福音にあずかる者

「福音にあずかる者」  十月第二主日礼拝  宣教 2019年10月13日

 フィリピの信徒への手紙1章3節〜11節        牧師 河野信一郎

 「わたしはいったい何者であるのか。どのように生きるべきか。わたしを造られ、生かしてくださっている神様の御心は何であるのか」というテーマで神様のみ声に聴いています。先週まではコロサイの信徒への手紙から4回にわたって聴きましたが、今月はフィリピの信徒への手紙から神様のみ言葉を聴いてゆきたいと願っています。

今朝、わたしたちに与えられている箇所は、フィリピの信徒への手紙1章3節から11節ですが、この手紙にも「私は、また私たちは何者であるのか」ということがたくさん記されています。皆さんも日々の生活の中で聖書をお読みになっておられると思いますが、聖書を読む前に「主よ、私は何者であるのかを教えてください」とまずお祈りをし、「私は誰なのだろうか」という視点を持ちつつ聖書を読み進めてゆくと、次から次へと新しい発見が与えられ、心が喜びと感謝で満たされるはずです。私は、いま実際に経験しています。ですので、そのような読み方もどうぞ試してみてください。必ず神様の祝福があると信じます。

さて今朝、わたしたちは「福音にあずかる者」であるということを聴いてゆきたいと思いますが、正確にタイトルを付けるならば、「キリストの福音にあずかる者たち」としたほうが良かったかもしれません。それでは、「キリストの福音」とは、何でしょうか。「福音にあずかる」とは、一体どういうことでしょうか。今朝は、わたしたちは「福音にあずかる者」であるということがどういうことなのかを追求してゆき、喜び、感謝したいと思います。

まず「キリストの福音」というのは、救い主イエス・キリストを通して神の愛に気付かされ、キリストの命の犠牲によって罪赦され、神に再びつなげられるという驚くべき恵みです。イエス・キリストの十字架の贖いの死によって私の罪の代償は全て支払われ、恵みによって罪赦され、キリストの復活によって永遠の命が与えられ、信じる信仰によって救われ、神の子とされ、神を永遠にほめたたえて生きる祝福の中に加えられるということです。

では、「福音にあずかる」というのは、どういうことでしょうか。そのことへの答えへと導かれる前に、この手紙をフィリピという町に住むクリスチャンたちに書き送った使徒パウロは、感謝と喜びを持ってこの手紙をしたためたということを覚えたいと思います。この手紙は、「喜びの書簡」とも言われるほど、主イエス・キリストを信じる信仰によってもたらされる「喜び」がどんなに大きく、そしてこのキリストにある「喜び」がどれほど大きな生きる力になっているのかが記されています。まず3節から5節までを読んでみましょう。

「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」とあります。新改訳聖書では、この部分を「福音を広めることにあずかって」と訳しています。リビングバイブルは、「キリスト様についての良い知らせを全力あげて、宣べ伝える働きに協力してくれたからです」と訳しています。現代訳聖書では、「ずっと福音宣教の働きに協力してくれた」と訳しています。韓国語の聖書では、どのように訳されているでしょうか。あとで教えてください。

さて、この「あずかる」という日本語ですが、辞書を調べますと、いくつか意味があります。一つは、「目の上の人から受ける」という意味ですが、そうしますと、神様から福音を受けているという意味になります。もう一つは、「関係する、関わる」という意味ですが、そうしますと、キリストの福音に関係する、関わって生きるという意味になるでしょう。もう一つは、「分け前をいただく」という意味がありますが、そうしますと、キリストの福音の分け前をいただくということになります。一体どれが神様の御心なのでしょうか。それを知るためには、新約聖書が記されたギリシャ語の「あずかる」という言葉の意味を探す必要があります。この「あずかる」という言葉のギリシャ語は「コイノニア」です。この「コイノニア」という言葉、皆さんもこれまでに聞いたことがあるかと思いますが、最も多く訳されているのは「フェローシップ、つまり親しく交わる、親睦する、交わる」という言葉です。パウロ先生は、フィリピの教会の方々とキリスト・イエスを中心とした交わりを喜び、神様に感謝していた、そのように捉えることができます。

しかし、この「コイノニア」という言葉と「フェローシップ」という言葉には共通するもう一つの意味がありまして、「分かち合う、シェアリング」ということがあります。つまり、キリストの福音にあずかるというのは、キリストを中心とした交わりに生きるということだけでなく、キリストの福音を共に分かち合う、人々にシェアするという意味としても捉えることができます。

