神に従う時に神は

「神に従う時に神は」 五月第五主日礼拝 宣教 2022年5月29日

 詩編 34編16〜23節     牧師 河野信一郎

おはようございます。早いもので5月最後の日曜日の朝を迎えました。今朝もこの礼拝堂に集っておられる皆さん、そしてオンラインでこの礼拝に出席されている皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげできる幸いを神様と復活の主イエス様に感謝いたします。礼拝欠席のご連絡をいただいております方々を覚えて、主の癒し、お守り、憐れみをお祈りいたします。

さて、5月初旬の教会の庭の木々、植物の新緑は心が奪われるほど美しかったですが、ここ数週間の間に緑は深まり、先日の激しい雨にも耐えられる程たくましく成長しています。いつ梅雨入りしても大丈夫だろうと思います。今年の教会の紫陽花は、いつもより小ぶりです。しかし、小ぶりなものが多く与えられていて、だんだんと色づき始めながら、わたしたちを楽しませる準備をしているように感じます。椿やアボカドの木も大きくなっています。お帰りがけには玄関先の花壇や植木鉢をぜひご覧いただき、神様の恵みを喜び楽しんでください。

私は、教会も紫陽花と同じだと思います。教会が大きくても、小さくても、人数が多くても、少なくても、大事なのは神様を心から誉めたたえ、礼拝をおささげすること、賛美と礼拝を通して神様の栄光をこの地上に表すこと、イエス・キリストはわたしたちの救い主、わたしたちの罪の贖いのために十字架に死なれ、三日目に死を打ち破って復活された救い主であると告白すること、それが教会の使命であり、わたしたちの使命です。その信仰告白と礼拝を神様は喜ばれますし、そのためにわたしたちは神様の愛を受け取るように日々招かれており、聖書のみ言葉と祈りを通して、また賛美と礼拝をささげることを通して恵みを受けるのです。

さて、先週は、4月29日に天に召された小坂忠というシンガーソングライター、牧師の生前の力強い証しや賛美やメッセージをユーチューブで聴くチャンスがたくさん与えられました。皆さんは、小坂忠さんをご存知でしょうか。お名前を聞かれたことがあるかもしれませんが、このクリスチャンの先輩、賛美者・小坂忠さん、小坂忠牧師の証しやお話しを聞けば聞くほど、お元気なうちに彼と出会っておきたかったなぁとわたしは強く感じました。

小坂忠という人は、知る人ぞ知る日本のロックというミュージックシーンの草分け的存在、レジェンドです。しかし、そのような人がクリスチャンとして変えられてゆき、日本のキリスト教会に賛美と礼拝の改革をもたらそうと日本各地を飛び回り、日本初のクリスチャンのレコード会社を設立し、新しい日本語の賛美をたくさん作り、それを賛美しながら日本の教会に紹介するゴスペルの先駆者となり、そして引率者となってゆきます。夕礼拝では長沢崇史牧師が作られた賛美をよくささげますが、長沢牧師も小坂忠牧師から影響を受けた人です。

この小坂忠牧師は、新しい日本語の賛美を通して日本のキリスト教会に変革を与えたいと願いながら、祈りながら、全国を駆け巡りました。各地で主を賛美しながら、いろんな人達を巻き込みながら、44年間ずっと活動をご夫妻で続けてきた方でした。この小坂牧師が事あるごとにこう言うのです。「わたしたちの礼拝は神様への生きたささげものであって、神様から何かを受ける時と場所でもなければ、恵みを受け取ることが礼拝の目的ではない。神様への感謝と喜びと愛をささげることが礼拝の真の目的であり、礼拝の主語はいつも神様、イエス様であって、わたしたちではない。しかし、日本のキリスト教会の礼拝の現状は主語が人になっていて、神様の愛と赦しと癒しと恵みを受けることが目的となっている」と。

つまり、「キリスト教会に集う日本の人々の多くは、神様に賛美と感謝をささげる礼拝のために教会に来るのではなく、神様から憐れみや癒しや赦し、平安、恵みを受けようとして来る人が多いので、どうしても内向きに、消極的になってしまい、神様の愛と赦し、イエス様の福音を喜びと感謝を持って、能動的に、積極的に分かち合わなくなっている。それゆえに、本来なら神様に愛され救われている喜びと感謝と賛美で溢れているはずの礼拝が、お葬式のような静かで堅苦しい、息苦しいものになっている。主に新しい賛美をささげよと詩編に何度も命じられているのに、何百年前に作られた賛美ばかり歌ってささげている、それって本当に神様の御心であろうか、神様が求めておられる事だろうか」と問い続けた人生でした。

