生きている者の神

宣教「生きている者の神」    大久保バプテスト教会副牧師石垣茂夫                  2022/03/20

聖書Ⅰ:出エジプト記3章4~6節

聖書Ⅱ:マルコによる福音書12章18節~27節

招詞:ヨハネの手紙Ⅰ 3章2節

 

「レントに思うこと」

皆様と心を合わせ、重ねて祈るべきことですが、このレントを前にして2月24日、ロシア軍がウクライナに侵攻し、現在も激しく攻撃して、悲惨な状況を生み出しています。間もなく一か月になろうとしています。

ウクライナの人口は現在4100万人という事です。このうち、国外など、安全な場所に退避できた方は、まだ10%に達していないと思われます。多くの人たちが恐怖の中で生活しています。和解への道筋が与えられますように、共に祈り続けましょう。

 

はじめに、少し長い前置きになりますが、「レント」についてお話させて頂きます。

今年は3月2日から4月16日までが「レント」「受難節」になりました。

「レント(Lent)」とは、「断食」の意味を持つ古いゲルマンの言葉から派生して教会用語となりました。

それは次第に本格的な「断食」を伴う、厳しい修行になって行きました。

ところが16世紀、宗教改革以降、「断食」を伴うこうした修行は、健康上の理由もありますが、修行によって救いが得られるとしてきたことに対する反発からでしょうか、少なくなってきました。「救い」はあくまでも「神の恵み」であると捉えなおされたからだと、思われます。

 

このレントの最後の一週間を、「受難週」と呼びます。

特にその週の月曜日から金曜日までは、現在でも、毎晩集会を行い、福音書の受難の箇所を読み、祈ることを続けている教会があります。

わたしは、数年前のある年、丁度レントの期間でしたが、神田にあります「聖公会」の教会で、1945年3月10日・東京大空襲の被害者を記念する、”礼拝と講演”の時が持たれることを知り出席しました。

その礼拝堂の中には、両側の壁に、木製で60センチ角の彫刻版が左右に7枚づつ、14枚掛けられていました。その中にキリストが十字架を背負う姿がありました。礼拝が始まるまで時間がありましたので、わたしはこの彫刻版を端から順番に見ていきました。その彫刻は、たいへん人を引き付けるものがありましたが、わたしは、「レント」と、14枚の「彫刻版」の関係を全く分からずに帰ってきました。

後で調べて分かったことですが、この彫刻版は “14のステーション”と呼び、十字架に向かって進むキリストの姿を描いた作品でした。毎年このようにしてレントの期間中、礼拝堂に掲げて祈るという習慣があるそうです。

これが分かった時、プロテスタントのあなたはどのようにしてこのレントの期間を過ごすのかと問われたのです。

今年は、様々な事情で受難週に教会に集えないという事になりました。そこで、今年は各自が、キリストの受難を心に留めて福音書を読み、祈りましょうと、河野先生が準備をしてくださっています。そうした教会の取り組みに心を合わせ、共に祈りつつ、この期間を過ごしましょう。

 

「はじめに」

聖書朗読では、初めに出エジプト記3章を読んで頂きました。ここに、「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」とありました。この言葉は新約聖書にも、しばしば現れますが、神様はこの言葉で何を伝えようとされているのでしょうか、ご一緒に考えたいと思います。

次にマルコ12章18節以下を読んで頂きました。この箇所は、「復活はない」と主張するサドカイ派と主イエスとの問答です。「復活」とは、どのようなことなのか、ここには、主イエスのお考えが示されています。

今朝の宣教では、関連してもう一つ、ヨハネ第一の手紙のみ言葉を招詞として読んで頂きました。この三つの個所から復活について問い、主イエスの父なる神に導かれたいと願っています。

 

「祭司長や律法学者たちの苛立いらだち」

お読みいただいたマルコ12章の少し前、11章には、主イエスの「宮清め」と呼ぶ出来事が記されています。

主イエスが突然神殿に現れて商人たちを追い払い、「神殿を食い物にしている」祭司長や律法学者といった当事者たちを、人々の前で糾弾きゅうだんしたのです。この様子を聞いて当事者たちは、「困った人が現れたものだ」と嘆き、このイエスをどのようにして殺そうかと謀はかった(11:18)と相談するほど、一気に緊迫していきました。

はじめに神殿当事者たちは苛立いらだち、反感を持って問いかけてきました。しかしこの時は、主イエスに太刀打ちできず、引き下がっていきました(11:27~33)。

彼らは自分たちの手に負えないと思い、ユダヤ教のいくつかの派閥を利用しはじめました。

ユダヤ教内で最も勢力があるのは、庶民の中に生きるファリサイ派です。最初に遣わされたファリサイ派の人々の質問は「ローマ皇帝への納税」でした。主イエスを陥れようと、悪意で仕組まれたものでしたが、主イエスは見事にはねのけてしまいました(12:13~17)。

 

「サドカイ派との復活の問答」

次に遣わされたのはサドカイ派の人たちです。彼らは上流階級に属し、神殿と深く結びついた知識層です。

彼らは、目の前に現れたことしか認めない現実主義者で、「復活はない」と主張し、聖霊も天使の存在も否定していました。

彼らは主イエスを困らせようとして、申命記25章の「レビラート婚」を捻じ曲げた問いかけを考え、復活があるなら「こんな困ったことが起きるぞ」と問いかけてきました。

『ある家に、七人の男の兄弟がいた。はじめに長男が嫁を娶めとったが、子を残さずに亡くなった。そのあと、弟たちが次々と兄嫁を娶めとったが、子を残さずに皆亡くなってしまった。もし復活があるなら、いったいこの女性は誰の嫁になるのか』(12:20~23)という質問です。実際には、起こりようもない、問いかけで「復活があるなら、困ったことが起こるぞ」と、主イエスに迫ったのです。

