我は福音を恥とせず

宣教要旨「我(われ)は福音を恥とせず」 大久保教会 副牧師石垣茂夫  2017/05/21
招詞 ローマの信徒への手紙1章16節  聖書 マルコによる福音書8章27~38(新共同訳p77)
応答賛美622「慕いまつる主の」
招詞の16節を読ませて頂きます。
ローマ1:16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
わたしたちが「ローマの信徒への手紙」を読み始めますと、いきなり「わたしは福音を恥としない」という言葉に向きあうことになります。特に「恥」という言葉が気になります。「恥としない」、この言葉でパウロはここで何を言おうとしたのでしょうか。
合わせて今朝は、聖書朗読でマルコ8章を読んでいただきました。38節にも「恥」という言葉が2度使われています。
8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。
日本語の「恥じ」という字はただ一つですが、聖書語句辞典には、状況に応じて26もの「恥じ」という言葉がありました。そこで、わたしが確認したのは、今朝の二つの箇所では、同じ言葉が使われているということでした。ある書物によりますと、この言葉は「信仰告白にかかわる場面でしか使われない言葉」だ、ということです。
「恥としない」「恥とする」という言葉はイエス・キリストを真の救い主として信じるのか、あるいは疑って離れていくのかという場面でのみ使われる言葉だというのです。
始まったばかりのローマの教会では、そのキリスト者の中に、「救い主ともあろうものが、十字架に架けられて死んでしまった」、「主イエスのような弱い者がメシアであっては恥ずかしいと思う」そのような風潮が既に広まっていたと思われます。そのために、教会を離れる人たちがふえていることを、パウロは耳にしたのです。この事をパウロは放置できず、まだ会ったことのないローマの人たちに手紙を書いたのです。そこで、パウロは彼らに向かって、素直に「わたしは福音を信じます!」というよりは、「私は福音を恥じとしない!」と言った方が、彼らに対してのインパクトがあると考えたのでしょう。
「恥とする」という言葉には、他ならぬキリストから離れるという意味を含んでいるのです。以前、パウロは『ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を求める。』(1cor.1:22)と言いました。何故彼らは“しるし”や“知恵”を求めるのか、それは神を信じたくないからだと言われています。ひとの心の底には、神を信じたくないという思いがくすぶっているのです。こうした、信仰を持つ人の問題を、パウロは放置できなかったのです。
何故パウロは忍耐をもって、こうした問題に向き合うことが出来るのでしょうか。
それは、パウロが自分を振り返った時、まさに自分も今のローマの人たちと同じだったからです。自分自身が、かつては十字架で死んだイエスが救い主とは、到底信じられなかったのです。主イエスを信じる人を、「恥ずかしい人たち」と思って迫害を始め、取締り、殺そうとさえしてきたのでした。しかし復活の主イエスは自分に現れて下さり、自分を捉えてくださった、そのように確信できたのです。
パウロは、福音を語り始めるその第一声に、そうした自分の経験のすべての思いを込めて、「わたしは福音を恥としない」、そう語らずにはいられなかったのでしょう。
ローマの信徒の危機は、今日のわたしたちの危機でもあるのです。わたしたちは常に、「福音をはずかしく思う」、そのような思いにおちいる危険性を持っているのです。
このために、終わりに、もう一か所のみ言葉に触れてみたいと思います。
少し長い箇所をお読み頂きましたが、マルコ8章27節以下では、主の弟子ペトロが「あなたこそメシア(救い主)です」と告白しています。ところがその告白を聞いた主イエスは「だれにもこれを話すな」と言われました(8:27~30)。なぜでしょうか。
そして弟子たちだけに、ご自分の深い内面を語りました。ご自分はこれから、苦しみと死の道を進むのだと打ち明けられたのです。これを聞いた弟子たちは大きな衝撃を受けました(31~32)。なぜならば、今、主イエスが明かした「死の道を進む救い主」は、ペトロが「主イエスよ、あなたこそ救い主です」と告白したときに、自分の心に描いた救い主ではなかったからです。苦難と死の道は、一般には敗北の道であり,本来ならば罪を犯した者、人間こそが辿る道です。ところが主イエスは、神に裁かれて苦しみ、死ぬという道をご自分の道として選ばれたのです。ご自分が犠牲になり、傷つき、罪びとを赦し、救うのです。この十字架への道を、主イエスはこの時から歩み始めたのです。
この時、主イエスは、弟子たちに対しても、そして私たちに対しても「わたしに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。」(8:34)と命じられました。主イエスを救い主として告白する者は、この救いを感謝して受け入れるとともに、自分に課せられた使命と奉仕の道を辿るように命じられました。これはそのようにただ「言われた」というのではありません。命令なのです。
この主はわたしたちに対しても、「今、あなたがたそれぞれが示されるところでわたしに従いなさい」。「あなたがたが、今、置かれているところでわたしに従いなさい」と呼びかけ、命じておられるのです
それぞれの十字架の大きさや重さの問題ではなく、今向きあわなくてはならない課題から目をそらさぬようにと教えるとともに、「わたしに従いなさい」と、こう命じておられるのです。
わたしたちの人生は、必ずしも平穏ではなく、途方に暮れ、深い疲れに陥り、自分の信仰にすら疑を抱き、立ち止まってしまう者です。
「わたしに従いなさい」と、呼び掛けてくださる主の後を、パウロと共に『わたしは福音を恥としない』と、力強く告白しつつ、今与えられている人生を歩ませて頂きましょう。
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