わたしたちはどうでしょうか。わたしは、礼拝を「守る」とか、礼拝に「与る」というように、どこか「受け身」になってはいないでしょうか。礼拝は、神様へのささげもの、自分自身を、心をささげる時、チャンスであるという大切なこと、一途に励むべきこと、恵みの時を忘れてしまい、神様の愛と憐れみを受けることが礼拝の目的になっていないでしょうか。

わたしたちの心がどうしても受け身になってしまうのは、それほど日々の生活が大変困難であるからだと思います。いろんなことに思い悩み、苦しみや痛みに翻弄され、疲れてしまうからでありましょう。しかし、同時にこういうように言えると思います。つまり、そんなに思い悩み、苦しみ、疲れるのは、自分の知恵と力に頼りすぎてしまい、神様に信頼しきれていない、委ねてきれていない、イエス様と共に歩ませていただいている恵みを忘れているからかもしれません。しかし、そのようなわたしたちを「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と主は招いてくださいます。

礼拝をささげたから、その顧みとして神様の愛と憐れみが与えられるのではなく、イエス・キリストを通して神様の愛と憐れみ、赦しと救いはすでに豊かに十分すぎるほど与えられているので、わたしたちは神様に賛美と礼拝をおささげし、そのわたしたちの心を神様は喜ばれ、さらなる愛と恵みをわたしたちの心に豊かに注いでくださる、まず神様の愛があり、わたしたちの賛美と礼拝があり、そして神様のさらなる祝福がある。そういう流れになっていくことが健康な信仰、健康な教会のあり方であり、豊かな実を結ぶのだと信じます。そういう信仰がわたしたちのうちに形成されていくように、そのような教会として建て上げられてゆくために、まず主なる神様の恵み深さを一緒に味わいたいと心から願っています。すべての祝福の源は神様です。すべての恵みは神様から始まり、神様で終わります。

この恵みを受け取るために必要なこと、それは心を神様に向けて開くことです。わたしたちにたくさんの恵みの雨が注がれているのに、わたしたちは心をコンクリートやアスファルトで覆ってしまい、すべての恵みをはね除けてしまいます。それはとっても勿体無いことです。ですから、最初は難しくても、少しずつ心を神様に開いてゆくとき、神様の愛と恵みが心に注がれてゆき、神様の愛の素晴らしさ、恵みの豊かさを味わうことができます。

この5月は、年間聖句である詩編34編を4つに分けて、年間標語である「主の恵み深さを味わおう」ということ、どうやったら神様の恵み深さを味わうことができるかということをご一緒に聴いて来ました。今日はその最終回です。過去3回にわたって様々なことをお話ししましたが、たとえ日常生活が大変で忙しく、疲れを覚えるような時でも、困難な状況の中に置かれても、主なる神様の恵み深さを味わうことができる秘訣をダビデという人が歌った詩編から聴きました。少し駆け足でおさらいしたいと思います。

神様の恵み深さ、憐れみ深さを味わうためには「受け身」になってはいけない、遠慮もしてはいけない、もっと能動的に、もっと積極的に主に求めてゆかなくてはならないことがこの詩編34編から聞こえて来ます。わたしたちには積極的になるか、消極的になるか、それともその中間をゆくか選択する自由があります。消極的であれば何も得られません。中道を行こうとすれば、確かに追い求めることはできますが、消極的な部分が肝心な時に働いて多くを逃してしまうということがあります。しかし、積極的であれば、すでに心構えができていますから、いつでも、どのような状況下でも恵みを受け取ることができます。

ダビデという人は、長年忠実に仕えてきた王から妬まれて命をつけ狙われるという経験をし、何もかも捨てて逃亡生活をし、身の危険を察知した時には気が狂った人を演じることもはばからない、そういう大変なことを何度も経験した人でした。しかし、ダビデは神様への信頼だけは絶対に手放さなかったのです。そして人生のどん底で神様の真実さ、主なる神様の恵み深さを体験して行ったのです。彼は、実体験を通して、どのような人が神様の愛と恵み深さを体験できるのかを体得し、それを自分のものだけにとどめるようなけち臭いことはせずに、歌をもってイスラエルの国民に、そして今日を生かされているわたしたちに分かち合ってくれるのです。それほどまでに神様の恵みが大きく、広く、深く、高く、掛け替えのないものであったことがこの詩編34編全体から聞こえて来ます。

