私たちを区別なく愛される神

「私たちを区別なく愛される神」  二月第二主日礼拝 宣教    2019年2月10日

ローマの信徒への手紙10章5〜13節            牧師 河野信一郎

今朝の宣教は、先週の続きとなりますが、ローマの信徒への手紙10章5節から13節を通して、神様は私たちすべての人を区別することなく、愛し、イエス・キリストを通して救ってくださる神であられると言う真理を共に聴いてゆきたいと思います。

さて、先週は9章30節から10章4節までを共に聴きましたが、この9章30節から今朝の10章13節までを読んでゆきますと、「義」という言葉がなんと11回、「信仰・信じる」という言葉は9回と多く用いられています。ですので、この9章30節から10章13節の重要なテーマは、「義」と「信仰」であることは間違いありません。

そしてここで、パウロ先生は「義」というものには二種類あるとここで私たちに教えます。それは、1)信仰による義と律法による義、2)神の義と人の義、3)恵みによる義と行いによる義、というように、義には二種類あることを教えてくれますが、しかし、そもそもパウロ先生の言うこの「義」とは、いったい何なのかということを先週聴きました。少し振り返ります。

パウロ先生がここで言う「義」とは、「神様の義」であり、神様の「正しさ」であります。「神様の義」のほかに真の義はなく、神様の正しさ以外に真の正しさはないということです。また、「神の義」と言うのは「神の絶対的主権・権力」を示すもので、神様は他の誰からも支配されない、また他の誰かの考えや意見に左右されない神様のご意志を示す言葉が「義」です。

その神様の絶対的な主権、ご意思を明確に表しているのが、ローマ9章15節の「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」という神様の言葉で、ここに神様の絶対的な主権とご意志と正しさであり、「神の義」であるということを聴きました。

先週の宣教の中でもう一つ注目したのは、2節に記されているパウロ先生の言葉でした。「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません」と言っています。パウロ先生は、ユダヤ人たちが「熱心に」神様に仕えていることを認めてはいますが、「彼らの熱心さは、正しい認識に基づいていない」とはっきり言っています。

そこで「正しい認識」とは、いったい何であるのかと言うことを聴きましたが、この問いに対する答えは3節にありました。パウロ先生は、「なぜなら、(彼らユダヤ人は)神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」と言っています。

ここで大切なのは、1)ユダヤ人たちは神様の思い、御心を知らなかった。そして、2)彼らは自分たちの義を求めることに集中してしまった。そして、3)神様の義に従わなかったと言うことです。「神の義を知らなかった」とありますが、彼らはいったい神の義、つまり神様のご意思について何を知らなかったのでしょうか。それは、主なる神様がユダヤ人・イスラエルの民との正しい関係を、今まで守ってきた律法によってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって与えようとされたと言うことです。

パウロ先生は4節で「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために」と言われるのですが、この訳は分かりにくいですね。新しい訳の聖書協会共同訳聖書では、「キリストは律法の終わりであり、信じるすべてに義をもたらしてくださるのです」と訳されています。つまり、イエス様をキリスト、メシアと信じ、神様の恵みを受け入れることが律法の頂点であり、律法を完成することであり、律法の終着点なのだ、行いだけでは救われない、イエス様をメシア、救い主と信じることなんだとパウロ先生は言うのですが、ユダヤ人たちの多くは、イエス様をキリストと知らなかった、いえ信じなかったのです。そして、律法を守り続けることに集中し、その結果、神様の義に従うことができなかった、それは今も続いていると言うことです。

パウロ先生が言う「正しい認識」というのは、「神様の義、神様のご意志を知り、それを第一とする」ということです。ですから、その反対の「正しくない認識」というのは、神様は私たちに、私に何をして欲しいのかということを探し求める思いよりも、自分たちが何をしたいのかを求める思いの方が強かった」ということになるかと思います。そして「誰のために律法を守るのか」と言うとき、神様のためと言うよりも、自分たちの「義」のため、自分の救いのために、と言う思いが強かったと言うことを示していると思います。つまり神様を抜きにした、自分よがりの、自己中心的な思いからくる間違った認識、動機による熱心さであったと言うことです。最初はそうではありませんでしたが、その歴史の中で、歩みの中で、ユダヤ人たちの信仰は、神様中心ではなく、律法が中心、自分の行いが中心の信仰になってしまったと言うことです。

さて、4節の言葉に戻ります。パウロ先生はここで、「キリストは律法の終わりであり、信じるすべてに義をもたらしてくださるのです」と言われます。この4節の言葉をもっとわかりやすく語っているのが、今朝のテキストである5節から13節です。ここでパウロ先生は2つのポイントについて私たちに教えてくれています。

まず5節から10節で、古い契約に基づいた「律法の時代」は主イエス様の誕生と死と復活によって終わり、主イエス様によって新しい契約に基づいた「信仰の時代」、私たちが信じるという信仰によって「義」とされる恵みの時代が始まったとパウロ先生は言います。

