神の言葉があなたに臨んでも

「神の言葉があなたに臨んでも」 八月第一主日礼拝 宣教 2022年8月7日

 ヨナ書 1章1〜3節     牧師 河野信一郎

おはようございます。8月の最初の日曜日、このうるわしい主の日の朝、皆さんとこのように礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。わたしたちの思いは、先日の集中豪雨、大洪水、土砂崩れによって甚大な被害を受けられた山形、新潟、福島、石川、福井県の方々のことを案ずることに傾いておりますが、これ以上災害が拡大しないように祈りましょう。皆さんのご家族やお知り合いに被災された方はおられないでしょうか。今のところ、連盟に加盟する各県の諸教会から被災の報告はありませんが、明日明後日オンラインで開かれる地区宣教主事会議で何か報告があるかもしれません。覚えて、神様に祈り続けましょう。

さて、昨日6日は広島市の中心部に原子力爆弾がアメリカ軍によって投下されてから77年目を迎えました。9日は長崎での原爆の日を迎えます。核廃絶を訴え続ける広島と長崎の市民の方々の叫び、米軍の基地問題で苦しみ続ける沖縄県民の方々の叫びを心に刻まなければなりません。昨日の広島の平和記念式典において、子ども代表の二人が素晴らしい平和への誓いをしましたが、皆さんはお聞きになられたでしょうか。子どもたちはよく理解しています。

核兵器をちらつかせて脅す国々や軍事力を世界に見せつけて威嚇する国々がある中、「本当の強さとは違いを認め、相手を受け入れること、思いやりの心を持ち、相手を理解しようとすること。本当の強さを持てば、戦争は起こらないはず。過去に起こったことを変えることはできないが、未来を創ることはわたしたちにできる」と言っていました。わたしは、平和な未来を創ることができる知恵と力を与えてくださるのは憐れみの神様だと信じています。絶対的な主権、平和を創る力を持たれる神様を畏れつつ生きる必要がわたしたちにあります。

世界中で広がる自然災害は、自然破壊や温暖化問題などを引き起こして自然界のバランスを崩してきたわたしたちに責任があると思います。戦争や紛争、大国のにらみ合いも、お互いを認め合えない、信頼できない、いつも疑いの念を抱いてしまうわたしたち人間の弱さが引き起こした関係性のアンバランスさに大きな原因があると思います。人種や性別や言語や文化の違いや歴史認識の違いを超え、乗り越えなければならなかった数々の重大な課題や問題をずっと解決しないでなおざりにしてきたツケが回ってきて、回避不可能な厳しい状況です。

そのような恐ろしく、絶望的な状態の中で、わたしたちを含む実に大勢の人々は不満や怒りや憎しみを抱き、その身勝手な感情を誰かにぶつけてしまう。そしてその矛先は、残念ながら、自分よりも弱く小さく見えてしまう人々、民族、国へ絶えず向けられてしまいます。わたしたちが生かされている世界は、過去に例のない非常にアンバランスな世界となっています。格差が広がっています。しかし、この多種多様なアンバランスにバランスを与えてくださるのは神様です。このアンバランスな世界に「秩序」というバランス、神の「平和」を与えるために、神様はイエス・キリスト、救い主、真理の言葉をお遣わしになり、主にあって罪と弱さを悔い改め、この救い主に聞き従いなさいとわたしたちをお招きになられるのです。

すみません、今日はいつもと違って、別人のように真面目で真剣な話を最初にしてしまいましたので、本来の自分を取り戻して、いつもの砕けたお話をしたいと思います。わたしたちが誰かに、何かに不満や怒りを抱くのは、確かにその相手、あるいは何かに責任があることもありますが、自分の早とちり、思い込み、勘違い、傲慢さに原因がある時が結構あります。

皆さんには、そのようなご経験はないでしょうか。ここで小話を二つほどいたします。ある男性がコンビニに入って来て、カウンターの店員にいきなり「“こまめさいちゅう”が割れてたから交換しろ」と言いました。店員は「“こまめさいちゅう”ですね、どういった商品でしょうか?」と尋ねると、「“こまめさいちゅう”だよ、舐めてんのか、こら!」と客は怒りをあらわにしました。この高圧的な人は、「小豆最中」という食べ物を「こまめさいちゅう」とずっと思い込んで食べてきたのでしょう。凄いですね。わたしもアメリカ育ちで漢字はめっきり弱いですが、それくらいは読めます。しかし、まだ読めない漢字も多数あります。

