教会:キリストの命にあずかる群れ

「教会:キリストの命にあずかる群れ」 十一月第一主日礼拝宣教要旨 2013年11月3日

     コリント人へ第一の手紙10章14〜17節      河野信一郎

 主イエス・キリストが十字架上で裂かれた「からだ」を象徴するパンと流された「血潮」を象徴するぶどうの汁が主の晩餐式で分かち合われますが、このパンとぶどうの汁は象徴であって、これらを摂ったからといって救われる訳ではありません。パンが人の身体の中でキリストに変わり、ぶどうの汁が身体の中でキリストの血潮に変わって人を聖なる者へ変えるのではありません。病が癒されたり、悩みが速やかに解決したり、願いが叶えられたり、富みを得られたり、幸せになる訳ではありません。もしそのように信じているならば、それは偶像礼拝です。

 使徒パウロは、未信者に対してではなくコリント教会のキリスト者たちに「愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい」と14節で警告しています。それはキリスト者でさえも神以外のものを神以上に大切にし、それらに心を奪われ、信頼を寄せてしまう危険性が常にあるからです。

 パウロは、「賢明なあなたがたに訴える。わたしのいうことを自ら判断してみなさい」と15節で言います。つまり、信仰をもって良く考え、常識的に、また聖書的に捉えなさいと注意を促しします。パンをとって食べ、ぶどうの汁をとって飲んだら聖別されるとか、病気が癒される等とわたしたちがもし考えているのであれば、それは聖書的でなく、自分の都合を最優先させた自己中心的な思いであり、偶像礼拝にすぎないから目を覚ましなさいと言っています。

 イエス・キリストの福音は、イエス・キリストを救い主と信じ、今までの自己中心的な歩みを悔い改めて神に立ち返るならば、その信仰によって神の目に義とされて救われるとはっきりと言っています。ただ主イエスを救い主と信じ、神の愛と憐れみを受けるならば、あとは主に委ねるだけで良いのです。これからの人生は主が共にいて力強く導いてくださるのです。

 しかし、それではわたしたちキリスト教会は何のために主の晩餐式を守っているのでしょうか。このコリント人への第一の手紙で、パウロはその理由(目的と言ったほうが良いでしょう)が少なくとも3つあると言っていると思いますので、それらをここで学びたいと思います。

 主の晩餐式でよく読まれる箇所は11章23節から29節ですが、23節から25節に主イエスの言葉が引用されていて、パンと杯を分かち合うことを「記念として行いなさい」とあります。これが目的の一つです。主イエスが十字架上で成してくださった贖いの御業を記念して覚え続けるということです。神の子イエス・キリストが罪人であるわたしたちのために命を捨ててくださった。その犠牲によって贖われ、生かされていることを覚えることです。

 二つ目の目的は、26節にありますが、イエス・キリストが再びこの地上に来られる時まで主イエスの死を告げ知らせるというキリスト者の使命を再確認し、その使命に生きてゆく再決心してゆくことです。わたしたち罪人を救うために主イエスが十字架に架かって死んでくださったことを伝える。また救いを完成し、永遠の命を与えるために復活されたことを感謝し、救い主の死と復活を告げ知らせることが教会の使命であることを再確認し、生きるためです。

 三つ目の目的は、10章16・17節にあります。パウロは「キリストの血とからだにあずかること」と言っています。つまり、一つのパン・キリストの命に与ることです。この「あずかる」というギリシャ語は「コイノニア」で、「親しく交わる・分かち合う」という意味です。つまり、主から与えられている信仰、恵み、使命を晩餐式で分かち合い、その交わりの中で一つのからだ、キリストの教会とされてゆくことが目的なのです。教会という信仰と主の恵みを分かち合い、共に祈り合い、仕え合える神の家族が与えられていることを主に感謝しましょう。