またこの「コイノニア」という言葉は、「参加する、パーティシペーション」という意味もあります。パウロ先生が喜び感謝していることは、フィリピの教会の兄弟姉妹たちが最初の日から今日まで、パウロ先生の福音宣教の働き、福音を分かち合う働きに参加し、協力し続けてくれているということがあります。フィリピの教会は小さく、貧しい群の教会でしたが、それでも一生懸命、熱心にパウロ先生の働きに参加し、協力をしてきました。

もう一つ、「コイノニア」という言葉には意味があります。それは「ささげる」、または「専念する」というものです。英語では「デヴォーション、あるいはデディケーション」という言葉になりますが、つまり、キリストの福音の前進のために、時間や努力やお金や労力などをささげるということです。福音の前進のために専念するということです。神様からいただいている恵みや賜物を心からささげるということです。本日のコンサートに出演くださるゴンミンさんとシオンさんは、そのために音楽の賜物をささげておられる訳です。しかし、わたしたちにもできることがそれぞれにあるのです。音楽の賜物がなくても、他の賜物がわたしたち一人一人には神様から与えられていて、それは掛け替えのないものであります。それをささげることが大切なのだと思いますし、福音にあずかる者の姿であり、大切な成すべきことなのだと今朝のみ言葉から示されます。

この「福音にあずかる」ということに関して、もう一つだけお話しします。この「あずかる」という言葉を英語では「パートナーシップ」と訳しています。先ほどからお話ししていますように、キリスト・イエスの福音を地の果てまで宣べ伝えてゆくために、共にこの働きに参加し、協力し合い、祈り合い、時間や能力やお金をささげて行くことが大切なことですが、それらを全てひっくるめて「共同」ということになるのだと思います。すなわち、パウロ先生とフィリピの教会の共同ということがあります。

しかし、パウロ先生はそれだけを考えて、喜び、感謝しているわけではありません。6節をご覧ください。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」とあります。「良い業」とはイエス様をこの地上に送ってくださった救いの御業という意味です。福音宣教ということ、「パートナーシップ、共同」ということをパウロ先生が考えるとき、それは人間同士の共同だけではなく、力ある神様との共同の業であることが先生の念頭にはあります。このキリストの福音の業を始められたのは、ほかでもない憐れみに満ちた主なる神様です。この神様がキリスト・イエス様を信じるわたしたちと共に働いて、わたしたちをご聖霊で満たし、励まし、導き、キリスト・イエスの日、つまりイエス様の再臨の日までに、救いの業を完成してくださるとパウロ先生は確信しています。7節をご覧ください。パウロ先生は、フィリピの教会の信徒たちを「共に恵みにあずかる者」と思っていつも心に留めていると言っています。「共に」という言葉は、神様の前にすべてのクリスチャンは「平等」であるということ、つまり上下関係はないということです。また8節をご覧ください。パウロ先生は、この「共に恵みにあずかる」兄弟姉妹たちのことをいつも感謝し、心から尊敬し、愛していると言っています。その愛する思いを証してくださるのは、神様だけですと言っています。

パウロ先生は、この愛するフィリピの教会の兄弟姉妹たちのために心を尽くして祈ります。その祈りが9節から11節に記されていますから読みましょう。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」

わたしたちに対する神様のみ心は、わたしたちの愛がますます豊かにされ、仕えて生きるということです。「知る力」とは、神様の心を知るように、神様をもっともっと愛するということです。「見抜く力」とは隣人を愛するために何を成すべきか、最善なことはなんであるのかを知る力であり、一言で言うと隣人をもっともっと愛するということです。自分のことよりも、まず神様を愛し、隣人を思いやってゆく優しさ、愛が増し加わるように祈っています。神様と隣人を愛するとき、わたしたちの思考と行動の基準が定まりますので、何が本当に重要なのかを見分けることができるようにご聖霊がわたしたちを助け導いてくださいます。神様を愛し、隣人を愛し、教会の中で愛し合うとき、わたしたちは神様の愛によって清い者、とがめられるところのない者とされ、イエス・キリストを通して与えられる義の実、つまり喜びと感謝と感動があふれるほど与えられ、神様の栄光と誉れとをたたえる者へとされてゆきます。大切なのは、キリストの福音にあずかっていることを喜び、感謝することです。