神との約束に生きる

「神との約束に生きる」 十月第五主日礼拝宣教 2021年10月31日

 ネヘミヤ記 10章1節、29〜30節     牧師 河野信一郎

おはようございます。10月の最終日です。主の日の朝に、皆さんとご一緒に礼拝者として神様の御前に招かれている幸いを神様に感謝いたします。明日から11月ですが、2021年もあと2ヶ月です。朝の主日礼拝と毎月2回の夕礼拝を合わせると、神様とイエス様に賛美をおささげし、御言葉を聴くことができる礼拝は今朝も含めてあと14回おささげすることができます。その中にはクリスマスイブ礼拝も含まれます。クリスマスの準備を11月から徐々に進めて参りますが、どうぞ毎週の主日礼拝をこの礼拝堂で、またオンラインでおささげください。

昨年2月から続いています新型コロナウイルスとの戦いによって、クリスチャンの教会離れが加速し、世界的に深刻な問題となっています。最初の頃はオンライン礼拝に毎週参加していた人たちが、様々な教会のオンライン礼拝をネットサーフィン(視聴することができる)ようになって、自分が属する教会よりも魅力的な教会の礼拝が見つかり、また慰めと励ましが与えられる力強いメッセージを聞いて、そちらの教会が好きになり、自分の教会をないがしろにしたり、対面式の礼拝が再開されても教会に戻る気になれない、オンライン礼拝に満足してしまって、そのままズルズルと教会から足が遠のき、そのうちにオンラインの礼拝をもおろそかにしてしまうということが、世界中の教会で実際に起こっています。

所属する教会での教会生活が満たされずに、その教会から離れたいと思っていた人にとって、誠に残念なことですが、今回の長引くコロナパンデミックと度重なる緊急事態宣言は、教会を離れる絶好のチャンスになったわけです。教会を離れたいと思わせたきっかけや責任は、牧師や教会にもあると思います。すべての原因が教会を離れた人、あるいは心の中で今そのような思いと格闘している人だけにあるわけではありません。教会の中での関係性が希薄であったとか、牧師のメッセージがつまらないとか、誰かにつまずいたとか、ただ単に距離的に教会が遠すぎるなど、理由はいくらでも無数にあるわけです。

しかし、教会から離れる、神様から離れるということの最も重要な問題は、その人と神様との約束はどうなってしまったのか、その人と教会との約束はどうなってしまったのかということです。神様の愛に出会い、イエス様に従ってゆくと約束したその思いはどこに行ったのか。この教会につながって信仰生活を送り、この教会で神様に仕えて行くと決心し、告白し、約束したその約束は一体どこへ行ってしまったのか。いま世界中で放蕩息子、放蕩娘が増えています。神様に背を向けて、神様から遠いところで生きていこうとしている人が増えています。しかし、父なる神様と主なるイエス様は、その人たちの帰りを待っています。

配偶者や子どもが夜遅くになっても帰宅しない。連絡もない。ただ夜が深まってゆく。親や家族は、心配しながら、祈りながら、ずっと外を眺めながら愛する子どもや家族の帰りを待ちます。わたしの母もそうやって息子や娘の帰りを待っていた、そういう後ろ姿を思い出します。そして自分もそういう年代になりました。何の連絡もないまま、帰ってこない子どもや家族を待つのは本当に辛いですね。教会も同じです。帰ってくるべきところに家族が帰ってこないのは、とても辛いことです。皆さんにもそのような経験はあるでしょうか。

子どもなどは、親の気持ちを考えずに、何度もなんども同じ間違いを繰り返し、日付が変更しても帰ってこない、その度に親は子どもの身を心配し、約束を守らない無責任さに対して怒り、それでも心配し、心の奥底で神様に祈り、そしてひたすら待ち続け、帰ってきたら一言二言厳しく苦言を言って、安全な家の中に迎え入れる。そういうことに無縁でまったく該当されない方もおられるかもしれませんが、そうやって親や家族に心配をかけてきた経験、あるいは親や家族の身分でそうやって心配してきた経験があるかもしれません。

先週の宣教の時に、今朝の宣教のためにネヘミヤ記の9章を事前に呼んでくださいとお願いしましたが、9章5節以降から読んでゆきますと、イスラエルの全歴史が総括されるような形で告白されてゆきます。総括するとは、イスラエル全体の都合の良いことも悪いこともすべて包み隠さずに神様の御前に言い表し、悔い改めるべきことは悔い改め、感謝することは神様に感謝し、主をほめ讃えてゆくということです。

