エリザベトの妊娠のこと、マリアの妊娠のことを互いに喜んだと思います。マリアは、マグニフィカートという現在では有名なマリアの賛歌をそこで歌います。この賛歌にはマリアが思い巡らしたことの中心があると思います。

ヨセフはナザレで彼女の帰りをひたすらに、あるいはヤキモキしながら待っていたでしょうか。マリアがやっとナザレに帰って来たと思ったら、ローマの皇帝にとって住民登録をせよとの勅令が出され、ヨセフもダビデの家に属していましたから、ナザレからユダヤのベツレヘムへ行くことになりました。マリアは、ヨセフに同行してベツレヘムへ行く必要はありませんでしたが、ヨセフと話し合った結果、夫と共にベツレヘムへ行くことに決めました。考えられる理由はいくつかありますが、ヨセフだけで登録に行っている間に子どもが生まれる可能性もあると感じ、神の子を宿しているマリアのそばにいつもいて、彼女と生まれてくる子どもを守るという覚悟がヨセフにはあったからだと思います。

二人はナザレからベツレヘムへと旅をします。やっとベツレヘムに着いても、彼らと同じような旅行客で町は溢れかえり、泊まる宿が見つかりません。そういう中で、マリアは月が満ちて産気付きます。やっとの思いで見つけたのが家畜小屋でした。ユダヤ教の律法で男性は出産に立ち会えません。子どもを取り上げることのできる女性を捜したり、出産の準備をしたり、宿屋の人たちは灯りを灯すランプをかき集めることも大変であったかもしれません。陣痛はどれぐらいあったのでしょうか。出産までにどれだけの時間を要したのでしょうか。お産は軽かったのでしょうか、難産であったのでしょうか。大変な思いで出産したのではないでしょうか。

イエス様が生まれた後、イエス様の体を洗い、マリアのからだ中の汗を拭ってくれたのは誰でしょうか。栄養のあるスープを飲んだり、体に良い食物を口にすることはできたでしょうか。出産後、マリアはどれだけ休むことができたでしょうか。出産した日の夜遅くに羊飼いたちが突然訪れます。予期しないことで驚いたことでしょう。しかしまた、羊飼いたちに起こった出来事を彼らから聞いた時も、その内容に驚いたことでしょう。

マリアは、心の中で何を思い巡らしていたのでしょうか。少なくとも二つあると思います。一つは、神様が彼女の人生に介入し、み子イエスを通して彼女の人生をいかに大きく変え、彼女の人生に衝撃的な影響を与えてくださったのか。もう一つは、彼女が抱く生まれたばかりの乳飲み子、神によって「イエスと名付けなさい」と命じられた子どもが生まれた意味、目的、その使命は果たして何であろうかということであったと思います。

天使が宣言した、「この子は、聖なる者。将来は偉大な人となり、いと高き子と呼ばれ、主なる神によってダビデの王座に着かせると約束された神のみ子である」ということを思い巡らせていたのではないかと思います。また、「私たち夫婦には知恵や力がなくても、神の子は神様が必ず守ってくださる」という確認を持つようになっていたのではないかと思います。

つまり、イエス様を彼女の心の中心に据えたのだと思います。そのようなことを全て、マリアは心に納めます。英語の聖書は、宝物や貴重品、財宝を納めるという意味の言葉を使用していて素敵だなぁと思いました。

これまでの人生の中で、またこの一年の中で起こった様々な出来事をわたしたちは思い巡らしますが、わたしたちは心の中に何を感謝して納めましょうか。それは救い主イエス・キリストを通して神様が私たちの只中に来て宿ってくださり、共に歩んでくださり、日々恵みをくださって、私たちの日々の生活を、人生に大きなインパクトを与え、変えてくださったという喜びと感謝。そしてイエス様を救い主と信じる信仰によって神の子としてくださり、今年も守り導いてくださり、これからもずっと変わることなく主は守り導いてくださるという信頼、これらをわたしたちの心に大切に納めること、それが神様の御心、願いではないかと思います。

イエス様がわたしたちの主、王の王、わたしたちキリスト者の中心です。新しい一年を迎える前に、新たな思いを持ってイエス様をわたしたちの心に迎え、心の中心に置くように、据えるようにいたしましょう。主イエス様を中心にし、従ってゆく時に、神様はわたしたちの歩みを守り導き、そして豊かなる憐れみと恵みとを持って、わたしたちの心を満たしてくださると信じます。そのように信じて、感謝して、委ねてゆきましょう。