旅の途中で、共に恵みを味わおう

「旅の途中で、共に恵みを味わおう」 八月第一主日礼拝 宣教 2019年8月4日

 ローマの信徒への手紙15章22〜33節             牧師 河野信一郎

 (今朝の礼拝では、フランスの大学へ進学するM姉の証しを聞く幸いがありました)

さて今朝もローマの信徒への手紙から神様の語りかけを聴いてゆきたいと思いますが、今朝で15章が終わり、この学びもいよいよ終わりに近づいてきました。今月は最後の16章を二回に分けて第二と第四の主日礼拝の中で聴いて、1年4か月にわたるローマの手紙のシリーズを終えたいと思います。このシリーズでは、わたしたちが礼拝をささげている神様、イエスさまはどのようなお方であるのか、そしてイエス・キリストを通して神様に救われた者としてどのように生きてゆくべきか、どのように主の恵みに応えて行くべきかをご一緒に聴いてきました。このシリーズは16ヶ月にわたりましたが、久しぶりに礼拝に出席された方は、「まだローマの手紙からメッセージされていたんですか?」と驚き半分、冷やかし半分の笑顔でわたしにそう言っておられました。

このローマの信徒への手紙の学びは、わたしたちの人生のように、山あり谷ありの学び、大いに感激し、感謝するところもあれば、ここは何を言わんとしているのか全く解らないというところもあったと思います。しかしながら、この手紙がわたしたちに伝えようとしているのは、感動する人も感動しない人も、喜ぶ人も喜ばない人も、わかる人もわからない人も、すべてイエス・キリストという救い主を通して神様に愛されているという真実と、イエスさまはすべての人、わたしたちのためにこの地上に来て教え導いてくださり、十字架に架かってわたしたちの罪の代償をすべて支払う贖いの死を負ってくださったということ。ユダヤ人も異邦人も、男も女も、若者も高齢者も、障がいのある者も健常者もまったく関係なく、すべての人を救うためにイエスさまは死んでくださり、そのイエス様を神様は甦らせて救いを完成してくださったという福音です。だから、希望をもって、互いに平和に生きなさいというのがテーマです。

今朝は、15章の22節から33節を通して、3つのことをお話ししたいと思います。

まず第一に22節から24節に記されている事です。「こういう訳で、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行く時、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです」とあります。ここで注目したいのは、旅の途中で「あなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから」、つまり「あなたがたと共にいる喜びを味わいたい」とパウロ先生が願っている事です。パウロ先生は、イスパニアへ向かう前に、ローマ教会の兄弟姉妹たちと出会い、親しい交わりをし、共に神様を礼拝し、聖書に聴き、祈り合い、励まし合う中で大きな力を充電されることを期待し、楽しみにしていたということがここから分かります。

Mさんもこれから旅立ってゆきますが、多分フランスが彼女の終着点にはならないでしょう。彼女が5年先、10年先にどこにいて、何をしているのか、とっても興味がありますが、わたしたちも人生という旅の途中にあります。旅の終着点は神様が迎えてくださる天国ですが、そこに迎えられるまでにまだ時間がありますし、なすべきことがわたしたちにはあるのです。しかし、委ねられている大切ななすべきことの一つに、旅の途中ではあるけれども、「共にいる喜びを味わう」ということがあるとここから示されます。皆さんにとって、もしかしたら大久保教会は旅の途中で立ち寄った教会かもしれません。いつか分かりませんが、将来的に他の地に移り住むことになり、他の教会へ行くことも考えられます。つまり、大久保教会はこの新宿の地に立てられ続ける教会ですが、わたしたちにとってこの教会は一つの通過点であるかもしれないということ。しかし、今朝ご一緒に覚えたいことは、たとえ旅の途中であっても、神様によって今ここに置かれていることを喜び、共にある幸いを主に感謝することです。パウロ先生がローマの教会で親しい交わりをし、共に神様を礼拝し、聖書に聴き、祈り合い、励まし合う中で大きな力を充電されることを期待し、楽しみにしていたと同じように、この大久保教会で共にある喜びを味わうこと、味わいなさいと言われているのではないでしょうか。

第二の事として、先週の宣教で、パウロ先生は主イエス様に召された「使徒」としての自身のなすべき役割と使命をよく理解していたことを聴きましたが、自分には使徒としてなすべきことがまだまだたくさんあるということをここでパウロ先生は書いています。具体的には、キリストの福音がまだ宣べ伝えられていない土地に行きたいという熱い想い、願いでした。その強い願いというのは、まずローマに赴き、ローマの信徒たちと交わり、彼らの信仰を励まして整えた後、イスパニア(現在のスペイン)に行って、その土地に生きる人々にキリストの福音を宣べ伝えるということでした。パウロ先生はローマとイスパニアへ1日も早く行って、主イエスのことを伝えたいと切に願っていました。しかし続きます25節を見ますと、「しかし今は聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへゆきます」と言っています。