天地万物を創造され、万物に命をお与えになられた主なる神様はカルデアのウルの地で生活していたアブラムと契約を結び、アブラムに与える約束の地でその子孫を夜空の星の数のように増やし、祝福すると約束されました。アブラムはその神様の言葉を信じ、神様はアブラムの信仰を義と認められたと創世記15章に記されていますが、それから後アブラハムは主なる神様に忠実に従い続け、約束を守り続け、神様も祝福の約束を果たされました。真実なる神様は、神様に対して忠実な者を愛し、その忠実さのゆえに祝福の契約を結ばれるのです。

イスラエルの民がエジプトで苦しんでいる時も、神様はその民の叫び声を聞き、様々な不思議と奇跡を行われてエジプトからイスラエルの民を導き出し、海の中の乾いた地を通らせ、荒野では昼は雲の柱、夜は火の柱をもって民を守り導き、シナイ山で律法を授けられました。民が飢えれば天からパンを与えて満たし、渇けば岩から水を湧き出させて潤し、必ず与えると誓われた約束の地に導き入れられました。しかし、9章の16節から37節を読み進めてゆきますと、イスラエルの民は何度もなんども傲慢になり、神様の戒めに聞き従うことを拒み、それまでの神様の真実さと御業を忘れ、神様に対して罪を繰り返します。一回や二回の間違いではなく、何度も繰り返したのです。わたしたちが罪を繰り返すのと同じです。

しかし、憐れみ深い神様はイスラエルを諦めることも、見捨てることも、滅ぼすこともせずに、救いの手を差し伸べ、苦しめる者たちの手から救い出されます。イスラエルの歴史は神様との歴史です。言葉を変えていうならば、信仰を与えてくださる神様と信仰が与えられたイスラエルという信仰共同体の歴史です。イスラエルの歴史は、繰り返し罪を犯し続ける民をそれでも愛し続ける神様の愛と憐れみと忍耐と寛容さの物語です。

民の願いに応じて神様はイスラエルに王を立て、王国を与えます。サウル王、ダビデ王、ソロモン王、それぞれ例外なく致命的な間違い・罪を神様に対して犯しましたが、それでも120年もの間、神様はイスラエル王国を見守りました。ところが、ソロモン王の時代から神様を裏切る行為が始まります。ソロモン王とその後の歴代の王たちが外国の女性を王妃や側室に迎え、彼女たちが祖国から持ってきた偶像を礼拝するようになります。これは紛れもない「浮気行為・姦淫」です。神様に従って歩みますという約束を捨てて、偶像に、虚像に、心の奥底にある身勝手な情欲・欲望を追い求めたのです。その後の王たちも、一部を除いて、夜になっても、朝になっても、いつになっても神様に戻ってきません。王が偶像礼拝をしますから、その民もまねをして偶像礼拝に走ります。王が公然で浮気をするので、民も平気で神様に背を向け、欲望と浮気をするのです。無責任なほどまでに、一方的に約束を破るのです。

皆さんの中には「浮気」という言葉を教会で、ましてや宣教の中で聞きたくないという方、被害者として、あるいは過去の加害者として聞きたくない方もおられるかもしれません。そういう場合は本当にごめんなさい。あなたをこれ以上傷つけたり、苦しめるつもりは決してありません。しかし、その裏切られるという苦しみや痛みや悲しみの大きさを知っておられるでしょう。どれだけ自分や家族の心が傷つき、苦しむのか。裏切った人を許せない。人間不信になって、これ以上その人と信頼関係を継続できなくなる。よく分かります。

しかし、だからと言って、神様の御前で結婚の約束を交わしたあの誓約は一体なんであったのか。神様の定めに従って夫婦になると約束したこと、その健やかな時も、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命の限り、堅く節操を守ることを約束したあの約束はなんであったのか。一種の「パフォーマンス」であったのか。そもそも神様など信じていない中での誓約であったのか。一番悲しまれるのは、他でもない神様ですね。

神様は、そのような悲しい経験を何度もなんども味わわれている。普通なら空しさを感じるでしょう。しかし、それでもイスラエルの民を諦めない、見捨てない、滅ぼさない。神様は、イスラエルの民との関係性をリセットするために、二つの王国に分裂してしまった北イスラエル王国をアッシリア帝国に引き渡し、南ユダをバビロニア帝国にそして後にペルシャ帝国に引き渡し、心の故郷であったエルサレムを、その神殿も城壁も破壊してしまうのです。

