憐れみを受け、恵みに与って生きる

「憐れみを受け、恵みに与って生きる」 七月第五主日礼拝 宣教要旨 2017年7月30日

  ヘブライ人への手紙 4章14〜16節       牧師 河野信一郎

 この地上での人生というマラソンを走り抜くために、イエス・キリストを救い主と信じ、見上げて走ってゆくこと以外に心に留めるべきことを7回にわたって分かち合います。このシリーズの概観は、7月23日のメッセージにあります。コリントの信徒への手紙Ⅱの4章全体から7つのポイントを挙げていますので、事前にお読み頂ければと思います。

 今回は、最初のポイントが記されている1節に注目します。「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません」とあります。これは、「わたしたちは、主イエスを通して神から憐れみを受けて生かされている」という恵みを心にいつも覚えつつ、感謝して生きようという招きです。主の愛と憐れみを受けて生かされていることを感謝する時、私たちは辛く悲しいことがあっても決して落胆する必要はないのです。

 さて、「主の憐れみに生かされている」という恵みを喜び感謝する中でもう一つのみ言葉が示されました。それがヘブライ人への手紙の4章の14節から16節です。この箇所を読んでゆきますと、2つのことを私たちは熱心に勧められています。

 一つは、私たちが公に言い表している信仰をしっかり保つということ。もう一つは、大胆にその恵みの座に近くということです。主イエスを通して神の愛と憐れみのうちに与えられている信仰を持ち続けようと励まされています。たとえ大変なことが襲いかかってきても、信仰にとどまりなさいということですが、自分の力だけでは信仰にとどまり続けることは無理があります。ですから神は、大祭司であり、神の子イエス・キリストが憐れみのうちに与えられているのです。

 祭司とは、民と神の間を執り成す人ですが、その祭司の中でも神に信頼されている大祭司である主イエス・キリストがいつも私たちのために執り成しをし、信仰を守り導いてくださるから、このお方を信じなさいと招かれています。この大祭司イエスは、私たちの弱さに同情できない方ではなく、ご自身は罪を犯されなかったが、あらゆる点において私たちと同様に、試練に遭われたのです」と15節にあります。その主イエスがいつも共にいて、私たちを慰め、励まし、導いてくださるのです。自分の信仰をなかなか公に言い表すことが私たちにはできませんが、主イエスが共にいて、信仰を言い表す勇気とタイミングと言葉を与えてくださいますから、信じて歩みましょう。

 もう一つは、主の憐れみと恵みがあなたのためにいつも用意されているから、それを受けるために大胆に恵みの座に近づきなさいと招かれています。16節に「時宜にかなった助けをいただくために」とありますが、主なる神は、いつも最善の時に、神の時に助けを与えて憐れんでくださり、恵みを与えてくださるお方です。

 その神の御前、恵みの座に私たちはいつも招かれていますが、そのような私たちに足りないのは「大胆さ」です。では、なぜ私たちは大胆になれないのでしょうか。あなたはどうしてだと思いますか。もしあなたが大胆になれないのならば、その理由は性格でしょうか。あるいは遠慮深いからでしょうか。内向的だからでしょうか。色々とあると思いますが、第一の理由は、自分に自信がないからです。自信がないから、大胆になれないのです。しかし、そのような自分に自信のない私たちを愛し、祈り、励ましてくださるのが主イエス・キリストです。

 この主イエスが大祭司として、私たちと神の間を取り持ってくださるので、たとえ私たちに自信がなくても、主イエスが私たちの「自信」になってくださるのです。それほどまでに、主イエスは私たちに神の愛と憐れみ、罪の赦しを受け取って欲しいのです。

 主イエスは、自信のない私たちが神の憐れみと赦しと救いと恵みを受け取ることができるように、私たち罪人の身代わりとなって十字架において贖いの死をとげてくださいました。全ては私たちのため、私たちに信仰を与え、主の恵みのうちに生かすためです。この救いへと私たちは今日も恵みのうちに招かれていますから、救い主イエスを信じて、主の助けを受けて恵みの座に近づきましょう。