神が御心に留めてくださったゆえに

「神が御心に留めてくださったゆえに」 十一月第二主日礼拝宣教 2021年11月14日

 ネヘミヤ記 13章14節,22b節,32〜37節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。今朝も、この礼拝堂で、またオンラインでご一緒に礼拝を神様におささげできる幸いを神様に感謝いたします。今日の教会スケジュールは本当に盛りだくさんで、この礼拝の第二部では子ども祝福式があり、礼拝後には各会の例会、その後には20数ヵ月ぶりの対面式での執事会が開かれます。そして夕方の4時からは夕礼拝のリハーサルがあり、5時から夕礼拝がささげられますので、今朝はすぐに宣教に入ってゆきたいと思います。

今朝の宣教は「神が御心に留めてくださったゆえに」というタイトルをつけました。神様がわたしたちを憐れみ、御心に留めてくださったゆえ、わたしたちに救い主イエス・キリストが与えられ、この救い主の贖いの死と復活を通して救いが与えられ、主の恵みの中に生かされているという神様の愛を共に味わい、喜び、感謝することを目標にしたいと願っています。

この宣教は、8月から共に聴いてまいりましたネヘミヤ記に聴くシリーズの最終回となります。シリーズへの導入として聴きましたエズラ記1章を含めますと、14回にわたるシリーズになりましたが、ずっと信仰の耳を傾けて熱心に聴いてこられた皆さんは、この間、どのような励ましと導きを神様からお受けになられてきたでしょうか。コロナパンデミックの中で方向性が確かめない状況にあって、主イエス様にある希望を抱くことはできたでしょうか。宣教を担当したわたしは、祈りの時間、み言葉と向き合う時間、黙想する時間、様々なアイデアや言葉や不思議な導きが与えられ、宣教が一つ一つまとめられてゆく過程の中で、言葉に言い表すことのできないほどの至福の時間を過ごすことができて本当に感謝でした。

新型コロナウイルス感染症拡大と度重なる緊急事態宣言によって、この礼拝堂での礼拝、またその他の諸集会は対面でできなくなり、なんとか頑張ったつもりですが、わたしたちの霊性は少しずつ弱り始め、様々な面で教会の体力が低下しました。わたしたちは何度も不安に陥り、何度も迷い、何度も主を仰いで主の助けを求め、そのような中で、せめて日曜日の礼拝だけは続けてささげようと手探りでオンライン礼拝を開始し、皆さんの愛と祈りと忍耐、限られた奉仕者たちの献身的な働きによって、何より神様の深い憐れみと励ましと支えによって、この9月末までの20ヶ月間、オンラインでの礼拝を継続することができ、今ではこの礼拝のライブ配信が大久保教会の伝道ミニストリーの新たな柱として加えられました。

教会の危機的状態の中で神様から得た素晴らしい恵み、感謝な恵みもたくさんありますが、いつまでもこの恵みの上にあぐらをかいてゆくわけにはいきません。この恵みの上に、わたしたちは主の御霊に満たされた健康な教会、喜びと感謝と希望に満ち溢れた教会を今一度共に建て上げてゆく、主の業に常に励むことを大久保教会の今年度の目標としました。わたしたちの使命は、神様を愛する礼拝をささげることと、そして一人でも多くの人々と神様の愛を分かち合うことです。しかし緊急事態宣言中は、ステイホームが原則であり、鉄則でしたから、わたしたちは伝道らしいことは配信以外は何もできませんでした。

しかしコロナパンデミックからの解放を祈り求めてゆく中、コロナの収束の兆しが徐々に見え始め、緊急事態宣言がようやく解除され、礼拝者としてこの教会に戻り、礼拝をささげられるようになったわたしたちは、神様の霊・聖霊に満たされ、主の御言葉どおりに生き、自分の使命と教会の使命に生きてゆく時を迎えました。パンデミックの後に、教会のリバイバルの時が来たのです。しかし、教会のリバイバルはわたしたち一人一人のリバイバル、神様わたしたちが神様に再びコミットすることがなければ聖霊に満たされることはありません。