主の年2021年を生きるわたしたちに対しても神様は同じです。同じ間違いを繰り返すわたしたちをそれでも諦めない、見捨てない、滅ぼさないで、わたしたちを罪と死の暗闇から救い出し、神様との関係性を正しくするために救い主イエス・キリストをお遣わしくださいました。このイエス様が、神殿や城壁が破壊されたように、十字架に張り付けにされ、血を流し、十字架上で6時間も苦しまれ、心は神様と共にありましたが、体は人間の罪によって破壊されました。イエス様は、わたしたち罪びとの代わりにその命をささげてくださったのです。

この救い主を信じ、従ってゆくと決心し、約束をした人がクリスチャンです。教会の中にはまだその決心に至らない方もおられますが、神様はその方々を待っておられます。イエス・キリストを通して神様と契約を結ぶことを楽しみにしていますが、その決心を強要されません。信仰は、神様から与えられたものを感謝して受ける恵みであって、神様や人から強要されるものではないからです。あなたが神様の愛に気付かされ、神様のもとに立ち返り、神様の愛と赦しと救いのうちに、恵みのうちに生きることを決断し、選びとってゆくことをひたすら待っておられます。信じるか、信じないか、その自由はわたしたちにありますが、信じて、神様に忠実に生きる人を神様は永遠に祝福されるのです。そう約束されています。

今日の聖書箇所であるネヘミヤ記10章は、イスラエルの全歴史を振り返り、先祖たちが繰り返して犯し続けた罪を自分の罪として受け止め、悔い改めた民たちが神様に従ってゆくと再誓約、再び約束をした箇所です。10章1節は、口語訳と新改訳聖書では9章38節になりますが、「これらすべてを顧みて、わたしたちはここに誓約して、書き留め、わたしたちの高官、レビ人、祭司の捺印を添える」と記されています。

「これらすべてを顧みて」というのは、イスラエルの全歴史の中で示された神様のこれまでの憐れみの深さ、神様の愛と忍耐と真実さを心に留める、感謝するということです。この愛の神様に再びつながらせていただく、神様に愛され、神様を愛して礼拝してゆくことを願い、約束をし、捺印をしたネヘミヤをはじめとする高官、レビ人、祭司の名前、数えただけでも84人の名が記されていますが、その誓約で署名捺印ができなかったそのほかの民、祭司、レビ人、その他もろもろの人々がいたことが29節に記されています。この人たちは「この地の民との関係を断って神の律法のもとに集まった人たち、神様の律法を「理解できる年齢に達したすべての者」たちが集まった。つまり、偶像から離れ、自分の意思で神様との新しい契約に生きることを決心した人たち、それを心から望んでおられる人たちという意味です。

彼らは神様に何を約束したのでしょうか。「神の律法に従って歩み、わたしたちの主、主の戒めと法と掟をすべて守り、実行することを誓い、確約」したと記されています。少し前に戻りますが、10章1節に「誓約」という言葉がありますが、これは神様がアブラムと約束を交わした時に用いられた言葉と同じ言葉で、「忠実に生きる」という意味があります。神様がアブラムに対して真実に生きる、アブラムが神様に対して忠実に生きるという約束です。

夫婦になる約束は地上だけでの約束で、天国では夫婦にはなれません。みんなが神様の子、兄弟姉妹です。ですから、この地上でのみの結婚の約束をもっと重んじ、心を尽くして誠実に生きる、諦めないで大切にすべきです。しかし、神様との約束はこの地上だけのものではなく、永遠に続く祝福です。ですから、一時的なことに目がくらみ、神様との約束をないがしろにすること、神様から心が離れるようなことは避けるべきです。

では、どうやってその誘惑を避けるのか。わたしたちを神様に立ち帰らせるために十字架に死んで、わたしたちを罪から解放し、暗闇から光へと移し、再び神様につなげてくださるためにこの地上を歩まれた救い主イエス・キリストを見続け、イエス様から目を離さない、イエス様の声に、イエス様の言葉に聞き従うことです。

しかしこれは一人では大変なことです。ですから、教会という神の家族がわたしたちに与えられています。イエス・キリストに助けられながら、神様との約束に生きる者とされてゆきましょう。そして、神様から与えられている家族と一緒にこれからも歩んでゆきましょう。互いに愛し合い、祈り合い、励まし合い、慰め合い、助け合って、共に神様を愛し、礼拝をささげ、神様の愛を必要としている人々に神様の愛を、イエス様を分かち合ってゆきましょう。その決心を、再決心を今朝神様の御前でいたしましょう。感謝をもって、喜びをもって。