さて、もう一つ、どうしようもない早とちりの話、自分の勘違いを他人のせいにしてクレイムをつけてくる人のお話です。町の電気屋さんで炊飯器を買ったお客さんから電気屋さんにお怒りの電話です。「オタクで今日買った炊飯器、電源はいらないぞ!今すぐ見に来い!」とお怒りの様子です。おかしいなぁと思いながら店員がお客様宅に行き、確認すると確かに電源が入りません。原因を確かめようとコンセントのコードをたどっていくと、はい、どうぞ実際の写真をご覧ください。開いた口が塞がらないとは、こういうことだと思います。

大切な宣教の時間にくだらない話と思われるかもしれませんが、強烈な例をいくつか挙げて、これがわたしたちの弱さだということを分かち合いたかったのです。つまり、わたしたちが、不満や怒りを感じる時、もしかしたら、その原因はこちら側のとんでもない勘違い、思い込み、間違いかもしれない、だから、わたしたちが抱く不満や怒りや憎しみは、時と場合によっては、まったく正当性のない場合もあり得るということを覚えたいのです。皆さんの中には、自分はそんな間抜けではない、そのような間違いなど絶対犯さないという自信がある方もおられるかもしれませんが、「絶対」という傲慢さを今朝神様の前で捨てたいのです。

もう一つお伝えしたいことは、イエス様を信じ、イエス様によって神様にしっかりつながって生きるということが重要であるということです。「聖書」という神様のみ言葉、人生のマニュアルを読み込んで、どう生きるべきかを頭で理解できていても、イエス様を救い主と信じて神様にしっかりつながっていなければ、先ほどの炊飯器のコードのように、神様から生きる電力、生きる力が供給されず、わたしたちは自分が果たすべき役目、責任をしっかり果たすことができず、人生において喜びと感謝はなく、神様への賛美もなく、いつも不平不満ばかり言う人、非常に残念で不幸せな日々を過ごす人になってしまう可能性が大きいのです。

さて、今日から旧約聖書の「ヨナ書」をテキストに、神様のみ言葉を少しずつ共に聞いてゆくシリーズを始めますが、4章からなるこの書にはわたしたちが大切にしなければならないことがたくさん記されていて、その一つ一つをしっかり聴いてゆく必要があると思います。

このヨナと言う預言者は、列王記下の14章23以降にも登場する北イスラエルで神様に仕えたベテランの預言者でありましたが、一癖も二癖もある人物で、愛国心の強い人、思い込みが激しくて心の狭い人、神様の思いよりも自分の考えを優先し、またそれを正当化しようとするような人、神様に反抗的な人でした。気にくわないことがあれば、遠慮なく神様に噛みつくような人でした。ですので、このヨナを反面教師として、わたしたちは神様と自分の関係性、イエス様を救い主と信じる者としての在り方についてよく考え、よく祈り、素直に、謙遜に、そして忠実に生きる者とされてゆくことをご一緒に目指したいと思います。

わたしたちはみんな違うのですから、一つや二つぐらい癖が強い部分があっても良いと思うのですが、心が狭い、視野が狭い、思い込みが激しいのは、あまり良くないと思います。心が広くて寛容な人、視野が広くて受容度のある人、イエス様のように心が柔らかな人が求められているのだと思います。それが広島の子どもたちが云う「真の強さ」だと思います。

ヨナという人は、愛国心の強い人でした。皆さんの中に、「自分の国を愛して何が悪い」と思われる方もおられるかもしれませんが、その愛国心があまりにも偏りすぎるのはどうかとわたしは思います。自分の国は素晴らしい、しかしそれ以外の国々は劣っているとか、自分の国は神様に愛され、祝され、常に繁栄すべきと考えていながら、それ以外の国々が神様に愛され、祝され、繁栄するのは見たくない、しゃくに触る、という感情を抱いてしまうなら、その人の思いは神様の思いから離れてしまっていると考えられます。何故ならば、神様はすべての人、世界の人々を造り、生かし、愛しておられるからです。ある特定の地域に生きる民族だけではないのです。世界中に生きる人すべてを神様は強く深く愛しておられます。

しかし、ヨナという人物は、イスラエルだけ、ユダヤ人だけが神様に愛されるべき存在で、それ以外は滅んでも良いと考えているような人であったようです。非常に危険な思想です。わたしたちはユダヤ人ではありませんので、自分たちに対してそのように言われているようで、とても悲しくなります。しかし、ヨナの考えイコール神様の考えでは決してありません。聖書にはそのような危険な思想は記されていません。神様は、すべての人を愛しておられ、そしてすべての人が悔い改めて神様に立ち返ることを望んでおられる、そのためにイエス様を救い主としてこの地に遣わされたということが記されています。

