思いを一つにして

宣教要旨『思いを一つにして』 大久保バプテスト教 副牧師 石垣茂夫  2019/06/16

聖書:フィリピの信徒への手紙2章1~11節

「フィリピの信徒への手紙」この手紙を『喜びの手紙』と呼ぶほど、『喜ぶ』という言葉に溢れています。同じように、もう一つの言葉、『思いを一つにして』、あるいは『一つとなって』という言葉に出会うのではないでしょうか。これは、何よりも礼拝に於いて、教会の働きに於いて『思いを一つにして』という事です。今朝は、この言葉に注目したいと思います。

この一年間の教会の礼拝について、毎月一度、礼拝準備会を牧師と奏楽者とで行うようになりました。その中で特に、子どもたちが歌える讃美歌を一曲、礼拝に加えましょうということで、時間をかけて選んできました。子どもメッセージの後に歌いますこの賛美のときには、皆さんで、子どもたちと一つとなって賛美していきたいと願っています。

讃美歌に関係することですが、お読みいただいた2章の6節から11節は、「キリスト賛歌」と呼ばれ、今から2000年前の讃美歌であろうと言われています。どのような節(ふし)であったのかは分かりませんが、主イエスの十字架と復活の出来事から30年後と思われる初期の時代に、既に、礼拝の初めには「イエス・キリストは主である」(2:11)と、一つ思いになって賛美し、礼拝が始まったと考えられています。

ところで、こうした讃美歌が歌われたフィリピの教会は、どの様にして始まり、どのような礼拝がなされていたのでしょうか。聖書から得られる情報は限られていますが、使徒言行録16章11節以下にフィリピ教会の成り立ちが短く記されています。

お読みしただけで理解できる記述ですが、パウロはどの町に行ってもまず、ユダヤ教の会堂を頼って宣教を始めました。従ってパウロ一行が探し宛てた「祈り場」の集会にいたリディアをはじめ婦人たちは、ユダヤ教徒に違いありません。ここに、フィリピの教会の基礎ができ、キリスト教会の営みが始まりました。

多くの人は、この時フィリピで最初のクリスチャンとなった「リディアの家が教会になった」と考えました。近年になって考古学者は、何とかしてフィリピ教会の痕跡を探そうと調べたのですが、今に至るまで分からないそうです。2000年まえのフィリピの町は、ローマ軍の退役軍人のために建てられ、軍事的に重要な位置にあり、当然、「ローマ皇帝が神」として崇められていました。そのような時代にユダヤ教信仰はどのように広められていったのでしょうか。ある方は、この町でユダヤ教の会堂を建てるということは、禁じられ、伝道活動もひっそりとなされていたに違いないと想像しました。そのために、礼拝は人目につかぬ河原の「祈り場」という形を取っていたと考えられています。ついには『フィリピ教会という教会堂はなかったのではないか。』、『会堂を持たず、ずっと河原で礼拝していたのではないか。』と捉える方もいるほどです

フィリピ書は、後になって、パウロが獄中からフィリピ教会に宛てて書いた書簡です。

この書簡を読んで気付くことの一つですが、獄中のパウロの心を占めていたのは、自分の命のことではなかったということです。伝道者であり牧師であった彼の心を占めていたただ一つの事は、自分が関わってきた教会の事でした。しかもその教会が一致を保ち、一つであるようにと、絶えず願っていたことに気付かされます。教会が一つとなっていないままで、どうして伝道ができるのかとパウロは身に染みて感じていたのでしょう。

こうしたことは牧師だけの事ではないと、宣教の準備をしながら強く感じました。

教会には、牧師にも優(まさ)る強い愛をもって教会を愛し、教会生活を続けて来られた教会員の、お一人お一人がおられます。そうした存在が、教会を支えて来たと言えるのではないでしょうか。教会には、教会と一つとなって仕えておられる方々がおられることに、新しく感謝の思いが湧いてまいりました。

教会と自分とが一つとなっている、そのことが恵みであると、獄中のパウロが懸命に伝えようとしています。そう言われていながらも、わたしたちに委ねられている教会や連盟、その現状を憂いたり、将来について心配し、苦悩するという事は続くのです。そして場合によっては心痛むほどの深い苦しみを味わうかもしれません。

しかし、そうした苦しみの中でこそ、わたしたちにも、教会と一つとなるということが、私たちの内に起こっているのです。これは恵みであるとパウロは言いたいのでしょう。

 

それにしても、パウロはフィリピの手紙で、繰り返し「一致する」、「一つとなる」ことを求めています。それは何故なのでしょうか。

じつは、このフィリピ教会には、有力な二人の婦人の仲たがいがあったことが記されています(4章)。エポディアとシンティケ、実名まで挙げられている二人の婦人は、パウロの伝道を支えてきた中心人物でもありました。パウロがこの手紙を書いた第一の具体的な理由が、この二人の仲たがいにあったとさえ言われています。

フィリピの教会の印象は決して悪いものではありません。むしろ「良い教会」です。

「生き生きとした教会」であり、献身的に、喜びをもって伝道に励む熱心な教会であったことには間違いありません。しかしそこにも働く「悪の力」をパウロは見ていたのです。

「良い教会」とは、ときには自分たちの側から見て、思い通りにすべてが運ぶ教会になっているのかもしれないのです。これは中々気付くことの出来ない一面ではないでしょうか。

「フィリピ2章1節の言葉」に 「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わりがあるように」、と書かれています。この言葉はキリスト教礼拝における祝福の言葉です。パウロはそのような祝福が与えられる共同体として、フィリピの教会が新しく歩み出すようにと語りかけています。

キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり」は、既にわたしたちに与えられています。だから一つとなりなさいとパウロは語っています。わたしたちは、希望を持って、思いを一つにして歩んで参りましょう。