神の御手がわたしたちを守る

「神の御手がわたしたちを守る」 八月第四主日礼拝宣教 2021年8月22日

 ネヘミヤ記 2章11〜20節      牧師 河野信一郎

おはようございます。オンラインではありますが、今朝も神様から礼拝へのお招きをいただき、皆さんと共に御前に礼拝者とされている幸い、恵みを神様に心から感謝いたします。

8月も早3週間が過ぎましたが、コロナの感染拡大を制御できない状況が続けており、緊急事態宣言は9月12日まで延長されました。逼迫した状況が続いておりますが、感染威力の強い変異株から身を守るためにはステイホームするしか方法はありません。しかしながら、外で働かなければ生活ができないという方々とその家族は、非常に大きな不安の中に置かれていると思います。我が家も同様です。感染から守られるように心を尽くしてお祈りしています。

さて、今朝は、いえ今朝も、宣教に入る前に、皆さんにお祈りのお願いが二つ、そして喜びの分かち合いが二つあります。最初の祈りのリクエストですが、東京地方連合・西地区の牧師・教役者会のお世話をしてくださっているI先生からメールがあり、西地区の牧師仲間のお一人が11日頃からコロナに感染し、ずっと高熱が続いているにも関わらず、未だ入院できずに自宅療養をしているので祈ってくださいという要請でした。個人のプライバシーや教会のご事情もありますのでお名前など伏せますが、この牧師先生の上に主なる神様の御手が置かれ、自宅療養中も守られ、悪化しないように、速やかに回復しますようにお祈りください。

昨日ニュース番組を見ていましたら、コロナ感染陽性者の中で入院できない方々を往診されている医師の方がインタビューの中で、「これは通常診療ではなく、災害医療と思っています。このような災害の中で、こぼれ落ちる命を一つでも少なくすることが私たちに今できる最低限のことです」とおっしゃっていました。東京だけでも自宅療養中の方は3万5千人以上とされていますが、訪問診療できる医師の数は550人ということで、医療従事者の方々がどんなに大きな負担を強いられているのか、医療機関が逼迫しているのかが分かると思います。わたしたちの教会の兄弟もずっとその最前線で医療に励んでくださっています。その兄弟の娘さんが来週の日曜日に5歳のお誕生日を迎えます。愛するこのご家族と最前線で頑張ってくださっている医療従事者の方々を覚えて日々祈っていただきたい。これが二つ目です。

恵みの分かち合いですが、実はたくさんあります。しかし、時間の都合により二つ分かち合いたいと思います。先週月曜日のことですが、感染防止のためにずっとオンラインで礼拝に出席くださっている方が、外出したらご自分が感染するリスクが高まるにも関わらず、牧師家族を励ますために突然教会を訪ねてくださいました。驚いている私にその方が次のような愛と配慮に満ちた言葉、本当に粋なことをおっしゃいました。「教会への行き方を忘れないために来ました」と。私はその言葉に大いに励まされました。私も、家族も、大久保教会も愛されているなぁと感じて涙が出ました。皆さんにも同じことをしてくださいと催促しているのではありません。この19ヶ月間、たくさんの愛とお祈りと励ましをすでに皆さんからいただいています。海外から礼拝に出席くださっている方々からも愛をたくさん受けています。

私が今回心から感激したのは、「わたしはこの教会に帰りたい。この教会が好き。この教会で神様に礼拝をおささげしたい」と切に願っておられる方々がたくさんおられるということを再認識したことです。日本に帰国したらぜひ大久保教会に行ってみたいと言ってくださっている方々が海外にもおられて、本当に嬉しいですし、感謝感激です。わたしは牧師として本当に必要最低限のことしかしていない者で、穴があったら入って身を隠したいと思うような者です。毎週のオンライン礼拝は、宣教師ご夫妻とわたしの家族と副牧師に支えられて配信できている状態です。すべては神様の愛と憐れみであり、皆さんの愛と祈りと忍耐のお陰なのです。本当にいつもありがとうございます。心から感謝しています。

