理想と現実の狭間で苦しんでも

「理想と現実の狭間で苦しんでも」  12月第一アドベント主日礼拝 宣教     2018年12月2日

マタイによる福音書 11章2−6節              牧師 河野信一郎

主イエス様の御降誕の喜びを再度味わうシーズン、待降節に本日から入りました。このアドベントのシーズンを私たちはどのように過ごすべきでしょうか。過ごし方は色々あります。このように過ごさなければならないという律法はありません。私たちは律法から解放されています。自由な心持ちで過ごすことが大切だと思いますが、そのような中で、それぞれの思いの中で、イエス様と向き合うこと、神様と向き合うことが最も大切なことだと思います。

先ほど、「このアドベントをどのように過ごすべきでしょうか」と申しました。「どのように過ごすべきか」、それぞれに考えの中で理想的な過ごし方があると思います。十人十色、それぞれの考え、理想は違います。ですから、違わないもの、変わらないもの、私たちに共通するものを土台とすることが重要で、その土台は主イエス様です。このイエス様と私たちそれぞれが真心を持って向き合い、イエス様に集中するとき、それぞれのアドベントの過ごし方をイエス様ご自身が、御聖霊が導いてくださるでしょう。忙しい日々の中で、イエス様に集中する時間、イエス様と向き合う時間が私たちに必要なのではないかと思います。

さて、今朝の宣教は「理想と現実の狭間で苦しんでも」という主題にいたしました。ちょっと難しいお話になるかもしれませんが、できる限り分かり易くお話しできればと思います。本当のことをいえば、今朝の主題を「理想と現実の狭間で苦しんでも」ではなくて「信仰と現実の狭間で苦しんでも」にしようと考えました。しかしながら、「信仰」としますと信仰を持たれている方々に限定されてしまうと思いまして、多くの人々が一般的に持つ「理想」にした方が良いかなぁと思って、そのようにいたしました。

「理想」という言葉を広辞苑で見ますとこのようにあります。「行為・性質・状態などに関して、考え得る最高の状態。未だ現実には存在しないが、現実可能なものとして行為の目的であり、その意味で行為の機動力である」とありました。「理想とは、私たちに考え得る最高の状態。まだ現存しないけれども、現実させる目的であり、そうさせようとする機動力である」ということでしょうか。

もう少し言葉を変え、もう少し乱暴な言い方をするならば、「理想とは最高の行為・性質・状態を求める者の願望」とも言えるでしょうか。「理想」と「願望」は、正確に言えば同じものではないかもしれません。しかしながら、それらの思いが出て来るもとを辿ると私たちの心につながっていると思います。しかし、「信仰」は私たちの心につながってはいますが、もとを辿れば神様から与えられているもので、神様と私たち一人ひとりをつなぐパイプのような「恵み」です。主イエス様を信じることによってこの信仰が神様から与えられて、私たちは恵みのうちに生きることができる、許されているのだと信じ、神様に感謝いたします。

しかしながら、私たちの理想と目の前にある現実、私たちの信仰と日々の生活の中で直面している現実には大きな開きと言いましょうか、大きなギャップがあって、その狭間で私たちは苦しみ悶えてしまい、目的を見失い、生きる力といいましょうか、生きる機動力が衰えてしまうという経験をいつもしているのではないかと思います。

私たちには切望するもの、夢がある。理想とするものがあって頑張って生きてきたし、今も頑張ろうとしている。しかし、自分が今置かれている状態は理想とは大きな開き、乖離がある。人が思うほど欲張っていないし、できる限りの知恵と努力を尽くして頑張っているのに、思い通りにならないということが生活の色々な面であるのではないでしょうか。短気な人であればストレスを感じ、周りの人たちに迷惑をかけるような方法でストレス発散をするでしょう。冷静な人は、じっくり、ゆっくり考えて、他の方法を考えたり、自分の計画の修正をするでしょう。それでは信仰が与えられている人は、どのように生きるべきでしょうか。あっ、また「生きるべき」と言って律法的なことを言ってしまいましたが、神様は、イエス様は私たちにどのように生きて欲しいのでしょうか。それを知ること、信じることが大切なのではないでしょうか。

今朝私たちに与えられている聖書の御言葉は、マタイによる福音書11章の2節から6節です。2節から3節までをもう一度ご一緒に読んでみましょう。

「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」

バプテスマのヨハネという人がヘロデ王に捕らえられ、命の危険にさらされています。明日、理不尽な理由で命を落とすかもしれない。そのような牢獄からイエス様に「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と問いかけられています。

私たちも理不尽な社会の中で生きていて、本当にこのような状態のままで良いのだろうか。このようなことが繰り返されていても良いのだろうか。いつまでこのような現状が続くのだろうかと心が締め付けられ、痛み苦しむことがあります。そういう中で、「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」というような問いをするのではないかと思います。むしろ、そのように問うことをしなければならないのかもしれません。ただ、そのように問う時に、その問いかけに対するイエス様の答えを私たちは常に聞いてゆく必要があると思うのです。

