救い主を指し示す人

宣教「救い主を指し示す人」  副牧師石垣茂夫  2021/01/17

聖書:マタイによる福音書3章1~12節(新約p3)   招詞:ローマの信徒への手紙6章3節、4節

はじめに

四つの福音書の初めには、それぞれ、バプテスマのヨハネと主イエスについての記述があります。

今朝は、マタイによる福音書3章から、この二人に関係する「バプテスマ」に触れます。

一つは、バプテスマのヨハネが授けていた“水による”「悔い改めのバプテスマ」であり、もう一つは、“聖霊による”「キリストに結ばれるバプテスマ」です(ローマ6:3,4、使徒9:18)。

二つのバプテスマから、その起源を知ると共に、わたしたちが受けたバプテスマの目的を、確かにしたいと願っています。

「バプテスマのヨハネについて」

【スライド1】スライドを用意しましたが、これは、宗教改革時代の、ドイツの画家マティアス・グリューネバルト(Matthias GrÜnewald 1470?~1528)による、「イーゼンハイムの祭壇画」と名付けられた絵画です。

実物は、化粧の時に使う「三面鏡」のように出来ていて、普段は、左右の縦長の額が扉のように閉まり、中央の絵は、真ん中の十字架のキリストを残して閉じられていたそうです。

この画の中央右側に、十字架のキリストを指差すバプテスマのヨハネが描かれています。

【スライド2】大きな中央の絵の右側が次の絵になります。

この絵が、“救い主はこの方だ”と指差している構図であるため、「バプテスマのヨハネ」を描いた絵画としては、最もよく知られた作品です。この絵の特徴は、救い主を指さすヨハネの人差し指が、ひときわ長く描かれていて、「証人の指」と呼ばれています。皆様には、どう見えるでしょうか。そのように言われて見直しますと、長く見えるでしょうか。そのようなユーモラスな一面をもった絵です。(St.John The Baptist from the Isenheim Altapiece 1512)

この後は、お読みいただきました聖書に添ってお話しします。

3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、

3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。

1節に「そのころ」とありますが、ルカ福音書3章には「ローマ皇帝ティベリウスの治世15年」と明確に書いてありますので、「そのころ」とは、紀元(A.D)28年であり、バプテスマのヨハネもイエスも、共に30歳の頃のことになります。

3:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」(40:3)

3:4 ヨハネは、らくだの毛け衣ころもを着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。

ヨハネには、高齢になった父、祭司ザカリヤと母エリサベツげがいました。二人は長年、「もしも子供が与えられたなら、神に仕える為に奉げます」と誓っていました(ルカ1:13)。そのような祈りによって生まれたヨハネは、約束のナジル人びととなりました。ナジル人びととは、神との特別な誓いによって「神にささげられ聖別された人」という意味です(民数記6章参照)。

ヨハネは、祭司の家に生まれたことで、祭司の身分でしたが、神殿には仕えず、また、ユダヤ教シナゴーグに仕えることもなく、荒れ野に出て行き、そこに住んで活動をしました(ルカ1:80)。そうした行動の、第一の動機は、決められた枠の中で仕えることへの反抗であったと思われます。しかしヨハネの最も優れていた面は、ユダヤの人々の心を動かすほど、自分の全存在をかけて生き、“このままでよいのか”と、人々に悔い改めを迫ったという点にあります。

3:5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、

3:6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼バプテスマを受けた。

ある時期からユダヤ教では「洗礼式」が行われるようになりました。ただし、その洗礼式は、異邦人がユダヤ教に改宗するときに行われる「改宗者のための儀式」でした。従って、生れながらにして清いと自認するユダヤ人には、必要のない儀式でした。

さて、この「バプテスマ」ですが、語源の「バプティゾー」は、人を水に沈め、溺死させるという意味の言葉です。異邦人は、流れる川の水に沈められ、罪を清められるという儀式でした。

ところが荒れ野のヨハネは、清いとされているユダヤ人に向けて叫んでいたのです。

『ユダヤの人々よ、心から救い主を待ち望むならば、「われわれはアブラハムの子だ」、「選ばれた清い民族だ」などと思っているが、そのあなた方こそ、「悔い改めるべきではないか」』と呼びかけたのです。すると、ユダヤ人が積極的にこれに応え、ヨルダン川にいるヨハネのもとに続々と集まり、悔い改めの決心をなし、その表明としてバプテスマを受けたと記されています。人びとは、自ら進み出てヨハネからバプテスマを受けたのです。これは大きな変化であり、ヨハネのバプテスマの特徴です。人々は悔い改め、自ら進み出たのです。

 「悔い改めのバプテスマ」

3:7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼バプテスマを受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。

3:8悔い改めにふさわしい実を結べ。

 「悔い改めにふさわしい実を結べ。」との言葉があります。「悔い改め」とは、「方向転換をせよ」という意味です。「神の民」として選んでくださった神のお心を忘れ、神を見上げることへと進まなくなった心から、「神に、心の向きを変えよ」と、ヨハネは迫ったのです。