教会に戻れる希望がまだ完全になかった頃、この教会の霊的な回復、再興、リバイバルを願い、コロナから解放された後にわたしたちは何をどうすべきなのか、神様はわたしたちに何を求めておられるのかということをネヘミヤ記から聴こうとわたしは祈り始め、14回にわたって神様の力強いみ言葉をこの講壇から皆さんに分かち合わせていただきましたが、この間、皆さんは神様のみ言葉によってどれだけ勇気づけられ、霊的な元気・力を回復し、希望を持ち続けることができたでしょうか。

わたしは去る週、過去の13回のメッセージの原稿を読み直しましたが、イスラエルの民をバビロニアの捕囚から解放し、エルサレムへ帰還させ、神殿と城壁を再建する力を与え、完成へと導かれたのは確かに主なる神様であったことを再確認しました。ネヘミヤの力強いリーダーシップの下、捕囚から帰還した民たちが、神様によって心動かされた民たちが心一つに力を合わせてエルサレムの城壁を再建してゆく記録を共に読んできました。

工事を始める前と期間中、外からの嘲弄や煽りや妨害が何度も繰り返され、内部には偉ぶるだけで何も協力しない者や外部への内通者がいたり、貧富の差に苦しみ訴える人々がいたり、何度も危機や困難を乗り越えなければなりませんでしたが、エルサレムに帰還した民たちはネヘミヤのリーダーシップの下、城壁を再建する工事の役割を担う者たち、その働き人たちを外部の攻撃の危険から守る役割を担う者たちがそれぞれ責任を果たして、たった52日間で城壁を再建するすべての工事を完成させました。これはとても凄いことです。

彼らは何故そんなにも頑張れたのでしょうか。何故そこまで集中することができたのでしょうか。何故そんなにも心を一つにできたのでしょうか。それは、彼らの心を動かしたのが神様であったからです。彼らを様々な攻撃や試練や誘惑から守り、再建のために必要なものを与えられたのが神様であったからです。神殿と城壁を再建することは、神様との関係性が神様の憐れみの中で元どおりになり、神様の祝福に与ることができるという再建の目的を神様が帰還したイスラエルの民にゼルバベル、エズラ、そしてネヘミヤというリーダーたちを通して明確に与えたからです。神様が一つの目的、一つの使命、一つの約束を民にお与えになったので、みんなは心を一つにして前進することができ、祝福に与ることができたのです。

すべての工事が完成した後、イスラエルの民は神様のみ言葉、戒めに立ち返ろうとしましたが、み言葉を聴けば聴くほど、自分たちの先祖と自分たちがこれまでどれほど神様をないがしろにして罪を犯してきたのかを知ることになりましたが、それでも自分たちを神様が愛し続け、守り導いてくださったという神様の真実を知ることができるようになり、今までの罪を悔い改めて神様に聞き従う決心を民全体でしようとし、喜びを分かち合おうとしました。民のほとんどが悔い改め、神様の言葉に聞き従う決心をし、大きな喜びに満たされました。リバイバルがイスラエルに起こったのです。神様がリバイバルを与えてくださった。その神様に礼拝をささげ、祭りを祝いました。それは疑う余地もない祝福の時でした。その喜びはネヘミヤ記の12章に記され、そこで終わっていればすべてがハッピーエンドのはずでした。

しかし、ネヘミヤ記は13章まで続くのです。これは神様の御心です。そして人間的には誠に残念ながら、この13章で期待外れの結末を迎えます。この13章に記されていることは、イスラエルの一部の人たちが悔い改めないで、神様に立ち返らないで、み言葉に聞き従わないで間違いを続けようとしたこと、罪の中に生き続けることを選び取った人たちのことが記され、大きなストレスを感じるネヘミヤの苦悩が記されています。そのストレスによってネヘミヤらしからぬ行動をとってしまう、実に残念なことも隠さないで記されています。

