恵む神と恵まれた人

「恵む神と恵まれた人」  アドベント第一主日礼拝  宣教 2019年12月1日

ルカによる福音書1章26節〜38節        牧師 河野信一郎

 今日から待降節・アドベントに入りました。今年のクリスマスは、どのような形で、またどのような方々と共に救い主イエス様のお誕生日をお祝いすることができるでしょうか。今からとっても楽しみです。今年のクリスマスの素晴らしいところは、22日の朝と夕方の礼拝、24日にはイブ礼拝、そして25日の朝と夕べの祈祷会でお祝いが何度もできるということです。もし朝のクリスマス礼拝、そして24日のイブ礼拝の出席が難しいというご家族やお友達がいらっしゃったら、ぜひ22日の夕礼拝にお誘いください。救い主イエス・キリストのお誕生を喜び、心からお祝いしたいと思います。

さて、先週11月24日から本日までの8日間、わたしたちは世界バプテスト祈祷週間として過ごし、世界中で働く宣教師・働き人たちを覚えて祈ってきていますが、そのような中、昨日はアメリカの南部バプテスト連盟の国際宣教局から日本の東京地区に派遣されています宣教師たちとその家族30名ほどがこの大久保教会に集まり、秋の感謝祭をお祝いしました。私たち牧師家族も招かれ、その中に加えていただきましたが、その交わりの最後に、先週の子どもメッセージの中で分かち合ったように、この大久保教会が西大久保伝道所の時代から60年以上にわたって神様にどれほど愛され、祝されてきたか、またその期間、宣教師の方々がわたしたちの教会で誠実に仕えてくださり、教会形成と福音宣教の前進のために協力してくださったかということを分かち合わせていただきました。

その準備をしてゆく中で驚くべきことが判明し、わたしは神様のお取り計らいの素晴らしさを体験しました。それは、この大久保の地で福音の種まきをしてくださり、西大久保伝道所を始めてくださったアーネスト・ハロウェー宣教師の100歳のお誕生日がちょうど昨日であったということです。7年前の7月に93歳で天に召された先生ですが、今年が生誕100周年でありました。ハロウェー先生が生まれ、若い時に救い主イエス様を信じ、神様の召しに答えて宣教師として日本に来られていなければ、わたしは100%存在し得ませんでした。何故ならば、わたしの母はハロウェー先生ご夫妻の愛と祈りと働きによって神様の愛へと導かれ、イエス様を救い主と信じる信仰へと導かれたからです。わたしの父も同じです。福岡の大牟田バプテスト教会での伝道集会で宣教師の方が語る福音を聞いて、その日のうちにイエス様を救い主として信じ受け入れました。わたしは、父に福音を語ってくださった宣教師の方のお名前さえも分かりませんが、主なる神様がまさしくその宣教師の方を豊かに用いて、その方を通して神の愛、罪の赦し、慰めと励まし、希望の言葉が父に語られて、彼はイエス様を救い主と信じ、その後に献身をし、神学校で整えられて、その後は牧師として主と教会、そして人々に仕える者とされました。イエス様を信じる二人が出会って結婚し、わたしや弟妹たちが生まれました。すべては神様の愛、お恵みです。宣教師の方々にはお礼を仕切れないほどです。わたしたちにできることは、いつも宣教師たちの働きを覚えて祈る事です。

さて、今朝はルカによる福音書1章26節から38節を通して、神様はわたしたちに恵みを与えてくださるお方であり、わたしたちは神様からたくさんの恵みを受けて生かされている存在であるということを聴き、感謝し、その恵みに応答してゆく者とされてゆきたいと願っています。

この箇所は、御使ガブリエルがマリアに現れ、彼女が神の子を宿すという神様からの言葉を告げる箇所で、皆さんもこれまでに何度もここからメッセージを聞かれたと思います。そのメッセージの多くは、マリアという女性にやたら焦点が集まると思いますが、わたしは2年前に同じ箇所からまったく違った視点、マリアを通して生まれるイエス様がどのようなお方であると御使ガブリエルが告白しているのかという視点から宣教をいたしました。先日それを読み返してみましたが、けっこう面白い内容でした。もしご興味があれば、教会ホームページの「宣教要旨」欄の2017年12月3日の宣教を読んでいただければと思います。 

さて、26節からご一緒に読んで参りましょう。最初に「六ヶ月目に」とありますが、これは前の5節から25節までの内容と今回の26節から38節の内容をリンクさせる、橋渡しするための言葉で、この二つの出来事にはしっかりとしたつながりがあるということを示す言葉です。どちらの出来事も「神のみ業」であり、「神様の言葉」は確かで力があり、どちらの出来事も「神の恵み」であるということが語られています。

そして「天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた」とありますが、救いの出来事はすべて神様の側から、神様の愛から始まります。神様がいつもイニシィアティブを取られます。そして救いのみ業は「突然」、わたしたち「人間の思いをはるかに超えた形」で行われます。神様は全知全能の神であられます。わたしたちの知恵や経験では計り知ることができないほどの力と知恵と配慮をお持ちの方です。そのお方の言葉を託された天使が、27節をご覧ください、「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった」とあります。神様の言葉が、神様の力がおとめマリアの上に臨むのです。そして今朝、わたしたちの上に神の同じ言葉が臨むのです。 