主イエスは、この問いかけの思い違いを指摘して、彼らにこう言いました。

『死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく天使のようになるのだ』(12:24~25)と答えたのです。

「死者の中から復活するときには、めとることも嫁とつぐこともない」。ここに主イエスの、復活についての答えがあります。

「めとること、嫁とつぐこと」とは、わたしたちの現在の地上の生活を表現しています。

「それがない」という事は、こうした、現在私たちが味わっている地上の生活の延長線上に、復活の命があるのではないと言われたのです。言葉をかえれば、今眺めている景色の先に復活があるのではないということです。

誰もが皆、復活を、現在の生活の延長線上あると考えますし、復活の命に与あずかるには、現在の生き方が良いかどうかにかかっていると考えているからです。良ければ与れるし、悪ければ与れないと捉えてしまうのです。

主イエスは「復活の世界では、体も生活も、現在とは全く改まる新しい世界なのだ」と言われたのです。

 

「天使のようになる」

続いて主イエスは「復活するときには、…天使のようになるのだ」と言われました。

しかし、わたしたちがもし、「あなたは天使のようになる」と言われますなら、少なからず戸惑いを覚えるのではないでしょうか。果たしてサドカイ派は納得するのでしょうか。

そこである注解者は「天使のようになる」との言葉を、「神の子になる」と言い換えて、次のように補っています。

 

招詞で、ヨハネの手紙Ⅰ 3章2節 を読んで頂きました。長老ヨハネは、もう少し手前の2章28節から、神の御子・主イエスに結ばれた者を神は愛し、「神の子」とまで呼んでくださっていると言っています。

しかしその「神の子」の復活の姿についてつぎのようにも言っているのです。

 3:2a 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。

わたしたちは、「今既に、神の子」とされているのですが、その死後の姿、或いは復活の姿は、今はまだはっきりとは分からないと、言っています。わたしは、「まだはっきりとは分からない」、この言葉を聞いたわたしたちは、安心していいと思いました。あのパウロも、第一コリント13章で「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」と言っています。

 

長老ヨハネは「しかし」と後半の言葉を続けています。

3:2b しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。

わたしたち大久保教会では、2018年から「主の晩餐式」で、皆さんで制定した「信仰告白」を唱和するようになりました。「信仰告白」の最後の項ですが、“終末の希望”という一文があります。

「私たちは、イエス・キリストの再臨を待ち望み、神の御前に立つ時にキリストがとりなしてくださることを信じます。」という言葉です。

この「信仰告白」のように、わたしたちは、再臨の主イエスにお会いする希望と、主イエスの執り成しを信じて生きています。

長老ヨハネも、「なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」と言いました。わたしたちは再臨の時、復活の主にお会いできると言っているのです。

わたしたちに与えられた恵みは、主イエス・キリストによって罪赦され、父なる神の愛を知り、神の子とされていることです。この恵を、信仰を持って受け、望みを持って歩むことを、神は待っておられます。

 

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」

さて、サドカイ派は納得したのでしょうか。

主イエスはなお、言葉を続けました。

現在のわたしたちにとっての問題は、自分の死後のことではない、死後のことは“おぼろげだ”という事が分かりました。大事なのは、「今、生きているわたしと神」の問題なのです。そして言葉を続けました。  

主イエスは、出エジプト記3章の言葉で、サドカイ派に答えて行かれました。

 

12:26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。

12:26『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。

 12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

 

モーセは、ある事件以来、王の仕打ちを恐れてエジプトを去り、シナイ半島の対岸ミディアンに逃れ、家庭を築き、隠れて生きていました。

そのモーセの前に主なる神が現れて、ご自分はエジプトで苦しむイスラエルの民の声を聞いたと言われました。

そしてご自身が昔、アブラハム(創世記22:16~18),イサク(創世記26:2~5)、ヤコブ(創世記28:13~15)と契約したことを思い起こし、イスラエルを救おうと決心され、モーセに「あなたを遣わす」と伝えたのです。モーセは、自分はその任務に堪えられないと思い、何度も断りますが、神は諦めません。そして実現したのです。

このとき神は三人の先祖の名を挙げて、「わたしは…ヤコブの神である」といわれました。このときに、「神であった」ではなく、明確に「神である」と言われました。

神に愛され、神を愛して生きた先祖は、たとい死んでも、神の中に生きているのです。神との関係は永遠であり、死によっても断ち切られることは無いのです。ここに旧約聖書の復活の思想があると言われています。

大事なことは、あのアブラハム、イサク、ヤコブが辿たどったように、今、神を愛し、神に愛される関係に身を置いて生きることではないかと、モーセに迫りました。モーセはそのように導かれ、出エジプトの大役を担う決心をしました。

現在のわたしたちにとっての問題は、自分の死後のことではないのです。大事なのは、神は、主イエスによって「わたしたち、生きている者の神となってくださった」ということです。

繰り返しますが、わたしたちには、既に、「神の子としての生き方」が与えられています。

主イエスが教えてくださった「生きている者の神」に、わたしたちの生きる方向を定めましょう。

現在のわたしたちの生活の中でこそ、神との交わりを求めましょう。

罪赦され、救われた恵みにお応えしましょう。

その先に、復活の命があることを信じて歩んでまいりましょう。

【祈り】