さて、二つ目の分かち合いです。わたしの日課の一つは、教会の駐車場と前の道に落ちるゴミや葉っぱを掃き取り、花壇の植物に水やりをすることですが、三日前からおかしな現象が起こりました。それはみかんの木の真下に青々とした葉っぱや無数の乾いた細い枝が落ちるようになりました。写真を撮りましたが、このような具合です。最初は、雨や風のせいで落ちたのだろうと思ってせっせと掃いていたのですが、数時間後に外に出たらまたたくさんの枝が落ちています。おかしいなぁと思いつつ上を見上げると、写真のように若鳩が1羽とまっているではありませんか。枝がたくさん落ちているのは、この鳩の仕業かと思ったのですが、目を凝らしてもう少し奥を見ますと、なんともう1羽見つけました。そうです。教会のみかんの木の上で、鳩のつがいが巣作りをしていたのです。

平和のシンボルと言われる鳩が教会で巣作りをしている。とても嬉しい気分になりました。そして言葉は通じませんが、鳩のつがいに「大久保教会を選んでくれてありがとう」とお礼を言いました。教会に帰ってこられる皆さんの頭上や大切な服に鳩のフンが落ちたらどうするのと言われそうですが、だからと言って追い出す訳にもいきません。わたしたちの役目は、そっと見守ってあげること、守られるように祈ってあげることではないでしょうか。

大切な宣教の時間を割いてまで聞く話ではないと思われるかもしれませんが、わたしたちは長引くコロナ危機の中で心も体も疲れ、うつむきながら歩いてしまい、道や地面に落ちている不安や悩みや悲しみや苦しみに目が行きがちになります。それらはただ掃いて捨てる落ち葉や細かい枝であったり、ゴミくずのように見えます。しかし、その目障りな苦しみや悩みや悲しみにも、今わたしたちには分からないのだけれども、そこにも意味や理由、神様の意図や目的があるのではないでしょうか。みかんの木の下にたくさんの枝が落ちていましたが、それは鳩が巣作りのために色々なところから一本ずつ集めて来た枝が無残にも地面に落ちてしまったものでした。弱っている心のままで痛みや傷跡を見ると、見るもの全てが無駄なもの、人生の汚点に見えます。しかし、下でなく上を見上げれば、そこでは祝福の巣作り・準備がされています。いつも下ばかり見ていても良いことは何もありません。ですから、下に問題があったら上を見上げる。神様を見上げるのです。わたしたちには今は分からないけれども、神様には確かなご計画がおありです。そのご計画とは、わたしたちの頭上にフンを落として悲しませることではなく、わたしたちを祝福し、喜びと平安と希望を与えるものです。

さて、今月から旧約聖書のネヘミヤ記に聴いています。その目的は、現在のウィズwithコロナの時代からアフタafterコロナの時代を見据えて、わたしたちが今後どのように働いてこの教会を形作ってゆくべきかをネヘミヤ記から聴くことが最適と感じました。預言者ネヘミヤとバビロン捕囚からエルサレムに帰還したイスラエルの民がたった52日間でどうやってエルサレムの城壁を建て上げたのかを一緒に聴いて、知恵と励ましを受けつつ、まず心の準備をしてゆく。そして開始の時が来たら、また一緒に集ってまず礼拝をささげ、そして教会をさらに固めてゆく、形作ってゆくという働きを共に担ってゆきたいと願っています。

このネヘミヤ記は、預言者ネヘミヤという人のリーダーシップの素晴らしが注目されがちで、確かに彼のスキル、神様に信頼しつつ、祈りつつ、民を励まし導いてゆくその誠実なスキルは素晴らしいのですが、主イエス様が最初にこの地上に来られた時から再び来られる再臨までの新約の時代に生かされ、立たされているバプテスト教会の醍醐味は、牧師と信徒が一致協力して、共に教会を形作ってゆくことにあります。牧師と信徒にはそれぞれ役割と責任がありますが、目指す目的、つまり使命は一緒です。1)教会を整えてゆく働きと2)神様の愛であるイエス・キリストを分かち合ってゆく宣教の働きを「みんなで担う、共に担う」という「約束」がバプテスト教会の良さであり、強みです。「教会を形づくる」という業は、憐れみのうちに神様に救われ、主イエス様に召され、委ねられたわたしたち信徒・イエス様の弟子たちの「働き・使命」であると信じ、共に歩み続ける群れが「バプテスト」です。