異国の民と結婚をして偶像礼拝を続けようとする人、イスラエルを危険にさらそうとチャンスをうかがう外部の者に協力する人、民の財産やレビ人と祭司たちが受けるべきものを横領・流用する人、委ねられた責任を果たさない管理者たち、神様の戒めを軽んじて安息日に城内で商売をする人たちが存在し、ネヘミヤは苦しみ悶えます。願いどおりに、理想的にすべてが行われないからです。なんとも期待外れな結末です。

しかし、1章のネヘミヤの祈りで始まったこのネヘミヤ記は、13章のネヘミヤの祈りで終わります。すべてがハッピーエンドではありません。納得いかないこと、受け止めることが困難なこと、苦しみも続きます。しかし、ネヘミヤは、すべてを主なる神様に委ねながら、神様から託された働きを終え、責任を果たしてゆくのです。

14節、「わたしの神よ、それゆえわたしを心に留め、神殿とその務めために示した、わたしの真心を消し去らないでください」とネヘミヤは祈ります。イスラエルのために、神殿と礼拝のためにささげてきた真心、忠実さを用いてください、無駄にしないでくださいという願いです。神様に全力でささげ、民に注いできた愛をなかったかのようにしないで、あなたの御用のために用い続けてくださいという願いです。

わたしたちの教会の年間聖句である第一コリント15章58節に、「こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」とあります。

わたしたちが主なる神様を信じ、イエス・キリストに聞き従い続けるならば、わたしたちの過去の働きも、ささげものも、真心も無駄になることはありませんし、これからもずっと神様が用い続けてくださいます。それは神様の栄光のために、教会のために、そして神様の愛を必要としている人々の救いのために用い続けられます。そのことをなしてくださる真実な神様に委ねてゆく時、誠実に仕え続け、忠実に献げ続ける時、イエス様と聖霊がわたしたちを勇気づけ、わたしたちを、わたしたちの教会を用いてくださいます。

22節の後半ですが、「わたしの神よ、このことについてもわたしを心に留め、あなたの大いなる慈しみによって、わたしを憐れんでください」というネヘミヤの祈りがあります。「このことについて」とは、いったい何のことでしょうか。

22節の前半と29節から30節を読みますと、神様の働きのために清められる必要があることが分かります。わたしたちは、主イエス様によって罪が贖われ、その血潮によって清められた者ですが、この清さは自分の信仰や努力だけで保つことはできません。わたしたちを清く保ち、用いてくださるのは神様、イエス様、そして聖霊だけです。ですから、主の慈しみと憐れみを日々求めながら生きる必要がわたしたちにはあります。主に忠実なネヘミヤさえも神様に祈って求めたのですから、わたしたちはなおさら憐れみを求める必要があります。

ネヘミヤ記の最後の節、13章31節に「わたしの神よ、わたしを御心に留め、お恵みください」というネヘミヤの祈りがあります。これまで導いてきてくださった神様を「わたしの神」と呼びます。そして「わたしを御心に留めてください。恵みをさらに注いでください」と祈り求めます。これは自己中心的な祈りでしょうか。身勝手な要求でしょうか。いいえ、違います。「神様が今日までわたしを御心に留めてくださったゆえに今の自分がある。だからこれからも神様の喜び、栄光のためだけに生きてゆきたい。ですから主なる神様、わたしをさらに祝福し、あなたの御用のために用い続けてください」という願いであったと思われます。

わたしたちの人生は山あり谷あり、紆余曲折の人生です。すべてがハッピーエンドになる訳ではなく、迷いながら、苦しみながら、痛みながら、間違いを犯しながらの歩みです。涙を流します。心の中で叫びます。そういうわたしたちを神様は御心に留めてくださり、救い主イエス・キリストをこの地上にお遣わしくださり、イエス様がわたしたちの涙を拭い、慰め、励まし、心を救って立ち上がらせてくださいます。すべては神様の愛から始まりました。すべては神様の愛の中で終わるのです。救い主イエス様がその救いの道を示し、その扉を開き、その永遠の祝福へと導いてくださいます。イエス様を救い主と信じて、このお方の声に、言葉に聞き従ってゆきましょう。主の愛と慈しみの中で、その決心を今日、いたしましょう。