さてヨナ書1章1節に、「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」とあります。神様の言葉が預言者ヨナに臨みます。主の言葉が「臨む」とは、神様の御心が示されるということです。預言者に主の言葉が「臨む」という時、預言者は畏れかしこみつつ、主の言葉と向き合う責任、必要があります。そのことを覚えておいてください。

神様はヨナになんとお命じになったのでしょうか。2節に「『さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている』」とあります。この神様の命令をヨナはどのように捉えたでしょうか。「さあ、あなたはイスラエルの敵国、イスラエルを脅かすアッシリア帝国の首都ニネベに今から行って、すでに神のみ前に届いているその数々の大きな悪、罪を彼らに指摘し、悔い改めるように告げよ。もし彼らが悔い改めるならば、その民の罪を神は赦し、彼らを救ってしまわれる」と捉えたと思います。

しかし、イスラエルをこよなく愛し、イスラエルを常に苦しめる敵国に対して強い反感を抱いていたヨナにとって、神様から命じられたことは、彼の人生の中で最もしたくないことであったと思います。ましてや、主なる神様がアッシリア人を愛するなど、とんでもないこと、許しがたいこと、絶対に受け入れられないこと、アッシリアは滅びるべきと考えていたことを、ヨナが次に取った行動からうかがい知ることができると思います。何とあるでしょうか。

次の3節です。「しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった」とあります。「主から逃れようとした」ということが二回も記されています。彼が向かったタルシシュはニネベの正反対の方角に位置する町です。敵国ニネベの人々が救われるということ、その人々が神様に愛されているということに腹を立てたヨナは神様に反抗し、神様から逃げるのです。

先ほど、「主の言葉が『臨む』とは、神様の御心が示されるということ。預言者に主の言葉が『臨む』という時、預言者は畏れかしこみつつ、主の言葉と向き合う責任、必要があります」と皆さんに申しましたが、ヨナは預言者として神の言葉を畏れかしこむどころか、真摯に向き合うどころか、その責任を完全に放棄して神様の前から逃げてしまうのです。なんという不忠実な者と思うでしょうか。なんという身勝手で無責任な人だと思うでしょうか。しかし、このヨナという人の中に、自分を見つけることがないでしょうか。どうでしょうか。

最後に二つの側面からお話しして終わりたいと思います。一つは、せっかく神様の言葉があなたに豊かに臨んでいるのに、心を頑なに閉ざして、神様の愛を拒んでいないかということ。神様からイエス・キリストという愛と赦しと希望の言葉があなたに臨んでいるのに、自分の思い込みや勘違いや早とちりで神様の愛を拒んでいないでしょうか。自分は大丈夫、自分の頑張りようで幸せになれる、成功を収めることができる、自分は周りの人よりも優れているから大丈夫と勘違いしていないでしょうか。それは勘違いではなく、傲慢の表れです。傲慢さは、神様を押しのけますので、それは「罪」なのです。ヨナにもそのような傲慢さがありましたが、それでも神様は彼を見捨てることなく、民の救いと祝福のために豊かに用いようとされます。神様は、ヨナを愛しておられ、用いようというご計画があるからです。

もう一つの側面のお話です。神様はイエス・キリストを通してわたしたちに臨まれ、神様がいかにわたしたちを愛してくださっているかを示してくださいました。そしてその愛を分かち合うために、わたしたちは世の中へとそれぞれ派遣されています。神様の愛、イエス様を隣人と分かち合わないこと、共に喜び合わないことは実にもったいないことで、神様の御心から逃れるということ、責任を放棄することであるということをヨナから学びます。

しかし、この言い方は自分に、自分たちに過大なプレッシャーをかけ、与えられた喜びや感謝、恵みを奪い去る言い方だと思いますので、正しい言い方ができるように、まずイエス様と向き合い、主の言葉を素直に聴くことから始めてみましょう。そうでないと、せっかく神様の言葉がわたしたちに臨んでも、その恵みをよく味わうことができなければ、恵みが栄養となってわたしたちの中で信仰の肉となり、血となること、喜びと感謝になり得ません。まず心を柔らかにして心開き、神様の愛を受け取りましょう。そこから神様の祝福は始まります。