さて、ペルシャの王様から許可と祝福を受けてネヘミヤは念願のエルサレムへ戻ってゆきます。1章1節に記されているように、もしネヘミヤが首都スサという土地から出立したのであれば、スサからエルサレムまでは直線で1250キロあります。その間には砂漠や荒野がありますから色々迂回したとして1500キロから1600キロの移動距離と約1ヶ月の時間を要したと考えられます。ですから、2章11節に「わたしはエルサレムに着き、三日間過ごしてから」とあるように三日間は自分の体と心を休ませる休息をしっかり取ったようです。誰でも休息は必要です。

そして休んだ後、ネヘミヤは動き出しますが12節から15節にこう記されています。「夜、わずか数名の者と共に起きて出かけた。だが、エルサレムで何をすべきかについて、神がわたしの心に示されたことは、だれにも知らせなかった。わたしの乗ったもののほか、一頭の動物も引いて行かなかった。夜中に谷の門を出て、竜の泉の前から糞の門へと巡って、エルサレムの城壁を調べた。城壁は破壊され、城門は焼け落ちていた。更に泉の門から王の池へと行ったが、わたしの乗っている動物が通る所もないほどであった。夜のうちに谷に沿って上りながら城壁を調べ、再び谷の門を通って帰った。」とあります。

ここに「神がわたしの心に示されたことは、(まだ)だれにも知らせなかった」、「夜中に谷の門を出て、エルサレムの城壁を調べた」、「城壁は破壊され、城門は焼け落ちていた」とあります。ネヘミヤが城壁再建のプロジェクトについて誰にも話していなかったのは、城壁の状態を調査していなかったからです。夜中に調査したのは人目を避けて事実を把握したかったからです。ネヘミヤが自分の目で確かめた現実は、「城壁は破壊され、城門は焼け落ちていた」という現状でした。神様から託された働きを担い、遂行するためには、絶えず祈り、常に主に信頼するだけでなく、自分で動いて、調査して、事実をしっかり把握する必要があったのです。

大久保教会をさらにしっかりと形作ってゆくためには、現状をよく知る必要があります。建物だけでなく、わたしたちの信仰、霊性、礼拝への姿勢、交わり、どのような状態にあるのかを注意深く調べ、課題や問題点を知る必要があります。礼拝、祈祷会、教会学校、兄弟会や女性会のことなど現状を把握し、整える準備が必要です。これらはメールのやり取りではできません。顔と顔を合わせて一緒に話し合い、祈ること、愛と忍耐が必要です。

16節から17節を読みましょう。「役人たちは、わたしがどこに行き、何をしたか知らなかった。それまでわたしは、ユダの人々にも、祭司にも、貴族にも、役人にも、工事に携わる他の人々にも、何も知らせてはいなかった。やがてわたしは彼らに言った。『御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない。』」と言います。

城壁の状態を把握したネヘミヤは、初めてユダの人々に計画を分かち合い、「エルサレムの城壁を一緒に建て直そう!」と励ますのです。ネヘミヤはここで4つの動機付けをしています。1)「わたしたちは不幸の中であえいでいる」と言って「わたしたち」の苦しみにフォーカスします。2)「エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ」と言って深刻な状態にあることを言います。3)「エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない」と言って大切な働きにコミットしようと励まします。そして4)最後は18節ですが、「神の御手が恵み深くわたしを守り、王がわたしに言ってくれた言葉を彼らに告げ」たとあります。「これから行う働きは苦労の連続であることは目に見えているけれども、神様の御手が必ずわたしたちを守ってくださるから大丈夫。一緒に前進しよう」と励ますのです。

この後の19節を読みますとネヘミヤたちは確かにアンモン人やアラブ人たちから「お前たちは何をしようとしているのか」と嘲笑われ、蔑まれます。しかし、ネヘミヤたちはそんなことに怯むことなく、民は「『早速、建築に取りかかろう』と応じ、この良い企てに奮い立った」と18節にあります。神様のために働くという同じ目的・使命を持つ時に、わたしたちは勇気づけられ、一つの確信が与えられ、一つの群となります。その確信が20節にあります。「天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる」と云う揺るがぬ確信です。

主なる神様がわたしたちに御手を置いてくださり、守り、導き、共に働いてくださいます。共に祈りつつ、神様には忠実に、互いには誠実に、愛と忍耐を持って歩みましょう。