暗闇と死の陰に座している者たちを照らす光

「暗闇と死の陰に座している者たちを照らす光」  12月第二アドベント主日礼拝 宣教     2018年12月9日

ルカによる福音書 1章78−79節              牧師 河野信一郎

昨年の夏の終わり頃から左の肩が急に動かなくなり、今も週に一度50肩の治療を整骨院で受けているのですが、そこの院長先生が先週頃から「河野さん、またお忙しい時期になりましたねぇ。12月はいつ頃まで忙しいのですか」と私のことをしきりに心配してくださいます。「シロクマ先生」というあだ名を私たちは付けているのですが、とっても優しい院長先生でして、クリスマスを前に私の体が緊張と忙しさから硬直しているのでしょうか、私の肩や背中を触ったらすぐに分かるのでしょうか、そのように心配してくださいます。私は、「そうですね。元旦の礼拝が終わったら、一息できると思います」と答えるのですが、残されたアドベント・待降節をもっと静まって、祈って、リラックスして、祈りつつ過ごし、クリスマスに備えたいと願っています。皆さんも何かとお忙しい毎日をお過ごしだと思いますが、肩の力を抜いて、祈りつつリラックスして、主イエス様のお誕生日をお迎えする準備をなさっていただければと思います。そのために日々覚えてお祈りさせていただきます。

さて、今「緊張」しているのかなぁと申しましたが、私たちの心と体が緊張してしまう原因は色々あると思います。そのような中で、私の現在の「緊張」の原因は、宣教する際に聖書の箇所を選び取ることに一因あるということが先週初め体験を分かりましたので、皆さんと少し分かち合いをさせていただければと思います。私以外の牧師・教役者の方々の場合は分かりませんが、私は宣教の準備の段階で聖書箇所を選ぶのに苦労する時があります。その理由は明確に3つあります。一つ目は、私が優柔不断であること。二つ目は、欲張りであること。三つ目は、神様の導き、聖霊に頼らなすぎで迷うということが自分にあるとよく分かっています。今年は、4月からローマの信徒への手紙を1章からずっと読み進め、宣教をしていますので、11月までは優柔不断になったり、欲張ることは全くなく、ひたすら神様のお導き、聖霊に頼って宣教の準備をしてきたのですが、やはり待降節のシーズンはその季節に沿った宣教をした方が良いだろうと久しぶりに準備し始めたら、あらら、ダメです。また、優柔不断、欲張りになって、聖書箇所がなかなか決まらなくなり、苦しむ事になりました。

今朝の聖書箇所であるルカによる福音書1章78節79節は、たくさんある候補の中の一つでしたが、旧約聖書のイザヤ書やエレミヤ書から救い主降誕の預言がされている箇所が良いのか、それともイエス様を宿したマリヤや彼女を支えるヨセフ、あるいは救い主に会うために東方から旅を続けている博士たちにスポットライトを当てた方が良いのかなぁと思ったりして、なかなか決まりませんでした。

しかし、神様は本当に素晴らしいお方です。先週の水曜日に、教会宛に一通のクリスマスカードを届けてくださいました。私たちが過去6年間、祈りに覚えています東日本の被災地・宮城県の大富教会と岩手県の盛岡教会から先週クリスマスカードが届きました。

もう一つ祈りの支援をしています福島県の郡山コスモス通り教会は、去る10月20日に金子千嘉世先生が天に召されましたので、慰めと平安があるように、祈りに覚えたいと思います。また他にも各地からクリスマスカードが届き始めていますので、掲示板をご覧いただきたいと思いますが、盛岡教会からのカードを開いて、私は本当に大きな喜びに満たされ、主を賛美し、感謝しました。そのカードには、今朝、大久保教会で宣教するために候補としてあげられていた箇所が記されていたのです。

「大久保バプテスト教会の皆様へ 『闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。』イザヤ書9章1節 クリスマスおめでとうございます。皆様お一人おひとりの上に神様の恵みと祝福が増し加えられますようにお祈り申しあげます。盛岡教会一同」とありました。私は、この盛岡教会からのカードを読んで、9日の宣教の聖書箇所はここだという確信を神様からいただきました。

今朝の礼拝への招きの言葉は、ルカによる福音書1章の68節から75節としました。今朝の宣教は78節と79節ですが、68節から79節から聴いて行ければと思います。

この箇所は、バプテスマのヨハネの父であるザカリヤが待望していた一人息子ヨハネが誕生した後に預言をした箇所です。ゼカリヤは、大いなる喜び、大いなる恐れ、大いなる感動と感謝、聖霊に満たされて、自分の息子とその息子が仕える、来るべき救い主・メシアについてここで預言をしています。

68〜70節「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。」 「角」というのは、イスラエルの民の中では力の象徴として見られていて、救い主・メシアを表す言葉として用いられていますので、ダビデ王の家系から力ある救い主がお生まれになるということです。「起こされた」と過去形になっていますが、これは聖書の世界では「預言者的な過去形」と呼ばれるもので、預言者は神様から託された預言、約束の成就を確信し、神様に信頼することで、将来のことをもうすでに事実起こったことのように過去形で語ります。実際にはまだ救い主はお生まれになっていませんでしたが、生まれるという確認、信頼に基づいてゼカリヤはここでそのように言っているわけです。そして、ザカリヤの息子ヨハネの誕生から半年ほどして、イエス様がお生まれになられました。このイエス様が、神様から遣わされた私たちの救い主なのです。

