目を覚まして祈りなさい

「目を覚まして祈りなさい」 二月第四主日礼拝 宣教 2020年2月23日

 ルカによる福音書 21章34〜38節        牧師 河野信一郎

新型コロナウイルスの感染が日本各地に拡大していますが、それ以上に感染に対する不安と恐れが増長し、差別や風評被害がでています。今日のためにマスクや消毒液を購入に薬局へ行きましたが、どこにも売っていません。昨日聞いたニュースの中で可哀想だなぁと感じたのは、結婚式を控えている人たちが感染の恐れがある中で式を挙行するか、それとも招いた友人たちの出席を諦めて家族だけの式にし、披露宴のキャンセル料金を支払うかという苦渋の選択を迫られているというものでした。

私たちの教会でも、感染を防ぐための対策を講じますが、この礼拝堂でささげられる礼拝に出席されるか、それとも自宅で礼拝をささげるかは、皆さんそれぞれに判断していただきたいと思います。日曜日ごとに礼拝をささげる準備を万端にして、皆さんが教会に帰って来られることをお待ちしておりますが、「絶対に礼拝に出席しなければならない」とは決して言いません。最悪の場合を想定して、皆さんの自宅でも主日礼拝がささげられるよう工夫をしなければならないと思っています。ある教会では、今日からフェイスブックで礼拝の模様をライブ発信するそうです。スカイプの方が良いでしょうか。スマホやパソコンに詳しくない方々はどうしたら良いでしょうか。毎週の宣教は、当日の朝までに教会ホームページに掲載できるように頑張りたいと思いますが、これからどのように事態が動いてゆくのかを注視しながら、外出が困難になった時に主の日の礼拝をどうするのか、教会としてどう対応するのかを執事会で話し合い、しっかり想定しておくことが大切であると思います。皆さんに良い知恵がありましたら、ぜひお聞かせいただければと思います。

こういう大変な状況の中で、わたしたちがいつもしっかり心に留めるべきことは、主に信頼して歩み続けるということです。これからどうなるのか、先が不透明で見えない中で不安や恐れを感じる時でも、主の声に聴き従って歩み続けることです。ヘブライ人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」とありますが、主が約束してくださっている主の伴いと守りと祝福を信じ、希望を持って主に従って歩み続けることが重要です。今朝わたしたちに与えられている聖書箇所には、そのことが記されていると信じます。

さて、今週水曜日の26日から今年の受難節(レント)が始まり、4月11日まで続きます。主イエス様の十字架への道のりにわたしたちの心を集中させてゆきたいと思いますが、今朝のテキストは、ルカによる福音書21章34節から38節です。この箇所は、ルカによる福音書にしか記録されていない特有な記事です。

21章5節から38節までが一つのくくりになっていて、エルサレム神殿の崩壊の予告や終末の徴がどのようなものであるのか、エルサレムが滅亡することの予告がイエス様によってなされているとっても重苦しい内容の箇所です。しかし、この箇所は世の終わり、終末についてのみ記されているのではなく、主イエス・キリストの再臨が約束され、信仰に踏みとどまるための力強い励ましと慰め、希望が語られています。立派に見える神殿は人の手によって崩れ去り、天地は滅びる時が必ず来るけれども、主の言葉は決して滅びることはない。苦難の時が必ず訪れるけれども、主なる神様の保護が必ずあり、あなたがたの解放の時、救いの完成の時は近いから、今は信仰を持って忍耐しなさいという主イエス様の励ましの言葉がここに語られ、約束がされています。

今朝の34節から36節には、困難な時代に生きる者たち、主イエスを救い主と信じる者たちに対して二つの勧めが記されています。一つは34節にあります。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」とあります。主イエス様を忘れ、勝手気ままに生活したり、お酒を飲み過ぎて我を忘れたり、自分の力と知恵と経験に頼って問題や課題を解決しようと躍起になり、イエス様の声と言葉に聴き従うことをやめてしまわないように注意しなさいということです。そうでないと「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」とイエス様はわたしたちの注意を促します。「その日」とは「世の終わりの日」であり、また「主イエス様の再臨の日」です。それがいつ来るのか、わたしたちには分かりません。今日の午後かもしれませんし、明日かもしれません。

テレビや新聞によりますと、21章10節から12節に記されているような出来事が世界各地で起こっています。すなわち、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れ、多くのクリスチャンたちが迫害されています」。皆さんにも思い当たることがあると思います。35節に「その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである」とあります。コロナウイルスによる肺炎の疫病が世界中に蔓延する勢いです。わたしたちにも、いつ「その日」が訪れるか、分からないのです。ですから、心が鈍くならないように日頃から注意して歩む必要があるのです。

二つ目の勧めは、36節に記されています。「しかし、あなたがたは、起ころうとしているすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」とあります。今、そしてこれから起ころうとしているすべての災いから逃れて、「人の子」、つまりイエス・キリストの前に立つことができるように「いつも目を覚まして祈りなさい」という励まし。たとえ苦難の中に置かれていても、主があなたに伴ってくださり、あなたを守ってくださるから大丈夫、だから、いつも主イエス様を見上げ、信仰を持ち続けて、わたしに従って歩みなさいというイエス様の励ましです。これがイエス様の願い、神様の願いです。この願いを知る方法は「祈り」です。いつも信仰の目を覚まして祈り続けること、神様の声を求め続けること、聴き続けることです。

ついうっかりすると、わたしたちはイエス様が近くにおられることを忘れてしまい、自分勝手な歩みをしてしまい、思い煩ったり、恐れを抱いたり、不安や恐れを打ち消すために酒や快楽を求めたり、また自分の知恵と力だけで大きな山を乗り越えようとしてしまいます。そして、そういう暗闇の中で、わたしたちは道に迷ってしまいます。しかし、そういう暗闇の中で、わたしたちにどのようなオプション、選択肢が残されているでしょうか。朝が来るまでひたすら忍耐強く待つという選択肢もあります。その反対に、自分の間違いを認め、悔い改めて、神様の助けを祈り求めるという選択肢もあります。この選択肢を選ぶ時、み言葉が光として与えられます。詩編119編にあるように、「あなたのみ言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」と信じて、み言葉に照らされて正しい道を歩むことができるように、主イエス様がわたしたちを助け、導いてくださいます。わたしたちは、この主イエス様から目を離してはいけないのです。今のような時であるからこそ、イエス様を見つめ、イエス様の声に聞き従ってゆく必要があるのです。

イエス様は、日中はエルサレムの神殿の境内で教えられ、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山に登って過ごされ、民衆は皆、イエス様の話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエス様のもとに朝早くから集まって来たと37節と38節に記されています。イエス様は昼間はみ言葉を語られました。夜は、神様に祈り、神様と過ごしていたのではないかとわたしは推測します。このイエス様が、のちに「あなたの信仰がなくならないように祈った」(ルカ22:32)とペトロにおっしゃったように、わたしたちの信仰が脅かされてもなくならないように、主イエス様が祈ってくださっていることを覚えて、喜んで、感謝して、いつも目を覚まして祈りつつ歩んで行く者とされてゆきましょう。