恵みの一日

宣教「恵みの一日」  大久保バプテスト教会副牧師 石垣茂夫                          2021/10/17

聖書:詩編84編2~13節(p921)   招詞:ペトロの手紙一2章3-5節(p429)

 

「はじめに」

一年と九か月に及ぶ感染症拡大は、わたしたちの社会に大きな影響を与えてきましたが、現在、日本では急速に鎮静化しています。

昨年3月ですが、コロナ感染症拡大が始まった頃の宣教で、わたしはカミユの小説『ペスト』を紹介しました。実話をもとにした作品ではありませんが、その小説の終わりに、このように書かれていたのを思い起こします。

「秋風が立つ頃になったとき、ペストは、何の前触れもなく鎮静化した。ペストとの、暑い夏の戦いが終わった。しかしペストは死んだのではない。」このように書かれていました。

ペストは、主にネズミに寄生する蚤のみによって人間に感染が広がる病です。わたしはコロナが鎮静化している状況に触れたとき、二つの言葉がピタリと当てはまることに驚きました。「ペストは、何の前触れもなく、急速に鎮静化した」、それと「しかしペストは死んだのではない」、この二つの言葉です。

新型コロナウイルスは、今、なぜ鎮静化しているのか。これについてある研究者は、まだ確かなしるしを、誰も見つけてはいない、しかしウイルス自体が自滅するという事がある、と言っていました。

 

ところで、一年半にわたって、わたしたちの教会の営みも、大きな影響を受けていますが、そのような中であっても、様々な神の恵みを、改めて感じさせられる日々であると、皆様も感じておられることでしょう。

わたしは、10月3日第一主日から再開された礼拝を守りながら詩編84編11節のみ言葉が浮かんできました。

【84:11 あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。】

このみ言葉は、長く厳しい巡礼の旅の末に、神殿の礼拝にあずかったときの感動を表しています。

過日も、長い方では一年半ぶりに教会に来ることが出来たとおっしゃっていました。実に半年ぶりだという方もおられました。皆様が互いに、この日を待ち望み、再会の喜びをかみしめています。しかし更に、ライブ配信で参加しながら、なお待ち続けねばならない友もおられます。あるいは、配信を受ける手段を持てない方もおられます。そうした方々を覚えると共に、互いに祈り、心を合わせたいと思います。

「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。」

すべての皆様が共に集い、同じ礼拝の恵みにあずかる日を待ち望みつつ、今朝も、み言葉に励まされたいと思います。

 

「礼拝に集中しなさい」

感染症が拡大する中で、教会の活動は大きく制限されてきましたが、その中で、幸いにも「主日礼拝」「夕礼拝」共に、ライブ配信によって守られましたが、もうひとつのこと、「信徒間の交わり」はどうすればよいのかと考えさせられてきました。「礼拝」と「信徒の交わり」、車の両輪のような、この二つのことを皆様も考えておられたと思います。

礼拝後の兄弟会では、Skypeで例会を実施してくださっています。最近になって始めたSkypeでの祈祷会も、交わりを願う中で与えられた一つの試みです。しかし、限界があります。他の交わりはどうすればよいのか、答えは、これから与えられていくことでしょう。

その一方で、わたしは、対話ができない、交わりが進まない、こうした状況の時にこそ、礼拝に集中しなくてはいけない、再開したならばなおのこと、心を込めて礼拝に集中しようと思うようになりました。

ある日の礼拝でわたしは、初めてお会いする男性の隣に座りました。その方は教会の聖書を持っておられましたが、開く様子がありません。

そこで私は、その方の聖書を開いてお返ししました。それでも、お読みになる様子がありません。そのうちに、「余計なことしないで」という素振りさえ感じてしまいました。

わたしたちは礼拝で、自分の隣におられる方のことがとても気になります。その方に初めてお会いする方ならばなおさらです。何とかしてお話しよう、声をおかけしようといつも考えてしまいます。

こうした時の私は、どうも、礼拝に集中していないのです。交わりを求めようとする、この努力は大事な面がありますが、礼拝そのものに心が定待っておらず、別の思いを生み出してしまうのではないか。

この度は、家でしか礼拝ができない状況の中で、これからはもっと、教会では、礼拝に集中しようと、そのような事を考えていました。

 

そうした思いをめぐらしている中で、今朝の招詞の言葉(ペトロ一)が与えられました。そのみ言葉は「礼拝しなさい」と言っているように聞こえたのです。

「ペトロの第一の手紙2章3-5節」をお読みいただきましたが、3節4節に次のような言葉があります。

2:3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。

2:4 この主のもとに来なさい。

この中で、3節のみ言葉は、どなたも素直に受け止めることが出来るでしょう。「わたしたち一人一人は、既に、主イエスの恵みを、味わい知った者だ」と言っています。そして4節の初めで、それだから、なおのこと、「この主のもとに来なさい」と命ぜられています。

ほとんどの聖書が「この主のもとに来なさい」と同じ言葉に訳していましたが、この言葉を深く探った方によると、「来なさい」とは「礼拝しなさい」という言葉になると言うのです。

わたしは、与えられた招詞の言葉によって、「あなたは今、主イエスを礼拝しているのですよ。」と言われているように思いました。

2:3あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。

2:4この主のもとに来なさい。

 

