神の子、相続人としてくださる神

「神の子、相続人としてくださる神」  10月第二主日礼拝 宣教     2018年11月4日

ローマの信徒への手紙8章14節〜17節       牧師 河野信一郎

今朝もご一緒にローマの信徒への手紙を読み進めてまいりたいと思いますが、今回は、8章14節から17節を通して、私たちがほめたたえている神様とは、私たちを神の子、また相続人としてくださる神であられるということを聴いて行きたいと願っています。

今朝は8章ですが、その前の6章と7章は重要な箇所です。

6章のテーマは、イエス・キリストを救い主と信じる者は皆、「罪と死から解放され、新しい命が与えられている」、つまり「罪の奴隷という身分から解放され、キリスト・イエスを通して神様から新しい命に生きる自由が与えられている」ということです。

そして、7章のテーマは、「イエス様に従うクリスチャンは、ユダヤの『律法』からも解放されていて」、「律法の呪縛から、罪から解放された者は、自由が与えられ、新しい命に生かされている」ということがテーマで、「だからこそ、その大いなる恵みに応え、神様に従い、日々従順に生きなさい」という励ましが記されています。

イエス・キリストの十字架上における贖いの死、その命の犠牲によって、私たちは罪とその報酬である死から解放され、律法・法律からも解放されているから、これからもずっとイエスさまにつながり続け、神様の愛のもとで自由に生きなさいということがパウロ先生が私たちに伝えたいことです。

さて、今朝の宣教の導入として1860年代のアメリカの歴史を少しお話ししたいと思いますが、共和党のアブラハム・リンカーンが1860年に第16代大統領に当選すると南部の諸州が61年に合衆国から離脱し、南部連合を結成して北部を攻撃、その後4年にわたる「南北戦争」が始まります。そして1865年の北部軍の勝利で合衆国の統一が維持され、奴隷制度廃止も達成されます。

この奴隷制度廃止に伴い、アフリカ系アメリカ人たちは長年の過酷な奴隷生活から解放され、彼らを縛っていた法律からも解放され、自由を得たかのように見えましたが、奴隷制度廃止で一番困ったのは、解放されたアフリカ系アメリカ人たち本人でありました。法律の上で身分は自由の身になっても、すさまじい人種差別は南部で続き、動物のように扱われます。唯一戻れる場所はアフリカ、でもそこへももう戻れません。お金がありません。働く場所も、生活する土地も、家族と共に幸せに生きてゆく術も安全もありません。ですから、奴隷制度は廃止されても、ずっとずっとアフリカ系アメリカ人の皆さんは苦しみ続けたのです。ある人たちは社会と未来に失望し、自ら命を絶ったり、犯罪に手を染めたりします。そして2018年になった今でも、彼らが苦しみ続けている闇の部分がアメリカ社会にはあるのです。当時のアメリカ政府は、アフリカ系アメリカ人たちを解放はしたものの、あらゆる危険から彼らを守り、彼らに平等と安全な生活を保証し、彼らが安心して生きられる基盤を確立する政策を打ち出すことができなかったのです。

パウロ先生は、ローマにある異邦人クリスチャンたち、ユダヤ人クリスチャンたちに、「あなたがたは救い主イエス・キリストの十字架の贖いの死と三日目の復活によって、罪と死と、そして律法から解放され、自由の身になったのだ。」と確信に満ちた言葉を書き送ります。

この確信は、1860年代以降、アフリカ系アメリカ人たちを差別と困窮から守ることができなかった白人アメリカ政府の理念とは次元のまったく違う神様の愛に根ざした確信です。

罪の奴隷の身分から解放されても、どこか安全な場所につながっていなければ不安は日々募るばかりです。どこかに属していなければ、安全ではありませんし、安心して生活できません。

奴隷の身分から解放されたアフリカ系アメリカ人の人たちは、白人アメリカ社会のどこにもつながること、属することができず、ずっと傷つけられ、痛み続け、苦しみ続けました。

イエス・キリストを救い主と信じる者の心に神の霊が与えられ、この神の霊である聖霊によって私たちは導かれるのですが、この「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」とパウロ先生は14節で宣言します。つまり、イエス様につながることで、神の子としての身分が恵みのうちに与えられ、神様に属する、英語ではBelongという言葉が用いられますが、罪の奴隷であった私たちが、主イエス様の贖いによって罪赦され、神様の家族の一員として認められ、一員の一人として数えられる祝福に与るようなります。

祝福についてこのように記されています。15節をご覧ください。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」とあります。

神様から与えられた霊によって、私たちは神の子として生きる力と自信、知恵と勇気、平安と希望が与えられ、罪の奴隷として生きている間に持っている恐れや不安、痛みや悲しみ、憎しみや虚しさから解放され、喜びと感謝で満たされるのです。

