情け深い神

「情け深い神」 十一月第四主日礼拝宣教 2021年11月28日

 詩編 86編1〜17節     牧師 河野信一郎

おはようございます。11月最後の主の日の朝を皆さんとご一緒に過ごし、賛美と礼拝をおささげできる幸いを主に感謝致します。オンラインで出席くださっている皆さん、嬉しいです。

今日から2021年の待降節・アドベントシーズンが始まりました。この礼拝堂にはクリスマスの飾り付けがなされ、燭台の上には今年のアドベントクランツが置かれ、ろうそくに火が一つ灯っています。これから主イエス様のご降誕をお祝いするクリスマスまでの4週間を過ごしてゆきますが、この期間、神様がわたしたちを慰め、力づけるために御子イエス・キリストをこの地上に救い主としてお遣わしくださったことを聖書から聴いてゆきたいと願っています。今朝は、詩編86編から宣教をさせていただき、来週の日曜日はイザヤ書51章から宣教をさせていただくように準備していますので、祈りつつ、今後も礼拝にご出席ください。

去る10月と11月の水曜日の祈祷会では、この地上に神様から遣わされたイエス・キリストとはどのような救い主であるかを詩編から8回にわたって聴くことができて感謝でした。奨励の準備を毎週してゆく中で、私自身がとても恵まれ、祝福された時間を過ごすことができました。今朝は、そのおすそ分けを詩編86編から少しさせていただこうと思っております。

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、約二年間の休止を余儀なくされた教会学校を新年から再開させていただきたいと祈っていますが、1月から4月17日のイースターまで、マルコによる福音書から聴いてゆくことになっています。一つの福音書を三ヶ月半も集中して聴くチャンスはそう滅多にありませんので、水曜日の祈祷会、日曜日の礼拝前に開かれる教会学校にぜひご参加いただきたいと思います。共に聖書に聴きますと、新しい発見があり、聖書のみ言葉が立体化し、心に迫ります。祈祷会か教会学校に参加される事をお勧めします。

さて、先週の歩みの中で、わたしの心に突き刺さった衝撃的な言葉がありました。それは「圧倒的な不条理」という言葉です。先週インターネット上でニュースを読んでいる中で、目に飛び込み、心にぐさっと刺さった言葉です。ある事件の被害者の家族、遺族が放った言葉でありました。痛ましい事件で大切な家族を失った驚きと悲しみ、落胆と怒りなど、心の中で整理できない感情を一言で表した言葉が「圧倒的な不条理」。皆さんは、これまでの人生の中で、そのような不条理を経験されたことはあるでしょうか。一つや二つ、あるいはもっとあるかもしれません。しかしそれ故にイエス様に出会ったという方もおられるかもしれません。

「圧倒的」とは、他とはかけ離れているレベル、比べようもないほど他をしのいでいるという意味で、「不条理」という言葉の意味を広辞苑で調べますと、「人の道理に反すること、不合理なこと」とあります。人や物事のあるべき筋道を反しているということでもありますが、簡単な定義は「人の力ではどうしようもないこと」、それが不条理という意味です。「なぜそのようなことが?」と問われても、全く答えようがないこと。ある人は「運命の悪戯・いたずら」と説明するかもしれません。「運命の悪戯」、そのような言葉は、掛け替えのない家族や友人、愛する人を失って嘆き悲しむ人たちの虚しさや絶望感を増殖させるだけです。

世の中には、筋の通ったことばかりでなく、矛盾すること、矛盾に満ちた「不条理なこと」が数え切れない程たくさんあります。皆さんにもご経験がおありでしょう。戦争や紛争、少数民族への弾圧や強制労働などの人権侵害、人種差別や貧困・貧富の格差、殺傷事件や飲酒運転事故、家庭内暴力、幼児や高齢者虐待、学校や職場や人間社会の中で起こる陰湿ないじめ、種々のハラスメント、脅迫など道理に反することは他にも数え切れないほどあります。まったく予期しなかった問題、襲いかかる病気、家族や親しい友人知人の死、突然の失職なども、わたしたちにとって非常に大きな苦悩となり、心と身体への負担となります。