続く4節後半と5節に「生きた石となり、霊的な家を作り、聖なる祭司となれ」いう言葉があります。

2:4b主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、「生きた石」なのです。

2:5あなたがた自身も「生きた石」として用いられ、「霊的な家に造り上げ」られるようにしなさい。そして聖なる「祭司となって」神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

これは、パレスチナの建築を思い起こす必要があります。家を建てる材料は石です。一つ一つの石ではありますが、左右の石、上下の石が塗り固められて家を構築していきます。

わたしたちの礼拝にたとえれば、一人一人が別々に座っいても、神がキリストを「生きた石」とされたように、キリストに結ばれたわたしたち一人一人も「生きた石」とされ、更に、互いにつながっていくのです。

続けて『あなた方は神に用いられ「霊的な家」、「教会」を作り上げなさい。』と言われています。

それでは、教会を作り上げて、その教会でわたしたちは何をするのでしょうか。

キリストと一つになって、互いにつなげられ、「祭司の働き」をするようにと言われます。

「祭司」とは何をする人なのでしょうか。祭司は、神を知らずにいる人、礼拝できない人々に替わって礼拝し、人々に神の存在をを示す、そのような役目をしているのです。そのため、この祭司に求められるのは、集中して礼拝するという事なのです。一心に礼拝して神の存在を表しているのです。

わたしたちの礼拝にも、第一に、そのことが求められているのではないでしょうか。

礼拝しかできないと嘆くのではなく、わたしたちは今、礼拝が出来る幸いの中に戻されてきた事を喜びましょう。

「恵みの一日」

今朝はペトロの手紙と詩編84編から、わたしたちの礼拝を考えています。

詩編は150編ありますが、この84編は「シオンの歌」と呼ばれる「巡礼の歌」の部類になります。

プロテスタントのわたしたちは、普段、「巡礼」という言葉は使いません。それはわたしたちが、特定の場所や建物を信仰の対象としないことよるからです。しかし、聖書が旧約聖書ですので、お許しいただき、巡礼者の信仰から、礼拝者の在り方を学ばせていただきましょう。

これらの詩編「巡礼の歌」は、遠い異国からエルサレムの神殿を目指す巡礼の人々が、旅の途中で詠よみ、あるいは神殿に着いて礼拝をささげたときの詩うたです。

「巡礼の旅」、これはキリスト教徒に限ったことではありませんが、古代の信仰者にとっては、生涯の中で一度あるかないかの、決断のいる大仕事であったと想像します。

計画をたて、健康を整え、沢山の資金も用意しなくてはならないのです。宿もなく危険が待ち受ける旅を覚悟しなくてはなりません。それだからと言って「巡礼の旅」をする人々は、いやいや出かけるのではありません。

巡礼者は、目指す地を思い描いて、神にお会いできるという希望に心を躍おどらせながら、神の都へと進んでいくのです。

 

終わりに、84編からいくつかのみ言葉を選び、長い旅をして神殿にたどり着いた「巡礼者」の礼拝と「わたしたちの礼拝」を考えてみたいと思います。

84:6 いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。

 84:7 嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。

 84:8 彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。

聖書には「シオン」という地名が多く使われます。時には広くイスラエル全体を表しますが、8節の「シオン」は、エルサレムを指し、わたしたちにとっては「教会」を指しています。

「巡礼」の途上にあった旅人は、これまで幾度か過酷な困難に出会ってきました。それでも、目的地である「シオン」を思い、「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とする」と詠うたわれています。乾燥した砂漠のような道を歩く旅であっても、神は、時に雨を降らせて覆ってくださったと詠っているのです。

そのようにして歩みながら、いよいよ目指すシオンが近づいているのを確信し、力を与えられていくのです。

「巡礼者」を教会に集って来られる皆さんに例えるならば、皆様はこの巡礼者のように、誰一人として、仕方なく、義理で教会に来ている方は一人もおられません。それぞれ、お仕事の責任を負っておられます。身近な人のお世話や介護があります。送り出すご家族の感情と折り合いを付ける気遣いをします。時間と、様々な予定を折り合わせて教会に集って来られます。

 

お読みいただいた84編は、そのようにして神殿にたどり着いた時の感動と喜びを詠っています。

しかし、苦労してたどり着いた神殿ですが、そこに長く留まることはできないのです。僅か一日、長くて数時間しか留まることを許されず、その日の内に神殿を出なければならないのです。巡礼者に許されるのは「あなたの庭で過ごす一日」とありますように、その日だけでなのです。長い旅の割には、短く限られた時間なのでした。

 

コロナ感染が始まった頃の教会では、「せっかく教会に来たのに」と思いながら、「おしゃべりしないように」、「できるだけ早くお帰り下さい」と言われてきました。昨年の執事会では、「密になるので」朝のコーヒーは止めましょうという事になってしまいました。これは、言う方も辛いことでした。

しかし「恵みの一日」は、一千倍以上の恵みの日です。これからも、「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです」、このみ言葉を、そのように味わって礼拝に集うならば、なんと幸いなことでしょうか。

わたしたちも世にある者として「嘆きの谷」を歩んでいます。そうであってもそこで終わることなく、「主の家」に住むことを許され、「神の庭」を整えるように招かれた者たちなのです。

教会はこれからも、皆様で心を合わせ、主の言葉と主のパンを用意して、長い道のりを歩んで集って来る旅人、その、お一人お一人を、喜びと祝福をもって迎えましょう。

わたしたちがささげる礼拝において、復活の主キリストご自身が、集まって来られるお一人お一人に近づいてくださいます。

【祈り】