約束に生きる幸い

「約束に生きる幸い」 7月第四主日礼拝   宣教 2020年7月26日

 ガラテヤの信徒への手紙 3章19〜25節    牧師 河野信一郎

今朝もご一緒に、礼拝堂で、またインターネットを通して礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。全国的に新規感染者の数が増えていますので、不安や恐れがわたしたちの心に襲いかかって来ますが、わたしたちといつも共にいて、守り導いてくださると約束してくださっている神様とイエス様、ご聖霊に信頼して歩んでまいりましょう。主がこの災いからわたしたちを助け出してくださいます。

今朝も宣教に入る前に感謝を分かち合いたいことが二つあります。本当は三つあるのですが、一つは来週まで我慢します。まず一つ目は、TKキリスト教会のN先生が、今朝、8ヶ月ぶりにメッセージをされる、今この時にされていると言う感謝の報告です。昨年12月に脳溢血で倒れられ、長い闘病生活を送られ、今もリハビリ生活を送って来られていますが、主の憐れみのうちに今朝、TK教会でメッセージをされます。本当に感謝です。嬉しいです。大久保教会の皆さんにもずっと祈っていただきました。1月には私を宣教者としてTK教会に派遣してくださいました。お祈りに感謝いたします。神様はTK教会の皆さん、わたしたち、全国の諸教会の祈りに答えてくださり、N先生を牧師として戻してくださいました。神様は、わたしたちの祈りを聞いてくださり、必ず答えてくださいます。祈りは、わたしたちを神様につなげ、神様に信頼を置かせ、平安を与え、希望を与えます。ですから、今、皆さんにも大変な中にあると思いますが、主に信頼して祈ること、主が働いてくださる時を祈りつつ忍耐しつつ待つことが大切だと教えられます。

もう一つ感謝であったことですが、神学校に入学した1994年から26年間ずっと使用して来た英語の聖書がボロボロになりましたが、ずっと騙し騙し使っていました。そのうち新しい聖書を購入しようと考えていましたが、優先順位は非常に低いものでした。しかし、先週、親友からこの聖書がプレゼントされました。想像もしていなかった、期待もしていなかった所から突然、聖書が与えられました。英語の聖書は色々と訳があるのですが、わたしがずっと読んで使用して来たニューインターナショナル訳の聖書で、わたしは本当に驚きました。神様は、わたしたちの必要をわたしたち以上に良くご存知で、わたしたちの想像もしない時と場所から、わたしたちの必要を満たしてくださいます。神様は、そういう素晴らしいお方です。ですから、希望を捨てないで、疑わないで、迷わないで、主に信頼しつつ、誠実に、謙遜に歩ませていただきましょう。

さて、今朝はガラテヤの信徒への手紙3章19節から25節を通して、「約束に生きる幸い」というタイトルで、神様のみ言葉を共に聴いてゆきたいと願っていますが、今朝の宣教は2週間前の宣教の続きになりますので、少しだけ前回の宣教の振り返りをした上で、今朝の箇所をご一緒に読み進めてゆきたいと願っております。

前回は、「約束に生きる難しさ」ということが大きなテーマになりました。つまり、「約束を守る」ということが、いかに難しいことであるのか。何故難しいとわたしたちは感じてしまうのかということをお話させていただきました。主イエス様を通して神様と交わした約束に生きることは祝福であるはずであるけれども、どうしても難しく感じてしまう。その原因は一体何なのかということを聴きました。ご興味のある方は、12日のビデオをユーチューブで観ていただくか、教会ホームページの宣教欄からお読み頂ければと思いますが、とっても大切なことが私たちに語られたと思います。

大まかにお話すると、わたしたちは、いつも自分に対しては正直に、人々に対しては誠実に、神様と主イエス様に対しては忠実に生きたいと願っていて、そのことを常に心がけていても、取り巻く環境や状況の突然の変化、仕事の都合、経済的な理由、健康上の理由などによって、大切な人との約束を、主イエス様との約束を守ることが難しくなる、あるいは難しいと感じ、ストレスを感じることがあると思います。しかし、何故ストレスを感じるのか、その原因は何であるのか、ということを知る必要がわたしたちにはあります。その原因、根本的な間違いは、十字架に死なれ、甦えられた主イエス様の復活の力、神様の愛と憐れみを信じないで、自分の力や努力や行いで約束を守ろうとしてしまっているから、ということを聴きました。

