神の鍛錬と主イエスの励まし

「神の鍛錬と主イエスの励まし」  五月第二主日礼拝 宣教要旨 2017年5月14日

  ヘブライ人への手紙12章1b〜11節       牧師 河野信一郎

 このヘブライ人への手紙は、クリスチャンに対する迫害がある中で、霊的に弱り始めていた信徒たちを励ますために書き送られました。同様な迫害は日本にはありませんが、世界を見渡せばクリスチャンが最も迫害されていると伝えられ、そのことを私たちは覚えて祈らなければなりません。また、迫害という苦しみはなくても、私たちにはそれぞれ苦しみや困難があり、それらに翻弄されていることが多いです。社会的にも負うべき責任が多くあります。誰かに代わってもらうことができない義務、責任があるのです。

 聖書では、私たちにはそれぞれ、「自分に定められている競走がある」とあります。この競走は、誰かと競って一番になるとか、誰かに勝って優越感に浸るという目的のものではなく、「完走」するということが重要なマラソンのような走りです。この地上で命が与えられている間、走るべき長い行程の走りです。平坦な道ばかりではなく、山あり谷ありの、紆余曲折のある人生という走りです。しかし、この手紙は、たとえそのような困難が伸しかかって来たとしても、キリストを信じる信仰を捨てることなく、忍耐をもって走り抜こうと励ますものです。

 確かに、走るべき道、行程がどのようなもので、どこに向かって走って行くのかが分からなければ私たちは不安になります。ですから、この手紙を書き送って信徒は、「信仰の創始者、また完成者である主イエス・キリストを見つめながら、共に主に従い、共に走りましょう」と励ますのです。「見つめながら」とは、私たちの視線を主イエスに固定するということです。

 この救い主イエス・キリストは「ご自身の前にある(神の御子という)喜びを捨て、恥をもいとわないで、十字架の死を耐え忍んで、甦られた主イエスが神の王座の右にお座りになった」と2節後半にあります。私たちを罪から救うために、私たちの身代わりとなって十字架という重荷を負って先に死んでくださいましたが、それはいま重荷をもって負って生きている私たちと共に歩み、救い、神の御もとである天国へと導いてくださるためでした。そうするために、主イエスは甦られ、そのイエスを信じる者を救ってくださいます。この救い主がいつも伴ってくださり、救いを完成してくださるので、私たちは大丈夫なのです。ただ、主イエスだけを見つめ、このお方に聴き従ってゆけば大丈夫なのです。

 もし自分の弱さ故に、日常生活に謀殺され、様々な課題や問題に圧倒され、弱り果て、気力を失ったならば、3節にあるように、「ご自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された主イエスのことをよく考えてみなさい」と促され、励まされています。自分の十字架を負わされて苦しむ時、あなたを救うために忍耐され、十字架から降りられなかった主イエスのことをよく考えてみなさい・十字架の主を見上げなさいということです。

 4節の「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」という言葉を読み、つまり「主イエスの十字架上でのみ苦しみに比べればあなたの苦しみはまだ小さいから我慢しなさい。耐えなさい」と聞こえてしまう人もおられ、躓きを覚える人も居るかもと思いますが、ここで使徒パウロが言っていることはさほど間違いではありません。主イエスの十字架のみ苦しみに比べれば、私たちの苦しみは本当に取るに足らない小さなことかもしれませんが、ここでは苦しみの大小に関わらず、もっと重要なことが示されていると思います。

 つまり、どのような困難、苦難が私たちにあったとしても、その苦しみに耐えることができる土台を主イエスが十字架の死によって築いてくださったということを覚えなさい。私たちは、主イエスの愛と犠牲と勝利の復活を賜っている者たちであるから、その恵みをよく思い返してみなさいということがここで示されていると感じます。言葉を変えるならば、つまり主イエスの犠牲と忍耐には絶対的な意味と目的があったということです。同様に、私たちが負っている苦しみや悩みにも、またそれに対する忍耐にも確かな意味と目的が主にあるということを教えられているということです。

 この手紙を記した人は5節で、「子どもたちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告をあなたがたは忘れてしまっている」と指摘し、旧約聖書の箴言3章11・12節の言葉を引用します。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主がこらしめられても、力を落としてはいけない。何故なら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者をみな、むち打たれるからである」とあり、7節では「あなたがたはこれを(主からの)鍛錬として忍耐しなさい」と力強く勧めています。

 私たちはとかく、「鍛錬」、「懲らしめ」、「むち打ち」という言葉に激しく揺さぶられ、恐怖心を抱きますが、私たちが心にとめるべき言葉は、「わが子よ」、主に「愛する者」、「子として受け入れる者」という言葉です。御子イエス・キリストを信じる者たち、私たちを神の子として愛して下さっていることを感謝し、積極的に喜んでゆくことが大切です。

 現代では、親からネグレクトされた子たちがたくさん存在し、言葉の暴力や肉体的暴力を、虐待を受けて痛み苦しんでいる子どもたちがいます。そのような子たちを保護し、助ける運動が「オレンジリボン運動」で、当教会のY姉のご主人がこの運動に中心的に携わっておられますが、そのような境遇の子たちも神に愛されている存在、祝福に招かれている存在でありますから、私たち教会もその働きに参与し、仕えてゆくことが使命だと示されます。

 さて、神はイエス・キリストを通して私たちを救い、神の子としてくださり、御国へと招いてくださっていますが、御国へ招き入れられる前に私たちから取り除かれなければならないもの、そして兼ね備えなければならないものがあって、そのようにするために神は私たちを鍛錬されるのです。

 10節の後半に、「霊の父は私たちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で、私たちを鍛えられるのです」とあります。ここから、神の鍛錬の意味は私たちの益のためであり、目的は神の聖(きよ)さを与えるためであるということが分かります。聖なる神のおられる御国に入れられるためには、私たちの罪が取り除かれ、聖さが与えられることが重要であって、そのために最初に鍛錬を通して私たちの内にある不純なもの、御国には不必要なものを全て取り除く重要性があるということです。

 では、私たちから取り除かれるべきものとは何でしょうか。いろいろあると思いますが、自我(エゴ)、自尊心(プライド)、物欲、不安や恐れ、敵意などなど。そのために主の鍛錬があり、その苦難や困難を信仰をもって歩んでゆく必要があるということです。

 最後に11節を読みましょう。「およそ鍛錬というのは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛えられた人々に義という平和に満ちた実を結ばせるのです」とあります。神に喜ばれる実を、義という平和に満ちた実を結ばせるために、主なる神は「試練」、「苦難」、「悩み」、「痛み」や「悲しみ」という「剪定」を与えられるということ。しかし、その苦しみを通して、神の鍛錬を通して私たちは自分の弱さ、限界を知ることができ、自分の思いよりも神の御心に従って生きること、謙遜に生き、主に服従していきてゆくことの大切さを学び、その中で成長させていただいて、この地上での人生の先に永遠の生命、祝福があること、神との素晴らしい関係が、平安があることをここから教えられます。

 苦しみ痛むことは嬉しいこと、歓迎できることではありませんが、その苦しみ、痛みにも主イエスが伴ってくださり、励まし、力強く導いてくださる主イエスが共におられるので、私たちは大丈夫なのです。そのような恵みのうちに生かされていること、永遠に生かされる約束が与えられていることを信じ、喜び、感謝し、希望を持ちましょう。