当時、パウロ先生はギリシャのコリントという町に滞在していましたが、ローマやイスパニアとは真逆のエルサレムへ行くと言うのです。その理由が26節に記されていますが、マケドニアとアカイアの異邦人クリスチャンたちがエルサレムのユダヤ人クリスチャンたちの貧しさを援助するために募金を集めてくれたので、その募金を持ってエルサレムに行くと言うのです。しかしここで不可解なことは、確かに愛と祈りのこもった大切な募金ですが、何もパウロ先生自身がエルサレムに行かなくても良いのではないか、誰か他の人に、例えば弟子の誰かに頼めば良いのではないかと考えてしまいます。しかし、28節を見ますと、「募金の成果を確実に手渡したい」と言うパウロの強い意志があったことが分かります。

切望しているローマ・イスパニアと真逆の方向へ行くことになっても、どうしても成し遂げたいことがパウロ先生にはありました。それは、祭司として、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンの間に立ち、執り成しをして異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンを本当の意味で一つの教会、一つのキリストの体にするということでした。16節に「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです」とあります。先週にも触れましたが、「祭司」とは神様と民衆の間を仲介する、執り成す、和解させる働きを担う者です。

パウロ先生がローマではなく、エルサレムへ行こうとしたのは、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンたちの間には、信頼関係がまだまだ築けていなかったからです。ローマの教会でも同じ現象がありましたが、キリストを救い主と信じ、告白する同じ一つの教会の中で、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンたちがしっかりと向き合い、愛し合い、祈り合い、支え合い、互いに仕え合うことがなかったということ。

しかし、エルサレム教会の中に生活に困窮している人たちが大勢いると言うことがマケドニアとアカイア地方の異邦人クリスチャンたちに知らされた時、マケドニア・アカイア地方の教会の兄弟姉妹たちは、ユダヤ人クリスチャンの兄弟姉妹たちを援助することを喜んで同意し、貧しい中から彼らにできる最善のサポートを募金としてくれた。パウロ先生は、その愛の業に心から感動したことでしょう。

「喜んで」と言うのは、自分たちから進んで募金をしたと言うことであって、福音を知らせてくださった恩あるパウロ先生の手前、そのようにしたと言うわけではありません。また、この「喜んで」と言うギリシャ語は、「コイノニア」と言う言葉が用いられています。コイノニアとは交わり、フェローシップを意味し、真の教会を意味します。愛し合い、喜び合い、祈り合い、助け合ってゆく時に教会は祝福のうちに形成されて行きます。わたしたち大久保教会は、そのことを覚えて共に教会形成をしてゆきたいと願います。

三つ目のことをお話しします。30節から33節には、パウロ先生の祈りのリクエストが記されています。30節をご覧ください。「兄弟姉妹たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」とあります。「ご聖霊の愛によって、神の愛によって、主イエス様のみ名によって共に祈ってください」という嘆願です。31節から33節に具体的な祈りの内容が記されています。

第一に「わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ」るようにとあります。パウロ先生は、ユダヤ教徒たちから「裏切り者」というレッテルを貼られ、目の敵にされていました。エルサレムへゆくことは危険の伴うことでした。先日、私はフランスの治安が悪くなっていると新聞で知りました。Mさんが守られるように、また互いが守られるように祈り合ってゆきましょう。

第二に「エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように」とあります。パウロ先生がエルサレムに来ることがエルサレム教会の兄弟姉妹たちに歓迎され、祭司として異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンの平和を構築できるように祈って欲しいという願いです。

第三に「神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように」とあります。神様の御心が成りますようにと祈ること、喜びのうちに新しい出会いがこの教会でも与えられるように祈ること、この教会が日々の生活に疲れている人たち、わたしたちも含まれますが、そのすべての人たちの憩いの場所、心のオアシスとなるように祈ることを共に誠実に成してゆきなさいと今朝示されているのではないでしょうか。

弱さを持つわたしたち、しかしそのわたしたちに主なる神様、インマヌエルなる主イエス様、神の霊であるご聖霊がいつも共にいてくださるとの約束がわたしたちに与えられています。その約束を疑わないで信じて、33節にあるように「平和の源である神がいつもわたしたちと共におられるように」、祈り求めて、神様には忠実に、人々と兄弟姉妹たちには誠実に、自分に対しても信実に正直に生きられるように、生かされることを求めてまいりましょう。