パウロ先生は、ガラテヤ地方に生きるクリスチャンたちに、イエス様を信じ続け、神様からの一方的な愛と憐れみ、恵みによって救われたことを忘れないようにしなさい、主イエスさまに従うという約束を忘れないようにしなさい、そうすれば、その信仰によってあなたがたは完全に救われるとイエス・キリストの福音を語りました。しかし、ユダヤ教の影響を強く受けているユダヤ人クリスチャンたちは、「いや、イエス様を信じるだけではなくて、神様がモーセを通して与えられた律法を守ることによって救いを完成することができる、信仰だけでなく、自分の力、能力を信じ、救いの達成に励みなさい」と教えたわけです。

そのような中で、多くの異邦人クリスチャンたちは混乱しました。一体どちらを信じたら良いのだろうかと。そして、パウロ先生たちがガラテヤ地方にいなかったことで、ユダヤ教の影響を強く受けるようになって、異邦人たちには無関係であった「モーセの律法を守る」ということに傾いて行ってしまったわけです。そのような人たちにパウロ先生は「なぜ自分の力や努力で自分の救いを完成しようとそんな無駄なことをするのですか。何故“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」と問い、律法を守ろうとすることは自分で自分の首を絞めることになるのですよ、そこには救いはない、平安はないのですよと声を大にして言うのです。

そういう中で、パウロ先生は、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」とイスラエルの尊父アブラハムを引き合いに出して、神様の約束だけを信じる信仰の重要性を語り、そのように訴えます。アブラハムという人は、モーセを通してイスラエルの民に十戒、律法が与えられる430年も前の時代に生きた人で、神の言葉、約束の言葉だけをひたすら信じて、神様に「義」と認められた、つまり神様が喜ばれた信仰の人です。このアブラハムのように、神様の言葉であるイエス・キリストを信じて、約束に生きる人は信仰の人アブラハムの子とされ、永遠に祝福された者とされるとパウロ先生は語るのです。

さて、今朝の聖書箇所である3章19節から25節には、使徒であるパウロ先生が記した数多くの書簡の中でも、非常に重要な「キリスト教とユダヤ教の律法の関係性」というテーマが記されています。つまり、なぜ神様はイスラエルの民に『律法』をお与えになったのかというテーマと、この律法はキリスト・イエスを救い主と信じるクリスチャンたち、キリスト教会とどのような関係性、関連性があるのかというテーマが記されています。

この箇所には、19節の「律法とはいったい何か」と、21節の「律法は神の約束に反するものなのでしょうか」という2つの重要な問いかけとその重要な答えが記されていて、1世紀に生きたクリスチャンたちにとっても、21世紀に生きるわたしたちにとっても見逃せないテーマです。しかし、重要なテーマであればあるほど複雑であって、容易く理解できるものではありません。ですから、わたしたちに必要なのは、神様の豊かな憐れみと、御心を知りたいと切に願う心と、そしてその御心を教えてくださる神様の霊、ご聖霊です。

それらを祈り求めつつ、聴いてゆきたいと思いますが、ここで注意したいことは、今から話されることを全部理解しなければいけないと自分にプレシャーをかけないことです。たくさん語られる中から幾つかを心に収めることが大切であって、すべてを理解できないことは恥ずかしいことでは決してありません。理解できる時は今ではなくて、その時は将来にある、神様のご計画の中にあるということです。ですから、気持ちを楽にして、心をゆっくり開いて、今朝受けられるものだけを受けて、その受けたものを喜び、感謝すれば良いのだと私は思っています。

さて、この19節から25節で、パウロ先生が今日を生かされているわたしたちに伝えたい事というのは、これです。神様がモーセを通してイスラエルの民に与えられた律法よりも、その430年前に、神様がアブラハムに直接与えられた約束の方が遥かに重要であるということです。律法を守るという「行い」よりも、神様の約束を信じるという「信仰」が大切であるということです。よろしいでしょうか。行いではなく、信仰なのです。わたしたちの努力ではなくて、神様の憐れみ、恵みなのです。

