神の子として神に愛されているから

「神の子として神に愛されているから」 八月第四主日礼拝 宣教要旨 2016年8月28日

ヨハネの手紙一 2章28節〜3章10節       牧師 河野信一郎

8月は「平和月間」として過ごし、世界平和のシンボルであるオリンピックに熱中しましたが、そのリオ・オリンピックも無事終わりました。わたくしも夏期休暇から戻ってきて、現実に引き戻されました。「平和! 平和!」と叫び、平和を希求しても、心が平和・平安でなくなる凶悪な犯罪やテロや紛争が世界中で起り、日本でも心痛める犯罪や事件、大きな台風や地震が続きます。身近なところでも、病気やケガ、身体的衰え、仕事や育児や介護の疲れ、人間関係のもつれ、貧困、将来への不安などで心はストレスでいっぱいです。置かれている現状はたいへん厳しく、現実逃避したくても出来ないでもがき苦しむ私たちです。

しかし、何故か周囲の人々がとても幸せに見えてしまい、他人の幸福を妬んでいる自分に嫌気がさす。積もり積もるのは心への負担、ストレスだけ。そういうこと、あなたにはないでしょうか。心が嵐のようになったり、怒りや不満で満たされ、今にでも爆発してしまう状態。そういう状態を聖書は「闇」と呼びます。この闇の要因は2つあると聖書は教えます。

一つは、私たちの内にある「罪」という要因です。「罪」とは、神という存在を無視し、自分のことを何にもまして愛し、神の持ち物を自分の力で得たかのように平気でむさぼること。自分や人の力・知恵に頼り、有限な富や健康や時間だけを信じてしまうことです。

もう一つは、神の存在を否定し、私たちを神に近づけないように、また引き離す力(フォース)です。聖書は、その力を「悪」とか「サタン」と呼びますが、サタンとは「惑わす者、つまずかせる者、引き離す者、誘惑する者、幻覚を見せる者」という意味があります。これらの要因によって、私たちの心は疲れを覚えたり、傷ついたり、弱り果てます。そのような心は周囲の人々の心にも負担を負わせ、惑わし、傷つけたりしてしまいます。

しかし、そのような私たちを神は片時も忘れることなく、見捨てることもなく、「わたしはあなたを愛している。わたしのもとに帰ってきなさい」と愛を宣言し、招いてくださいます。この神の愛の宣言を聞いて信じ、神に立ち返る時、私たちの心は神の愛で満たされ、癒され、見失っていた自分に再会し、生きる目的が与えられて喜びで満たされます。

3章1節に「御父がどれほど私たちを愛して下さるか、よく考えてみなさい」と促されています。私たちの多くは両親や家族、友人や恩師の愛を体験して知っています。ある人はそのような愛を知らないまま、あるいは愛と反対のものを受けて生きて来られたという方もおられるかもしれません。そのために苦労を人一倍し、多くの深い傷を負っておられるかもしれません。しかしながら、すべての人が神によって、神の愛で愛され、「あなたはわたしの子だ」と宣言されているのです。これは私たちに対する神の「愛の告白」です。

神がわたしを愛しているのであれば、その愛を目の前で証明してほしいと切に願い求める人もおられるでしょうが、聖書はその神の愛はイエス・キリストによって示され、十字架上で明確に示されたと伝えています。イエス・キリストが闇の中から私たちを救い出すために何をしてくださったかを福音書から知り、信じ、悔い改めなさいと招いて聖書は招きます。

神は私たちの罪の代償として神のひとり子イエス・キリストを十字架に付けて下さるほどに愛して下さっています。どれほどまでに大きな犠牲を神が支払ってくださったかをよく考えてみなさいと1節で促すのです。人に頼らず、自分で聖書を読み、自分でよく調べ、よく考えてみなさいという促しです。私たちが今日手にしている聖書は、神からのラブレターです。この愛の手紙に、神が私たちをどれほどまでに愛してくださっているか、また私たちが何者であり、何のために生かされ、何をなして生きてゆくべきかが全て記されています。

繰り返しになりますが、神に愛されていることに気付かされ、その愛を心に素直に受け取る時、私たちの心は癒され、失っていた尊厳と自身と自信が回復し、新しい力、生き甲斐、明確な目的が与えられて生きてゆくことができます。

このストレスの多い時代に私たちは生きていますが、それでも前を向いて生きてゆく方法、道があります。それはイエス・キリストを救い主と信じ、この救い主と共に生きる道です。2章28節にもあるように、この主イエスから離れずにとどまり続ける時、神の愛をいつも感じ、日ごとに新しい力(愛と喜びと平安)が心に注がれ満たされます。

3章2節と3節に、「わたしたちは今すでに神の子ですが、これから自分たちがどのようになるかまだ示されていませんが、このキリストに望みを置く人はみな、主イエスが清いように、自分を清めようとする」とあります。主イエスがすぐ傍におられたら、私たちは間違ったことをせず、反対に主が喜ばれることをしようとします。それが清められてゆくということであり、罪を犯さないで、神の喜ばれる良い実を結ぶということです。

5節に「あなたがたも知っているように、御子イエスは罪を除くために現れました。御子には罪がありません」とあり、6節には「御子のうちにいつもいる人は皆、罪を犯しません」とあります。いつも主イエスを近くに感じる時、私たちは罪を犯そうと考えることもなく、また主が守り、励まして下さるので、罪を犯すことがなくなるということです。ですから、重要なことは、主イエスをいつも近くに感じて、いつも傍にいてくださるように求めるのです。

8節には、私たちを闇の中に置こうとする悪の力と罪のことが記されていますが、その悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子イエス・キリストがこの世に現れてくださったとヨハネはここに記しています。

9節に「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません」とありますが、この「神の種」とは神の「ご性質」を意味します。神は「愛」であり、「聖」であり、「義」であられますが、その性質が神の子たちにも主イエスを通して植え付けられているので、罪を犯すことができないと言って、意志薄弱な私たちを励ましてくれるのです。

さて、私たちが生きてゆく中で大切にすべきことが4つあります。第一は、私たちを愛し、私たちを「我が子」と宣言してくださる神を愛してゆくことです。第二は、神が愛しておられる私たちの隣人を愛してゆくことです。第三は、10節にあるように、主イエスを信じて従う兄弟姉妹たちを、神の家族を愛し、互いに愛し合い、祈り合い、支え合い、互いに仕え合ってゆくことです。第四は、「すべての人は神に愛されている存在。神はあなたを愛しておられる」と全世界に宣言し、キリストにつなげてゆくことです。それが神の子として神に愛されている者の地上での最高の使命です。