祝福はそれだけではありません。16節をご覧ください。この神様の霊を受けて、聖霊に満たされ、励まされ、うながされて初めて、信仰と確信を持って、感謝を持って、心から神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことが主の憐れみのうちにできるのです。イエス様を通して神様に属しているので、また聖霊が一緒になって証をしてくださるので、私たちはためらうことなく、恥じることなく、臆することなく、神様を「お父さん!」と呼ぶことができるのです。救い主イエス様も、いつも共にいてくださるご聖霊も、すべて神様の憐れみであり、恵みの贈り物であり、決して私たちにそれを受ける資格があるからではありません。

私たちが陥りやすい間違いは、自分はそれを受ける価値がない、神様は私のような者には目をとめられないだろうと思い込んだり、諦めてしまうことです。そのようなことをしてはいないでしょうか。今までの人生の中で、苦労して、傷つけられすぎて、無視され続けて、苦しみ続けて心も身体も弱り果ててしまって、希望を抱けないという方はおられないでしょうか。しかし、私たちは簡単に諦めても、神様は私たちを諦めない、見捨てない、愛し続けてくださるお方です。ですから、イエス様を救い主としてお遣わしくださったのです。だから、私たちには希望があり、救いがあるのです。

さて、神様の子としての身分が与えられた者は、同時に「相続人」であると17節でパウロ先生は言います。ギリシャ語の「神の子とされる」という言葉は、「養子となる」という意味です。身寄りのない人を引き取るとか、採用するという意味でもあります。

日本という国は、「養子」に関して世界の諸国とは違った考え・社会感覚があるようです。これは外国の社会学の専門家から聞いた話ですが、2014年度の統計を見ますと、日本で養子縁組がなされる件数は世界諸国から比べると非常に少ないそうで、少ないだけでなく、特に小さな子どもが養子となって養父母に引き取られてゆくのは養子縁組全体のたった2%で、後の98%は成人男性が養子となって家に入るケースだそうです。皆さんも「婿養子」という言葉を聞かれると思いますが、結婚相手の女性の家に婿として、また養子として入って、その家の事業や財産を相続するということが日本では養子縁組の98%だそうです。

その良い例が自動車メーカーのスズキです。この会社には婿養子が経営する伝統があります。織機製造の町工場からスタートし、オートバイ、軽自動車、インドで乗用車のトップシェアを占めるまでに飛躍したのは、経営が優秀な婿養子に引き継がれてきたことにあるそうです。

調べてみますと、婿養子経営は江戸時代から大きな店で行われてきた継承法で、血縁よりも、店の、ビジネスの継続がなによりも大事という商人の考えから、娘婿という養子制度が生まれたそうです。

しかし、神様は、ご自分のビジネスよりも、ご自分の体面よりも、私たち一人ひとりのことを愛し、大切にしてくださる方です。私たちに永遠の祝福を与えるために、私たちを救いへと招き、イエス様を信じる者を神の子としてくださるのです。

私たちが主イエス様を通して相続するのは、大きく分けて2つあります。一つは神様が用意してくださっている天国での祝福:永遠の命、祝福、宝です。

もう一つはこの地上で相続するもので、罪の世界の中で生きるので、苦しみを伴うものです。それはイエス様の十字架と復活を証しし、神様の愛を宣べ伝える働き、イエス様と同じようにこの世に仕えるという働きです。そしてそのように忠実に生きようとしたのがこの手紙を書き記し、ローマにあるクリスチャンたちに送ったパウロ先生です。

この地上では戦いがあります。決して楽ではありません。サタンが巧みに誘惑してきたり、激しく襲いかかってきます。それを今回公開された映画の中で観ることができるのではないでしょうか。しかし、パウロ先生は17節の後半でこのように言います。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるから」と。「キリストと共に」とあります。つまり、私たちは一人になっても独りではないということ、イエス様が共にいて、共に苦しんでくださる、悩んでくださる、共に涙を流してくださる、共に祈ってくださる、いつでも必ず一緒だということです。どうして、それほどまでに私たちをイエス様は愛してくださるのでしょうか。どうして十字架上で苦しみ、その命を捨ててくださったのでしょうか。それは、父なる神様がそれほどまでに私たちを強く深く愛してくださっているからです。私たちに必要なのは、この神様の愛に「はい」と答えて受け取ってゆくこと、神様の愛に、イエス様の十字架と復活に救いの確信を持ち続け、いつも喜び、絶えず祈り、全てに感謝して生きてゆくことです。すべては、神様の愛、憐れみです。恵みです。感謝して、神様をほめたたえて参りましょう。