ダビデは以下のような人が神様の恵み深さを味わうことができる、そして恵みを味わう美しい流れがあるとわたしたちに教えてくれます。まず、2、3、4節ですが、「主なる神様を賛美する人、たたえる人」がその人だと言っています。神様という存在を認め、賛美と礼拝をささげる人と言えるでしょう。また、3節には「賛美を聞く人たち」も主の恵みを味わえると言っています。わたしたちの賛美、礼拝、信仰告白、証しを通して、神様の愛、恵みが必要な人たちにも分かち合われてゆくということです。

5節と11節になりますが、「主に求める人」に主は答えてくださるとダビデは言っています。聖書はいたるところで「主に求めよ」と励ましてくれていますが、心を頑なにしたままでは恵みを受けることも、恵み深さを味わうこともできません。また、フィリピ2章21節で使徒パウロは、「他の人は皆、自分のことを求めるだけで、イエスのことは求めていない」と言い、主を求めることが恵みを味わう一歩であると教えています。

6節では「主を仰ぎみる人」は光と輝き、つまり救いが与えられると言われています。7節には「主を呼び求める人」、「貧しい人」の声を主は聞き、苦難から救い出してくださるとありますが、この「貧しい人」とはへりくだって神様を求める人であり、「呼び求める」とは心を注いで祈るということです。8節と10節には「主を畏れる人」を神様が守り、助け、すべての必要を満たしてくださるとあります。これはダビデがいつも経験していたことです。主なる神様を畏れること、それが知恵の始まりであり、恵みを受ける始まりです。

9節の「味わい、見よ、主の恵み深さを」という言葉にわたしたちが能動的に、積極的に、遠慮せずに前進して受けてゆく信仰の姿勢が記され、そのように生きなさいと招かれています。そしてもう一つ、主の恵み深さを味わうためには、神様の御もとに身を寄せてゆく必要があることが示されています。私は、神様の懐に抱かれてゆく必要があると聞きます。幼子のように、神様に信頼を寄せ、身も心も委ねてゆく、その時にわたしたちは神様の恵み深さを体験することができるのです。

12節から15節は先週ご一緒に聴いた部分ですが、日々喜びを持って生きる、つまり生きる意義や目的、生きがいをもって生きるということであり、それが幸いである、主からの恵みであるということです。そして喜びを持って生きるためには自分の心をまず神様に委ね、口と舌を慎み、悪から離れて御心を、平和を求めなさい、そこに恵みがあると記されています。

さて、16節から23節の最後の部分です。ここには神様を畏れ、敬い、主に信頼する者に約束される祝福が記されています。神様に従う時、神様は何をしてくださるかが記されています。17節と22節に主を畏れない人たちのことも記されていますが、そういうことはわたしたちにはどうでも良いことなのです。何故なら、そのような人たちは自分が撒いた悪で自滅するか、主なる神様の正義がなされるからです。わたしたちが怒ったり、憤慨しても、自分の心が疲れ果てるだけで、信仰のバロメーターが下がります。ただ主なる神様にお委ねするのです。

「16主は、従う人に目を注ぎ助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。18主は助けを求める人の叫びを聞き苦難から常に彼らを助け出される。19主は打ち砕かれた心に近くいまし悔いる霊を救ってくださる。20主に従う人には災いが重なるが主はそのすべてから救い出し、21骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる。23主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は、罪に定められることがない。」

主なる神様はわたしたちを知っておられます。いつも共にいて、わたしたちの心の叫びを聴いてくださっています。救いの道を常に備えてくださり、いつも守り導いてくださっています。「主に従う人には災いが多い、重なる」とありますが、信仰を持てば災いがなくなるのではありません。信仰は与えられる恵みで、信じる者、わたしたちには災いを克服できる道が憐れみの主によって備えられているから大丈夫なのです。

23節に「主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は、罪に定められることがない」とあります。主イエス様がわたしたちを贖ってくださったゆえに、わたしたちは罪から解放され、恵みのうちに生かされているのです。

まず主なる神様を賛美し、礼拝をおささげするのです。一緒に心を合わせて祈るのです。主に信頼するのです。主イエス様を証しするのです。それは、すでに恵みを受けているからであって、これから恵みを受けるためではありません。イエス様を通して神様に愛され、罪赦され、平安と希望、憐れみと恵みのうちにすでに生かされているからです。感謝ですね。