恵みによって日々新しくされる者

「恵みによって日々新しくされる者」  九月第四主日礼拝  宣教 2019年9月22日

 コロサイの信徒への手紙2章20節〜3章11節        牧師 河野信一郎

 9月から新しいシリーズが始まっていますが、「わたしは、いったい誰か」というテーマです。新約聖書と旧約聖書から、「わたしはいったい何者であり、何をなして生きる存在であるのか。わたしたちを造られ、生かしてくださっている神様の御心は何であるのか」を聴いてゆきますが、今月はコロサイの信徒への手紙から聴いています。過去2回の宣教の中で、わたしたちクリスチャンは何者であるのかを色々な角度から聴いて来ましたが、今朝はキリストに結ばれている者は全て、キリストと共に死んだ者、そしてキリストと共に復活させられて、神様の恵みの中で生かされている存在であることをご一緒に聴いてゆきたいと思います。

しかし、「キリストと共に死に、共に復活させられている」と言う認識をわたしたちはしっかり持っているでしょうか。わたしは今朝ここで互いを裁き合うつもりは全くありません。しかしながら、この「キリストと共なる死に与っていること」と「キリストと共に復活させられている」、つまり「キリストと共に新しい命に与っている」という共通の認識がわたしたちにないと、わたしたちは互いに裁き合うことになり、そうなると教会は立ち行かなくなってしまうということを今朝ともに覚え、共通の認識と理解を持ちたいと願わされています。

「キリストの死とキリストによる新しい命に与ること」ないということは、イコール、わたしたちには「救い」はないということです。真の「平和」もないし、「希望」もない。そして「教会」もないということです。主イエス・キリストの十字架の死と三日後の復活なしに神様の「救いの完成」はありませんし、これなしに教会を建てあげることはできないのです。何故ならば、教会を建てあげる「土台」がないからです。キリストの十字架の死と復活は、キリスト・イエスの福音の土台であり、わたしたちの救いと存在の確固たる土台なのです。わたしたちがキリストと共に死んで、共に復活させられなければ、キリストの死と新しい命に与らなければ、今わたしたちがささげているこの礼拝も全く意味のないものです。

今朝の箇所コロサイ2章23節をご覧ください、「これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです」とある通りで、独り善がりの何に意味も価値もないものになってしまうのです。しかし、主キリスト・イエスのみ名において、全てには意味があり、価値があります。この礼拝は、神様の喜ばれる捧げ物です。わたしたちのための礼拝ではなく、神様のため、主イエス様のための礼拝です。礼拝がわたしたちの独り善がりのものであれば、そこには本当の喜びと感謝がありませんから、わたしたちは色々な理由をつけて礼拝を捧げることを休みます。礼拝を捧げることを躊躇なく止めます。元気になったら、仕事が暇になったら、雨が降らなければ、もう少し暖かくなったら、涼しくなったら、という具合です。神様とイエス様のための礼拝でなくなっているから。

パウロ先生は、2章20節と3章1節で面白い言い方をしています。新共同訳聖書では正確に訳し切れていませんが、パウロ先生は20節で「もしあなたがたがキリストと共に死んでいるなら」と書き記し、1節では「もしキリストと共に復活させられたのであれば」という言い方をしています。

「もしあなたがキリストと共に死んでいるならば、この世に死に、この世の支配から解放されているはずです。自由なはずです。でも、どうしてまだこの世のものに属しているかのように生き、この世の支配に縛られて不自由に生きているのですか。この世の哲学や伝統やしきたり、禁欲主義にとらわれ、イエス様以外の天使を礼拝しているのですか。なぜ使えばなくなってしまう一時的なものや無意味、無価値なものを追い求めてあくせく生きているのですか。そういう者は人間の欲望を満たすだけのものでしょ!」とパウロ先生は20節から23節でコロサイの地に生きるクリスチャンたち、また現代を生きる私たちに書き送っています。