そういう人生に意義を見いだすことができない、途方に暮れて混乱してしまう限界状態に置かれることになったり、そのような突発的な危険や問題は誰にでも起こりうるわけです。昨年からずっと長引いている新型コロナウイルス感染拡大の影響によって家族や職や大切なものを失った方々や命の危険と隣り合わせになった方もわたしたちの中におられるわけです。

不条理という難問と格闘する中で、人はこのジレンマを解決する方法・道を3つ持っていると心理学的に考えられています。一つは、自らの人生を強制的に終わらせるという道。つまり「絶望」という道です。もう一つは、不条理をそのまま受け入れて生きる「受容」の道です。三つ目は、不条理を遥かに超えた存在を信じる道、つまり絶望の中に希望を抱いて生きる「信仰」の道です。神という存在を信じない人たちは、この三つ目の道を「盲信」と呼びますが、果たしてどの道を歩むことが賢明な道、平安と希望につながる幸いな道でしょうか。

日本の自殺者の数の多さは深刻な社会問題でありますが、昨年2020年は11年ぶりにその数が増加したとのことで、特に女性や若者の数が増加したという統計が出ていますが、ほとんどの人は「不条理を受け入れて生きる」という道を選び、ひたすら我慢と忍耐をし、歯を食いしばり、なんとか耐え忍べば、必ず状況は好転するだろうと思い込み、それを家族や周りの人に押し付けることがあります。それ自体がハラスメントと呼べる身勝手な行為です。

わたしたちの中にも、家族の中にも、あるいは知り合いの中に不条理なことをいま味わいながら苦しみ悶えている方がおられるかもしれません。様々な不条理なことや理不尽なことに打ちひしがれ、今にも心のともしびが消えそうになっている、助けを叫びたくても声が出せない、叫んでも周りの騒音にかき消されてしまっている、そういう方がこの礼拝堂に、あるいはこのカメラの向こう側に、画面の向こう側にもしかしたらおられるかもしれません。

しかしながら、わたしは確信しています。神様を拠り所とする人、主の憐れみに信頼して助けを求める人は大丈夫です。どうしてそのように言えるのか。根拠は何か、多分そのように感じる人は多いでしょう。わたしたちが大丈夫である理由、根拠、それはわたしたちは神様に愛されているからです。わたしたちは決して独りではなく、わたしたちの傍には憐れみと慈しみに富み、情け深い神様が常におられるからです。何故そのように確信できるのか。理由はただ一つ、それは聖書です。神様の言葉として与えられているこの聖書、イエス・キリストと聖霊を通して与えられているこの聖書にそのように約束されているからです。わたしたちは、今朝、共にいてくださる神様の愛と赦しと約束を信じる信仰へと招かれています。

今朝は、ご一緒に詩編86編に聴いてゆきたいと思いますが、1節をご覧ください。「主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは貧しく、身を屈めています」とあります。この詩編86編の詩人ダビデとありますが、祈りの中で神様に語りかけ、心の中にある苦悩と欠乏とを訴えています。この詩編は、神様に対して「主よ(アドナイ)、神よ(ヤハウェ)」と13回も呼びかけていて、この詩人がそれ程まで主なる神様に信頼していたという証明です。

この詩人がどのような苦悩を抱えていたのかという具体的なことは不明です。しかし、7節から「苦難が襲いかかっていた」こと、13節から「大きく深い陰府」のような状態に置かれていたこと、14節には「傲慢な者がわたしに逆らって立ち、暴虐な者の一党がわたしの命を求めています」とあり、また17節では「わたしを憎む者」という存在がいたことが分かりますので、この詩人は「圧倒的な不条理」の中に置かれていたのではないかと推測します。

しかし、この詩人には、全幅の信頼を寄せる大いなる神様を信じる信仰が与えられていて、不条理の中に置かれた時に真っ先になすべきことを知っていました。それは神様に祈り、助けを求めることです。今朝、わたしたちにも同じように、「わたしに祈り求めなさい」という招きが愛と慈しみの中で神様から与えられています。それほどまでに愛されています。

