神の声を聞く時 あなたは

「神の声を聞く時 あなたは」 ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝 宣教要旨 2017年6月4日

  ヘブライ人への手紙3章7〜15節       牧師 河野信一郎

 ペンテコステは、主イエスの代わりとして神から遣わされた神の霊・聖霊の降臨と、キリストを信じて従っていた者たちがこの聖霊によって力が注がれ、キリスト教会が誕生したことを喜び祝う日です。

 聖霊がキリスト・イエスを信じる者たちに与えられた理由は、主と崇めていたイエスを天に送った後の弟子たちを慰め、励まし、キリストの福音を宣べ伝えるために雄々しく、大胆にするためでした。「神は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を私たちにくださったのです」と使徒パウロは第二テモテ1:7で言っています。また、それぞれに違いのある私たちキリスト者を一つの信仰共同体として組み合わせ、教会として建て上げるためです。

 つまり、社会の荒波にもまれ、試練の中に身を置く私たち、重荷や弱さ、悩みや痛みを抱えている私たちにイエスの霊である聖霊が寄り添い、「大丈夫だよ。わたしはいつも共にいるよ」と励ますためです。弱さや痛みの中にあっても、その弱さの中で真の強さを持たせるため、バラバラになった心を一つにし、同じ使命・目的のために生かすために、神はご自身の霊・聖霊を与えてくださったのです。今、その霊を受取りなさいと差し出されています。ですから、一緒に受取り、主につながり、主と共に歩んでゆきましょう。その時、神は私たち一人一人に、生きる力、意味、目的、役割、使命を与えてくださいます。

 イエス・キリストの弟子たちに神の霊が吹き込まれた時、彼らは今までに体験したこともない大きな力に満たされ、イエスこそ救い主・メシアであると大胆に告白し、宣言し、宣教しました。当時の一部始終が使徒言行録2章に記されています。そこには、聖霊に満たされた弟子たちを代表して宣教したペトロの説教が記され、またその説教を聞いた人々の心のリアクションが明記されています。特に、37節には、「人々はペトロの話しを聞いて大いに心を打たれた」と記されています。あなたは最近、大いに心打たれた事、感動したことがあるでしょうか。

 私たちには、それぞれ心打たれる事もあれば、まったく感動しない、心が反応したことがあります。自分に興味のないこと、関心のないことであれば、心はまったく動きません。同じもの、現象、音楽などを聞いても感動する人とそうでない人がいます。そういうものなのだと思います。しかし、もしかしたら、心打たれない、感動しない原因が他にあるのかもしれません。例えば、心が疲れている。心配事で心が一杯。心が弱っているから。心が凝り固まっているから。それほどまでに日々、重荷を負い、ストレスを感じ、苦しみ悶えていて、心が窒息状態なのかもしれません。孤独と戦っているからかもしれません。もしそのような心の状態であれば、イエス・キリストをすぐに求め、この方に助けを求めてほしいです。そして、この主イエスの声に、言葉に耳をすませてほしいです。

 主イエスは、私たち一人一人に、「わたしはあなたを愛しているよ。あなたはわたしにとって大切な存在。わたしはあなたといつも共にいるから大丈夫。心配ないよ。わたしを信じなさい」と風がそっと頬をなでるかのように、いつも優しく私たちの心に語りかけてくださいます。ですから、すべての重荷やからみつく罪をかなぐり捨てて、主イエスを信じて従ってほしいと心からお勧めします。主イエスは、必ずあなたを顧み、助けてくださいます。新しい目的、生き甲斐を与え、新しい人生へと導いてくださいます。

 今回の聖書箇所は、一見、ペンテコステの日には何ら関連のないように感じられるかもしれませんが、実は大有りです。何故ならば、神の霊である聖霊が7節からこのように語りかけるのです。「今日、あなたがたが神の声を聞くなら、荒野で試練を受けた頃、神に反抗した時のように、心を頑なにしてはならない」と命じるのです。この言葉は、15節にも記されていますから、神のご意志としてとっても大切なことであることは明らかです。そしてここから3つの大切なことを聞いてゆきたいと思います。

 第一に、「神の声を聞く」ということです。神は、私たち一人一人に個人的に語られます。イエス・キリストを通して語られます。イエス・キリストは神の言葉、神の声でありますから、この主イエスに聞いてゆくことが私たちに求められています。

 第二に、「今日」、神の声、言葉に聞いてゆくことです。明日でも、来週でも、来月でもない、今日!! 心と時間に余裕がある時とか、都合の良い時だけ、また窮地に立たされた時だけでなく、「今日」という日に聞くこと。この日のうちに聞く事が求められています。「今日」語られているのですから、今日、聞くのです。「今日」、私たちに必要な命の糧であるから、「今日」受けるのです。先延ばしにしてはいけないのです。

 第三に、「心を頑なにしない」ということです。「心を頑なにしてはいけない」ということ。しかし、そもそも何故、私たちの心は頑なになってしまうのでしょうか。どうして柔らかな状態でいられないのでしょうか。その理由が8節に記されていて、大きく2つの理由があることに気付かされます。

 一つは、「荒野で試練を受ける」から。もう一つは「神に反抗」するからです。

 私たちも日々、家庭や社会の中で試練を受けますが、ヘブライ書12章では「その試練は神の鍛錬であるから忍耐しなさい」と励まされています。「試練は神の鍛錬、だから忍耐しなさい」と言われても前向きに捉えられないのが私たち人間で、私たちは悲観的に捉えてしまうわけです。ですから、心の重荷として捉え、嘆き悲しむのです。そしてそのような中で心が弱り、果てに頑なになってしまうのです。

 「神に反抗する」ということですが、具体的なことをお話しして説明したいと思います。私たちを造られ、生かし、愛してくださっている神は、私たち一人一人をそのまま受け入れて下さり、私たちの存在を喜んでくださいますが、当の私たちは、すべての人ではありませんが、自分自身を受け入れられない、喜べない、つまり自分の境遇などを受け入れる事も喜ぶ事もしないということがあります。あるいは、昔は良かったが今は最悪と思っている人もいるのではないでしょうか。エジプトの苦役から解放され、モーセに導かれて約束の地へと旅を始めたヘブライ人たち(ユダヤ人)は、荒野で食べ物や飲み水が無くなり、飢え乾きを覚えた時につぶやき、エジプトにいた時のほうがましだったと言いました。現状と過去を比べて、つぶやいたのです。

 私たちも幼いころから人と比較されたり、人と自分を比較して生きてきました。兄弟、学生、同僚と比べられたり、自分で比べてみる。性格、容姿、成績、学歴、仕事、収入、家柄など色々なことを比べます。神が「あなたは素晴らしい」と言って下さっているのに、「自分はここがダメ、あそこもダメ」と思ったり、人に比較される中で優越感、劣等感を味わい、苦しむのです。希望がもてないのです。人と比べる事、比較することは私たちの弱さであり、神に反抗することであり、罪なのです。私たちは、自分のありのままを愛して下さる神の声を聞かないで、他人と自分を比べてしまうから悩み、苦しみ、心が頑なになってしまうのです。それは神の御心ではありません。ですから、そういうこと一切を捨てて、今日、神の愛の声、キリストに聞き、信じ、すべてを委ね、従いなさいと招かれているのです。信じましょう、救い主イエス・キリストを。従いましょう、主イエスに。