「キリストと共に死ぬ」というのは、神様を無視して自分のために生きて来たこれまでの人生の間違いを悔い改めるということ、優先順位を神様中心に改めるということです。そして「キリストと共に復活させられる」というのは、これまでの自分中心であった人生を軌道修正して、神様に向かって生きる、神様のために生きるということです。ここで「神様のために生きる」と聞くとムッとする方もいると思います。「神様のために生きるって、それこそがわたしを縛り上げることではないか」との考えを持たれるかもしれません。しかし、1節をもう一度しっかりお読みください。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」とあります。分かりますか、「復活した」のではなくて、「復活させられた」存在が私たちです。自分の力で、努力で、信仰で「復活した」のではなくて、「復活させられた」、つまり神様の愛と憐れみ、神様の恵みによって新しい命が与えられているということで、わたしたちにそれを受ける資格や業績やふさわしさがあったからではなく、わたしたちが主キリスト・イエスによって救われたのは、神様からの一方的な愛と憐れみ、恵みによるとパウロ先生はここで宣言したいのです。「もしあなたがたがキリストと共に復活させられたのであるなら、いや、復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」と励まされています。

2節にも「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と言われています。主の恵みによる新しい命に生かされている者として、地上のものに心を支配されないで、上にあるものに心を留めなさいと励まされていますが、この「上にあるもの」とは一体なんでありましょうか。それは「天に属するもの」と訳せます。地上にあるものは全て有限なもので、年月が過ぎれば消え失せてしまうものです。しかし、天にあるものは全て無限で、良いもの、永遠のものです。わたしたちがこの地上で手にするものは掛け替えのないものに感じることがありますが、この地上に残してゆかなければならないもので、決して天に持ってゆくことができないものです。ですから、この地上のものに心引かれるのではなく、上にあるものに常に心を留めなさいと言われています。

主イエス様は、マタイによる福音書6章33節で、「まず神の国と神の義とを求めなさい」とおっしゃいました。神の国へ向かって歩む信仰を持ち、神様の御心を求めて歩む日々を過ごしなさいという励ましです。この世の価値観、判断基準、この世の知恵や力に左右されることなく、上だけに目を注ぎ、神様がイエス様を通して与えてくださる新しい価値観を持って生き、神様の御心を優先しなさいということです。

そうすることでどういうことが起こるか。3節をご覧ください。「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」とありますが、主イエス・キリストによって、わたしたちに隠されていたわたしたちの本当の存在意義、存在理由、人生の目的を知ることが初めてでき、新しい生き甲斐が与えられ、神様に喜ばれる礼拝をおささげし、本当に謙遜を身に帯び、喜びと感謝をもって主と隣人のために生きることができるようになり、そのように神様が助け導いてくださいます。ですから、日々の生活の中で何か迷うこと、困ることが起これば、すぐにイエス様に助けを求め、祈るのです。そうしたらその課題や問題はキリストの光に照らされ、恵みのうちに解決の糸口が与えられてゆきます。

5節から11節には、キリストと共に死に、キリストと共に復活の恵み、新しい命に与っている人たちが捨てるべきものが記されています。5節と8節を読みます。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」、「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨て去りなさい」とあります。これからのものは、神様に敵対することであり、神様の御心がこの地上で行われ、成就することを阻むことですとパウロ先生は言っています。

9節の前半には「互いに嘘をついてはなりません」とあります。10節では、あなたがたの間では偏見や差別があってはいけないということを言っています。そういう嘘や偏見を捨て去る時に、祝福が与えられます。それでは具体的に何をすれば良いのでしょうか。答えは9節の後半から10節にあります。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」とあります。キリスト・イエス様を信じる前の古い性質を捨て去り、キリスト・イエス様につなげられ、キリストを通して与えられる新しい性質をもって生きなさいということです。古いものを手に持ったままで、古いものを着たままで、新しいものを受け取ること、新しいものを着ることはできません。古いものを手放さなければ、祝福を受けることはできません。どうしてでしょうか。わたしたちに差し出されている祝福は聖なるもの、神様の愛であるからです。この愛を受け取る時、わたしたちは神様とイエス様を愛し、隣人を愛し、そして自分をも愛することができます。つまり、神様には忠実に、隣人には誠実に、自分には信実に生きることができるようになります。感謝して、神様の愛を受け取りましょう。