この詩人は、神様に「主よ!」と叫び、主の助けと救いを熱心に求めます。1節「わたしに耳を傾け、答えてください」、2節「わたしの魂をお守りください。あなたの僕をお救いください」、3節「憐れんでください」、4節「あなたの僕の魂に喜びをお与えください」、6節「わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈るわたしの声に耳を向けてください」、11節「あなたの道をお教えください。御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください」、16節「わたしに御顔を向け、憐れんでください。御力をあなたの僕に分け与え、あなたのはしための子をお救いください」、17節「良いしるしをわたしに現してください」と。

この詩人は、自分が何者であるか知っていました。皆さんは自分が何者であるかしっかり分かっておられるでしょうか。この人は自分のことを2節「あなたの僕」、16節「はしための子」と言っています。どちらも主人の支配下に生きる奴隷の呼称ですが、詩人は、自分は主なる神様の御手の中で、主の憐れみとお守りとご支配の中に生きる者ですという意味で言っています。また、自分のことを2節で「あなたの慈しみに生きる者」、「あなたに依り頼む者」と言っていますが、「慈しみに生きる者」とは神様を畏れ、忠実に従い生きる者という意味です。

さて、今日を生かされているわたしたちは、果たして自分が何者であるかをはっきり知っているでしょうか。神様を畏れず、自分の生きたいように生きてしまい、そういう中で不条理を経験し、暗闇の中を彷徨っているのではないでしょうか。わたしたちに必要なこと、それはわたしたちを造られ、恵みのうちに生かしてくださっている神様の存在を認め、今までの歩みを悔い改め、神様に慈しみに信頼し、神様の導きに従って歩むことではないでしょうか。

そのために、わたしたちは神様というお方はどのようなお方であるのかをしっかり知る必要があります。そしてわたしたちにしっかりと、またはっきりと神様を指し示してくださるのは、神様の御子イエス・キリストです。何故ならば、このイエス様が父なる神様のすべてを完全に知っておられるから、このお方が神様を鮮明に表しているからです。ですから、このイエス様を信じ、常にこのお方を見上げ、このお方の言葉に聴き従ってゆく必要があります。

最後に、神様はどのようなお方であるとこの詩人が告白し、賛美しているかを見てゆきたいと思います。5節に「あなたは恵み深く、お赦しになる方。あなたを呼ぶ者に豊かな慈しみをお与えになります」とあり、神様はわたしたちの罪をお赦しくださる唯一のお方、神様に助けを叫ぶ者に豊かな慈しみを与えてくださるお方とあります。7節には「苦難の襲うときわたしが呼び求めれば、あなたは必ず答えてくださるでしょう」とあり、必ず助けてくださるお方であるとあります。10節では「あなたは偉大な神、驚くべき御業を成し遂げられる方ただあなたひとり、神」とあり、救いの御業を成し遂げてくださるお方であると確信しています。

11節に「あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください」とありますが、神様がわたしたちの歩むべき道を備え、その道へと案内してくださり、主のまことの中を歩ませてくださいます。神様の道とはイエス・キリストです。このイエス様がわたしたちを神様へと繋げ、神様の愛の中、まことの中を歩めるように助けてくださいます。「御名を畏れ敬うことができるように」とありますが、神様の御前に忠実に生きることができるようにということで、主イエス様がみ言葉によって、ご聖霊がわたしたちを心から新しく造り変えてくださいます。

「一筋の心をわたしにお与えください」とあります。圧倒的な不条理に対してわたしたちは恐れや不安を抱き、心が大きく乱れ、粉々になりそうな時に、絶妙なタイミングでわたしたちの心を守り、平安と喜びと感謝と信頼で満たしてくださるのが、15節以降にある、わたしたちに御顔を向け、情け深く、憐れみと慈しみに富み、苦しみと絶望という深い陰府からわたしたちの魂を救い出し、弱り果てたわたしたちを癒し、励まし、力づけてくださる神様です。聖書に記されている「慰め」とは「神様があなたを力づけてくださる」という意味です。この慰め、力づけてくださる神様を求め、そして信じて歩みましょう。