11節は9章33節のくりかえしの言葉ですが、12節と13節で、この新しい時代の「義」は、信じるすべての人に与えられ、そこには区別も差別も何もない、あるのは神様の愛と憐れみであるということが記されています。

ここでは、「律法による義」と「信仰による義」という二つの「義」が対比されていますが、パウロ先生は旧約聖書に記されているみ言葉を引用して、説明しようとしています。まず5節の言葉は、レビ記18章5節(p190)の引用で、「律法による義」というのは「守る」ことによって、つまり「行いによる義」であると言っています。ローマ書10章5節では「守る」とだけ引用されていますが、レビ記18章5節では「行う」という言葉も記されています。ここで注目したいのは「掟によって生きる」という部分の「生きる」という言葉です。ここで言う「生きる」とは、律法を守ることでユダヤ人、イスラエルの民に神様から与えられている特権を楽しむことができると言う意味であって、律法を行うことによって「永遠の命」に生きることができると言うことではありません。律法は、この地上での営みの中だけに限られます。

次に、パウロ先生は6節から10節で、申命記30章10〜14節を引用して、イエス・キリストの救いの御業と「信仰による義」について説明しています。ここでパウロ先生が私たちにはっきりと示したいのは、イエス様によって「信仰による義」が私たちには与えられていて、ただイエス様を救い主と信じるだけで良い、十分だと言うことです。

もう少し言葉を変えて言いますと、神の御子であるイエス様が救い主・キリストとして天から下って十字架にかかり、復活して天に上げられたのだから、自分の力に頼り、自分の行いで天に上がろうとしたり、底なしの淵に下りることもない、ただイエス様を心で信じて、口で告白すれば良いのですとパウロ先生は言っているのです。神様の御前で「義」とされるのは私たちの行いではなく、私たちの信じる心なのですと言っています。

10節で、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」とパウロ先生は言いますが、ここで大切なのは、神様が私たちを救い、「義」とし、神様との関係を正しくするために御子イエス様を救い主、キリストとしてお遣わしくださり、このイエス様が私たちの罪の代価を十字架の死によって支払ってくださり、洗い清めてくださり、イエス様を死人の中から復活させられたことによって永遠の命への道を開いてくださり、招いてくださっているという恵みを信じるなら、救われるという福音が私たちの元に届けられていて、その福音を聞いて、それに応答するということ、つまりイエス様を信じて、信じたことを口で言い表して恵みに応答するということです。神様の愛、イエス様の恵みに対して「ありがとうございます」と言うことです。

先ほども申しましたように、11節は9章33節で引用されているイザヤ書28章16節の言葉です。33節では「これを信じる者は」とあり、「これ」と言うのはユダヤ人たちにとっての「つまずきの石」、イエス様を指すものでしたが、11節でパウロ先生は「主を信じる者は」と記し「これ」という言葉を「主」に変えています。9節でも「イエスは主であると」とパウロ先生は言っていますが、この「主」と言う言葉、私たちも礼拝や祈りの中で、信仰生活の中でよく使いますが、これは旧約聖書においては神様の称号であり、神様を示す呼び名です。つまり、イエス様を主と信じ、告白するということは、イエス様を神と認めるということです。11節に戻りますが、「主を信じる者は、だれも失望することがない」とありますが、「イエス様を神と信じる者は、誰もが、つまり信じる全ての人は救われ、失望する者は誰もいない」という意味の言葉として聴くことができます。

次の12節と13節で、このイエス様による新しい時代の「義」は、イエス様を神、救い主と信じる「すべての人」に与えられ、そこには区別も差別も何もない、あるのは神様の愛と憐れみであるということが記されています。ここを読んでみましょう。「ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」13節はヨエル書2章32節の引用です。

この箇所で皆さんの心に残る言葉はどれでしょうか。12節と13節に共通する言葉は何でしょうか。そうです、二つあります。一つは「すべての人と誰でも」という言葉です。もう一つは「呼び求める」という言葉です。誰でも、どのような状況に置かれている人であっても、神様を、主イエス様を呼び求めることがいつでもどこでも主の憐れみの中で出来ます。そして呼び求める者に神様は、主イエス様は必ず答えてくださり、救ってくださるのです。ですから、主を呼び求め、心の中にあることをすべて委ねましょう。それが神様の御心です。

私たちに大切なことは、私たちを区別なく愛してくださる神様、いつも共にいてくださるイエス様を信じること、神様の愛を素直に受け取り、喜び、感謝することです。旧約聖書と新約聖書は、神様はユダヤ人だけでなく、すべての人を愛されていて、イエス様を救い主として遣わされたと記し、このイエス様を信じることによって義とされ、救われ、神の子としての身分と永遠の命という希望が与えられると語ります。主の恵みを感謝し、信じましょう。