ヨハネのもとには、「ファリサイ派やサドカイ派の人びとが大勢バプテスマを受けにきた」とあります。

「サドカイ派」は神殿祭司のグループです。彼らは神殿にまつわる利権を独占し、裕福な暮らしをしていました。彼らは変革を望まず、ローマとの友好を求める保守的な考えの集団です。

「ファリサイ派」は、民衆が集うユダヤ人の会堂、シナゴーグを拠点とし、律法を重んじ、ユダヤ第一主義であり、反ローマ的な野党としての存在です。

互いに、普段は反目していた二つの派の人々が、不思議なことに、この時は一緒に進み出てヨハネの言葉に耳を傾けています。

ヨハネは、目の前にそのような光景を見て、それぞれが持つ特権を厳しく指摘し、3:9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。』と言いました。つまり、神はいつでも、たとえお前たちがいなくても、新しく神の民を起こすことのできるのだ。神に向かって方向転換せよと呼びかけたのです。ヨハネは自分の後に登場する救い主のため、こうして道みち備ぞなえをしていました。

 「聖霊と火のバプテスマ」

3:10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼バプテスマを授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼バプテスマをお授けになる。

 3:12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

10節以下12節までを繰り返しては読みませんが、ここでヨハネは、三度も「火」という言葉を使って厳しく警告しています。神の選びには神の目的があります。その目的とは、民がどのように道を外れても、繰り返し神に立ち返り、神の御栄光をこの地上において証しすることです。いつまでも「選ばれた民だ」とうぬぼれているならば、神はふるいにかけて選び、焼き払う。だから悔い改めなさいと警告したのです。そのうえで、あなたがたは間もなく現れる救い主によって「聖霊と火のバプテスマを授けられる」と証言したのです。

 ここで、私は自分自身のバプテスマを思い起こしてみたのです。

果たして、「ユダヤ人の悔い改めに並ぶような悔い改めを、わたしはしただろうか。」

「悔い改めの思いをもってバプテスマに臨んだだろうか。」

残念ながら私はユダヤ人には、遠く及ばないと思いました。ヨハネのバプテスマにはあずかれないと思いました。「良い実を結ばぬ木として、火に投げ込まれる」そのように思えてきました。

それでは、ヨハネの授けたバプテスマと、私たちの受けたバプテスマは、どこが違うのでしょうか。

 「キリストに結ばれるバプテスマ」

招詞でローマの信徒への手紙6章3節と4節を読んでいただきました。

6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼バプテスマを受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼バプテスマを受けたことを。

6:4 わたしたちは洗礼バプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

3節には、使徒パウロの言葉で「キリストに結ばれるバプテスマ」との言葉があります。

第一に「キリストに結ばれるバプテスマ」。このことがヨハネのバプテスマとの大きな違いです。

第二は、「キリストの死にあずかるバプテスマ」ということです。パウロはこのことを「罪に死ぬ」と言いました。キリストは、ご自分の死をもって、わたしたちの罪、神に背を向ける罪を滅ぼしてくださいました。

第三にパウロは「新しいいのちに生きるためのバプテスマ」と言いました。

バプテスマを受ける目的は、バプテスマによって、これまでの罪の体をキリストの命の中に浸ひたされて「死に」、そして新しい命の中に「生きるためだ」とパウロは言いました。「罪に死に、キリストに生きる」とはそのことです。今朝はこのことを心に刻んでいただきたいと思います。

特に、最後のみ言葉「生きる」は、パウロが繰り返して使います。ところが同じ言葉が、「歩む」と訳される場合が多々あります。この二つの言葉は、皆様も感じておられることでしょうが、パウロが好んで使っています。特に、「歩みなさい」との言葉、これは「ゆっくり歩みなさい」という意味があると教えられました。

わたしはそのことを思い出し、現在の状況の中で、とても安らかな思いになりました。「ゆっくり歩みなさい」。これは今の私たちが真剣に聞くべき言葉ではないでしょうか。

現在わたしたちは、新しいウイルスの脅威に晒されています。日本はまだまだ安全だと私たちが油断してきたことが、様相を変えてきました。

しかし、この事態にあわててはならないのです。焦って急ごうとしてはならないのです。こうした時こそ、落ち着いて、慎重に、ゆっくりと歩む」ことが求められているように思いました。

バプテスマのヨハネと主イエスの生きた時代は、国家的な危機の時代でした。AD28年から40年程後、AD70年には、激しい戦いの末、イスラエルという国は滅びてしまったのです。そのような危機に先立って、ヨハネは救い主を指さす運動をしていました。わたしたちは今こそ、このような危機の時にこそ、新しい命に満たされましょう。この時代の状況を受けとめ、キリストを指し示す教会として、落ち着いてゆっくりと歩んでいきましょう。

【祈り】