前回もお話ししましたように、神様とわたしたちとの関係性の土台は、イエス様という神の愛を受け取り、約束の言葉、神のひとり子、救い主を信じる信仰であって、神様の命令を厳守するというわたしたちの努力や行いの上にあるものではありません。神様の愛がわたしたちを創り、イエス様の愛と犠牲がわたしの罪を赦し、わたしたちを生かし、整え、神様の御用のために主がわたしたちを用いられるのです。神様を愛するとは、イエス様との約束を守るとはいったい何なのか。それは、神様に信頼すること、神様との信頼関係の中で、生かされることです。主イエス様から差し出される手を決して離さないで、イエス様と一緒に生きてゆくということです。神様の愛のうちに生きるために、永遠に生きるために、イエス様を救い主と信じ、イエス様との約束に日々生きること、生き続けることがわたしたちにとって重要で、神様がそのように日々助け、励まし、導いてくださるのです。たとえわたしたちの人生に大変なことがあっても、イエス様が与えてくださる約束を信じて歩む時、その人生のすべては祝福となってゆく、それがイエス様の福音なのです。

さて、「律法とはいったい何か」という問いに対して、19節の後半から20節に答えが記されています。三つの側面からお話しします。一つ目は、律法がイスラエルの民に与えられた目的ですが、「違犯を明らかにするため」と明確に記されています。神様とイスラエルの民の関係性のすべては、神様がアブラハムに与えられた約束から始まりました。この約束をイスラエルの民が次第におろそかにし、神様との関係性を軽んじるようになったので、関係性を壊す民の「間違い」を明らかにするために与えられたものであるとパウロ先生は言っていて、民たちの救いを完成させるものでは決してないと言うのです。

二つ目は、律法は限られた時間の中で与えられたものであるということです。「約束を与えられたあの子孫、つまりイエス・キリストが来られるときまで」のものであるとパウロ先生は言います。救いをもたらす救い主がすでに来てくださったのですから、律法にしがみつく必要はないと言うのです。

三つ目は、律法は「天使たちを通し、モーセという仲介者の手を経て制定されたもの」であるということです。旧約聖書の申命記33章には「天使たちを通して」律法がモーセに伝えられたと言うことは記されてはいないのですが、使徒行伝7章38節と53節、またヘブル人への手紙2章2節を読みますと、モーセがシナイ山で十戒を受け取った時、神様は天使を通してモーセに律法を与えたと記されています。つまり、律法は間接的に、天使とモーセを介してイスラエルの民に与えられたものであると言うことと、「約束の場合、神は一人で事を運ばれた」とあるように、神様は直接的にアブラハムに約束を与えられた。故に、約束の方が重要なのだ、約束に生きることが大切なのだと言うのです。

「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか」とパウロ先生は問うています。そしてすぐに「決してそうではない」と答えています。しかし、そのパウロ先生の答えだけで納得するユダヤ人クリスチャンはいません。ですから、パウロ先生は25節までで丁寧に説明をしようとするのです。もちろん、律法には大切な目的と役目がある。神様との関係性を保ち、もし間違った事をしたら軌道修正できるようにするために与えられたものであるよね。また、「万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書は、つまり律法はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです」とパウロ先生は続けて言っています。つまり、律法は、人の罪を明らかにするけれども、人を裁く道具になってしまい、人を苦しめ、希望を奪い去ってしまうものになってしまって、人を許し、自由を与え、命を与えるものになっていないと言うのです。しかし、救いは、神がアブラハムに与えた約束を通して、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられるのです。この信仰によって人は神のみ前に義と認められ、神の喜びとなり、神が喜ぶ霊の実を結ぶ存在になると言うのです。

24節に「律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです」とありますように、律法はわたしたちに罪を自覚させるものであって、律法には救いはないのです、救いはイエス・キリストにあるとパウロ先生はガラテヤの人々に伝え、この恵みにとどまり続け、律法の下で生きることはしないようにと励ますのです。

律法の時代はイエス様の十字架と復活によって終わり、今はイエス・キリストを信じる信仰によって、恵みのうちに生きる幸いな時代にわたしたちは置かれているのです。ただ、信じて、喜んで、感謝してゆくことが大切で、その恵みのうちに生かされてゆく中で、神様とイエス様がわたしたちに望んでおられる聖霊の実を結ぶことがご聖霊の励ましの中でできるように、主がそうしてくださいます。行いから解放され、約束に生きる幸いを主から受けましょう。