バプテスマのヨハネという人は、主イエス様の道を備えることを生涯の使命として生きてきた30歳の男性です。まだまだ若く、働き盛りで、熱血漢のある人で、神様には忠実で、人々には厳しくも、しかしいつも誠実に生きる人でしたが、本当に理不尽な理由で捕らえられ、牢獄につながれ、最後の時を迎えようとしていました。そのヨハネが、「牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」のです。そこで居ても立っても居られなくなり、弟子たちをイエス様のもとに遣わし、先ほどの質問をさせます。来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と。

バプテスマのヨハネは、試練の中で苦しんでいました。悩んでいました。迷っていました。自分が今まで信じてきたこと、信じて成してきたことと、いま自分が直面している状態には大きなギャップ、隔たりがあるからです。

「来たるべきお方、メシア、救い主キリストはもうおられる。来ておられる。それなのになぜ自分は牢獄に捕らえられたままなのだろうか。なぜ死と向き合い、死の恐怖を味わわなければならないのか。キリストが来られているのであれば、全ての問題は解決されて良いはずなのではないだろうか。なぜキリストは私を救い出してくれないのだろうか。あまりにもむごい対応ではないか」とヨハネは感じたことでしょう。そう感じたかもしれません。

このような感情を抱くのはヨハネだけではなく、私たちも同じです。イエス様を信じている者であっても、試練を経験する時、私たちもバプテスマのヨハネが抱く疑問を抱き、苦しむと思います。信仰と現実の間にあるギャプ、その狭間で私たちは苦しみ悶えます。「牢の中」ではなくても、苦しみの中で「これで良いのか。このままで良いのか。なぜイエス様は私の切実な問題、苦しみを解決してくれないのか」と疑問を抱くことがあります。しかし、そのような疑問を抱くことは不信仰ではありません。イエス様と向き合う絶好のチャンスです。イエス様と親しくつながって、コミュニケートし、信仰を新たにする恵みの時です。

そのような時に私たちが求める必要があるのは、主イエス様の言葉、答えです。イエス様はヨハネに何と答えておられるでしょうか。4節から6節を読みましょう。

「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである』」とあります。

このイエス様のお言葉は、2つの大切なことが示されています。一つは「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」という言葉は、イザヤ書35章と61章で救い主・メシアが到来した時に起こることが約束として記されている言葉です。つまり、いま神様の御心が成され、神様の約束がなされているということを示し、私たちの理想とか願望を遥かに超えた救いの御業を神様はイエス様を通して今、現実に進めているから、その神様を、その御力の働きを疑わずに信じなさい、信じ続けなさいという励ましです。その励ましをイエス様はバプテスマのヨハネに送っています。私たちの理想、願望は私たちを中心としていますが、私たちに大切なのは私たちの思いを優先させて生きてゆくのではなく、神様の御心を求め、御心にそって生き、従ってゆくことではないかと示されます。

もう一つ私たちに大切なのは、イエス様につまずかないということです。ヨハネは、試練に直面する中で、イエス様につまずきそうになりました。今まで歩んできた道は報われないのではないか。間違いであったかもしれない。もう他の道を歩むべき時かもしれない。そうでないと今の現状から脱することは不可能であると考えたのかもしれません。私たちも自分の思いと現実に大きな開きがあると、すぐに諦めて他の道・方法を模索しようとしてしまいますが、イエス様は「わたしにつまずかない人は幸いである」とはっきりとおっしゃいます。そして「わたしにつまずかない人は幸いである」とおっしゃったイエス様が、理想と現実の狭間で、神の御子とし、父なる神と罪人たちの狭間で、つまりカルバリの丘の十字架上で、私たちを救うためにもっとも苦しまれ、痛まれ、傷つけられ、それでも神様の御心に忠実に生きられ、私たちを愛し、私たちを赦し、その命をささげてくださったお方なのです。神の御子が、罪のないイエス様が、私たちの罪を全て負ってくださり、罪の贖いの供え物として十字架に付けられ、耐え難い苦しみを負ってくださった。このイエス様につまずかない人は幸いであるとイエス様はおっしゃり、このイエス様を救い主と信じる信仰へと私たちは今朝、神様の憐れみのうちに招かれています。このイエス様に、私たちを理想と現実の狭間から、罪と死の恐怖から、信仰と現実の大きなギャップから解放し、真の自由を与え、生きる目的、その命の意味とそのように生きる起動力を与える力があります。私たちは、神様の愛、その愛の力を受けて生きています。生かされています。たとえ今私たちがおかれている現状が自分の思い・願いとは大きくかけ離れていると思えて迷い悩むことがあったとしても、主イエス様の言葉に常に聴くようにし、神様の愛とご計画を信じて、委ねて歩んで参りましょう。イエス様は私たちに今朝このようにおっしゃいます。「飼い葉桶の中に生まれ、十字架にかかるわたしにつまずかない人は幸いである」と。祈ります。