71〜75節「それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」 「我らの敵」とありますが、イザヤ書9章の時代、イスラエルはアッシリアから攻撃を受け、「シリア・エフライム戦争」と呼ばれる戦争がありました。イザヤ書8章23節では「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが」とあるのですが、戦争に負けて、他の国に占領され、様々なくびき・苦役を負わされ、虐げる者の鞭を受けて苦しんでいたわけです。私たちも日々の忙しさに忙殺されたり、様々な思い煩いで苦しんだり、身勝手な人から批判されたり、誰かと比較されたり、小さなミスを非難されたりして苦しむことがありますが、そのような思いから解放してくださるのがイエス様なのです。

76節と77節は、ゼカリヤの息子であるバプテスマのヨハネについて預言している箇所ですが、今朝はヨハネのことに触れることは割愛させていただきますが、自分の子どもが救い主のために働くと神様から知らされていたゼカリヤの心境は、どのようなものであったでしょうか。絶えず祈りつつ、いつも愛を持って神様から託された子を育てたのではないかと思います。私たちの教会にも子どもたちが与えられ、私たちに託されています。主の恵みによって与えられている子どもたちのために祈りつつ、愛してまいりましょう。

さて、救い主が神様から遣わされ、その民を訪れ、くびきや苦悩から解放してくださるのはただただ「我らの神の憐れみの心による」と78節に記されています。すべては、神様からの愛、憐れみ、恵みなのです。イエス様が私たちのもとに来てくださり、私たちの傍にいつも伴ってくださっているのは、私たちが神様に愛されている証拠です。私たちのことなど気にしていなければ、救い主をお遣わしになることはありませんでした。罪の中に放ったらかしにしていても、自然に死んでゆく、そういう存在が私たちでした。罪の中で、さまよい、悩み、痛みを感じ、悲しみに打ちひしがれ、苦しみ悶え、苦労の末に寿命を迎える。この地上での命の先が不確かな中で、それでもこの命を懸けて苦しみ悶えながらも生きる、そういう私たちを神様は愛し、憐れんでくださっています。「そんな憐れみなんか要らない」と意気がるといいましょうか、強がる人もいるでしょう。でも、それでもすべての人、私たちを愛し続けてくださるのが、神様です。

79節に「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」とザカリヤは預言していることが記されています。

「高い所」とは、神様のおられる御国です。そこから「あけぼのの光が我らを訪れる」、イエス様がこの世に生きる私たちを照らす光として訪れてくださったという良き知らせです。

「暗闇と死の陰に座している者たちを照らす」とあります。「暗闇と死の陰」というのは、イザヤ書9章のことを先ほどお話ししましたが、戦争が背景にあります。今も紛争や内戦がある地では「暗闇と死の陰」に怯えて生きておられる方々、自由と思える国に向かって生まれ故郷を離れて旅をする方々もおられます。イエス様を信じて従うクリスチャンたちが世界各地で迫害を受けて苦しんでおられます。では、戦争のない日本には「暗闇と死の陰」に生きておられる方はいないのかというと、そういう訳ではなく、「戦争、紛争、内戦」はなくても、誰もが暗闇と死の陰のもとにい生きていると思います。私たちもその一人ではないかと思います。根本的には、私たちには「罪」がくびきとしてあり、人生の終わりには「死」が必ずあり、「闇の力」と言いましょうか、「サタンの力」があり、それらが原因となって、戦いが日々あり、不安や恐れ、痛みや悲しみ、孤独感や虚しさを覚えて苦しみます。

この79節を読んでゆく中で、私の心を捉えたのは、「暗闇と死の陰に座している者たち」という中の「座している」という言葉でした。その言葉に、日々の人々の思いとの戦い、自分の心の中にある戦い、不安や恐れ、痛みや悲しみ、孤独感や虚しさの中に日々置かれてゆく中で、立ち上がれないほど心と体が疲労困ぱいの状態、弱っている状態の私たちの姿を見ることができると思います。

しかし、そのような自分の力だけでは立ち上がれず、弱り果てている私たちを「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、照らしてくださる」と預言されています。つまり、神様によって約束されているわけです。暗闇の中で、立ちすくむこともできないでしゃがんでいる私たちを神様が光で照らしてくださる。イエス様を遣わして私たちの手を取り、引き上げ、立ち上がらせてくださる。私たちを抱きしめ、慰め、励まし、癒してくださる。それだけではありません。「我らの歩みを平和の道に導く」とあります。イエス様が私たちと共に歩んでくださり、私たちを平和の道へと導いてくださると約束されています。その平和の道の最終地点は、神様がおられる所です。

今朝、神様の憐れみによって、主イエス・キリストを通して、この約束が私たちに与えられています。私たちの目の前に愛のうちに差し出されています。この約束を信じ、イエス様に従ってゆくように招かれています。この約束を信じて、一緒にイエス様に従ってまいりましょう。