神の僕として生きる

「神の僕として生きる」   9月第二主日礼拝 宣教     2018年9月9日

ローマの信徒への手紙6章15節〜23節       牧師 河野信一郎

私たちはローマの信徒への手紙を読み進めていますが、先週は6章12〜14節から宣教をさせていただきました。

私たちがキリスト・イエスと共に罪に対して死に、憐れみによって救われ、キリストに結ばれ、恵みのうちに今生かされているのは、何のためであるかを聴きました。そのような中で、主イエス様によって新しい命に生かされている者として3つのことを心がけて生活しなさいという励ましをパウロ先生を通して神様から聴きました。

第一の励ましは12節です。「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません」とあります。

罪から解放されて生きる新しい命に生きるためには、「体の欲望に従うことがあってはならない」、つまり自分の欲望、情欲に支配されてはならないということであり、そうならないために自分の欲望、欲情を主イエス様に明け渡し、自分のために生きるのではなく、神様のため、隣人のために生きることができるように祈り求めてゆくことだと示されました。

第二の励ましは13節前半です。「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません」とあります。第一の励ましに似ていますが、12節は私たちの心のことを言い、13節では私たちの体のことを言っています。そして、このパウロ先生の言葉を裏返しにしますと、「あなたがたの体を義のための道具として、神様のご用のために用いなさい」と励まされています。

そして神様のご用のために、用いられるために大切なことが第三の励ましとして次のように勧められています。「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」と。神様に用いられるために重要なことは、自分を「献げる」ということです。しかし、全てを献げることはとっても難しい。しかし、半分で良いと言われても、半分も難しいでしょうし、10%と言われても難しいと思うのが私たちです。

しかし、それでもパウロ先生は「神に献げなさい」と私たちを励まします。

私たちに大切なのは、いつまでも「難しい」、「無理」、「そんなことはできない」と言い続けることは止めて信じるということ、そしてイエス様を見上げるということだと聴きました。

パウロ先生は14節で、「罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にいるのです」と言われます。

私たちは、恵みの下に置かれています。そしてその恵みの下から上を見上げると、何が見えるでしょうか。私たちを救うために十字架にかけられているイエス様が見えないでしょうか。

私たちを恵みの下に置き、新しい命に生かすために、主イエス様が十字架上でその命を献げてくださったこと、与えてくださったことをいつも覚えて従うことが、新しい命に生きることだと私たちは聴きました。

今朝は、6章の15節から23節をテキストに聴いて参りますが、この箇所は1節から14節までの続きでありますので、共通点も多くあります。

1節から14節までのテーマは、イエス・キリストを信じ、神様の恵みに生かされている者は皆、罪と死から解放されている、自由が与えられているということがテーマでしたが、15節からは「奴隷」ということがテーマとなっています。

私は、教会前の看板やフェイスブックで今朝の宣教主題を載せる時、「奴隷」という言葉を記すことに躊躇しましたので、「僕」とい言葉に置き換えましたが、今朝の聖書には、「罪の奴隷」と「神の奴隷」ということがテーマとして掲げられていて、パウロ先生は「罪の奴隷」であったあなたがたが今やキリスト・イエスによってどのような幸いな身分を授けられているか、よく考えなさいと励ます箇所です。その幸いな身分を「神の奴隷」とパウロ先生は言うのです。

16節をご覧ください。「あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従って仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」とあります。

「キリスト教はこのように極端に考えるから日本人の肌に合わないんだ。もっとハイブリッド的に生きるべきだ」と言う声をよく耳にしますが、パウロ先生はそのような声に対して、「キリスト共に罪に死に、キリストと共に新しい命に生きる者がどうして罪の中に生き続けることができるでしょうか。恵みの下にいる者がどうして罪を犯して良いでしょうか」と言います。

私たちがもしまだ罪の下に歩むことを求めるのであれば、私たちはキリストと共に罪に死んでいないことになり、新しい命に生きていないことになります。罪の奴隷であるか、神の奴隷であるかのどちらかだとパウロ先生は断言します。

しかしその直後に17節でパウロ先生は、「しかし、神に感謝します」と感謝を表しています。

それは、神様が優柔不断な私たちをも愛してくださり、一方的な憐れみをもって私たちを罪の奴隷の状態から解放し、義に仕える者とイエス・キリストを通してしてくださったからとパウロ先生は言うのです。

17節後半で、「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れるようにされ、それに心から従うようにされ、罪から解放され、義に仕えるようになりました」と言っています。

全ては、神様の愛から始まったことで、教えの規範であるイエス様を信じ、従うように導かれ、神様のために仕える僕とされたと言うことです。

19節では、今まで罪のために用いてきた心も体も、これからは神様のために献げ、神様に喜ばれる「聖なる生活」を送りなさいと強く勧められています。

パウロ先生がこの15節から23節の中で最も言いたいことは、神様に従順に生きると言うことです。罪の奴隷であった時は、罪に従順に生きたように、神様の僕とされた今は、神様に、主イエス様に従順に従い、自分を献げなさいと言う励ましです。

21節で、あなたがたは「罪の奴隷であった頃、どんな実りがありましたか。今から振り返ればとっても恥ずかしいこと、虚しいものを結んでいませんでしたか。その行き着く所は死に他ならない」と言います。

そして、22節では「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷、僕となり、聖なる生活の実を結んでいます」、引き続き、その聖なる実を結び続けなさいと励まし、その生活の「行き着く所は永遠の命です」と励ましてくれます。

罪の報酬は死ですが、私たちは主イエス・キリストを通して神様に救われ、神様から永遠の命を賜物として受けることが確約されています。

私たちに大切なのは、神様の僕として神様には忠実に、隣人には誠実に、自分には信実に生き、神様の喜ばれる実を可能な限りたくさん結んでゆくことです。主を信じて、従って参りましょう。