28節。「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる』」と神様の祝福を一方的に宣言するのです。もしあなたが誰かから突然「おめでとう、あなたは神様に祝福された人!」と言われたならば、最初は誰のことを言っているのか分からないという思いになるでしょう。「おめでとう!」って祝福される身に覚えがないからです。マリアにもそのように言われる身に覚えがありませんでした。ですから、29節に「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」と記されています。

しかし、祝福されることに身に覚えがないわたしたちに目を止め、わたしたちを愛し、わたしたちに力強い祝福の言葉、救い主イエス・キリストをお与えくださる方が、主なる神様、恵みの神様です。その愛の大きさ、広さ、深さを理解することはわたしたちにできません。ただただ、感謝して、恐れ畏みつつ受けるしか、わたしたちには方法はないのです。しかしながら、限られた人間の知恵でそれをわたしたちが図ろうとするならば、わたしたちの心の内には戸惑いと恐れしか生まれて来ません。神様の愛とご配慮、ご計画を理解することはわたしたちには不可能なのです。

戸惑いと恐れを抱かざるを得なかったマリアに対して、天使は「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」と30節で言っています。ここに大切なことが3つ記されています。一つは、「マリア」と彼女の名前が呼ばれているということです。神様はマリアを知っておられるのです。同じように、神様はわたしたち一人一人を知っていてくださいます。神様に知られていない人はこの地上に誰一人として存在しません。なぜなら、すべての人は神様に創造された存在であるからです。

二つ目は、「恐れることはない」という励ましの言葉です。主なる神様はわたしたちの心から恐れを取り除くために救い主イエス様を与えてくださいました。暗闇の中で恐れ、悩み苦しむわたしたちを救い出すためのご計画がマリアを通してここから始まろうとしています。わたしたちの痛みや苦しみや悲しみの中に、神様が介入されるから、憐れみを注ぐから恐れる必要はないという宣言がここでなされています。

三つ目は、「あなたは神から恵みをいただいた」という宣言です。「恵みをこれからいただく」とか、「何かをしたらいただける」という次元のことではなく、すでに「いただいた」、恵みを受け取って完了しているということです。これは神様の愛と言葉の確かさを表す言葉です。マリアも、そしてわたしたちも神様から憐れみを受け、すでに恵みを受けている存在である。つまり、これまでも、今も、そしてこれからもずっと恵みを受け続ける存在として神様に愛されている存在であるということです。 

では、何故わたしたちはそのような恵み、愛をすでに受け、これからも受け続けるのでしょうか。その理由は、わたしたちを用いて神様の救いのみ業を遂行させ、完成したいと神様は願っているからです。そのためにわたしたちは神様に造られ、神様の喜びのために生かされ、恵みを受けています。神様がマリアを造られ、臨まれ、恵みを豊かに注いだのは、31節から33節に記されている通りのことですが、マリアを用いて、神の子、いと高き方の子をこの世に誕生させ、この救い主を王座につかせ、永遠に神の家を治めさせるためでした。

わたしたちがイエス・キリストを通して罪赦され、愛によって新しく造り変えられ、豊かに恵みが与えられている、その理由・目的は、神様の愛をわかち合うため、救い主イエス・キリストを通してすべての人に神様の愛が注がれていることを宣べ伝え、分かち合って行くためです。

34節をご覧ください。「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに』」と答えます。わたしたちも「どうして、そのようなことがありえましょうか。どのように神様の愛を必要としている人たちに分かち合って行けば良いのですか。その術を知りませんのに」と答えます。わたしたちの内には語るべき言葉が、分かち合うべき愛がないのです。わたしたちには何もない、あるのは問いだけです。

しかし、そのようなマリアに対して、たくさんの問いのあるわたしたちに対して神様は天使を通して35節でこのように答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」とあります。マリアが男を知らなくても、わたしたちの内に語るべき言葉がなくても、神様の霊がわたしたちに降り、神様の力がわたしたちを包み込む時、マリアは神の子を宿し、わたしたちは神の言葉を宿すのです。この神の力強い「言葉、イエス・キリスト」によって新しい人が、神の子と呼ばれる者たちが生まれるのです。 

37節をご覧ください。「神にできないことは何一つない」と天使は告げています。この神の言葉に対してマリアは何と応答しているでしょうか。38節です。「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。』」マリアはそのように答えるのです。神様に愛され、罪赦され、恵みを受けて生かされているわたしたちは、どのように主にお答えすべきでしょうか。一人ひとりが神様の恵みへ応答してゆくことが求められています。主の僕として生かされていることを受け止め、感謝し、主イエスのお言葉どおりに生きてゆくとき、わたしたちが成すべき事柄、言うべき言葉が恵みのうちに与えられてゆきます。神様の愛を日々感謝し、この愛を一人でも多くの人たちと分かち合って行きましょう。主はわたしたちといつも共におられます。