終りまで、お前の道を行きなさい

宣教「終りまで、お前の道を行いきなさい」 大久保バプテスト教会副牧師 石垣茂夫    2022/09/18

聖書:ダニエル書12章1~13節(p1401)

はじめに

聖書朗読では、ダニエル書12章をお読みいただきました。この箇所は、10章の小見出しに「終りの時についての幻まぼろし」と記されていまして、12章までの、長い一続きの文書です。ここは、「終末」について、御使いとダニエルが対話している場面です。

皆様はマルティン・ルターを良くご存じだと思います。

ルターは、教会にラテン語の聖書しかないことに問題を感じていました。そこで、自分の国の言葉で聖書が読めるようにと、旧新約聖書全巻をドイツ語に翻訳した人です。

このルターはある日、ダニエル書の翻訳を終え、自分の領主であるフリードリ候こうにそのドイツ語ダニエル書を送りました。そのときに添えた手紙には、自分の思いを、つぎのように書いたという事です。

「フリードリヒ閣下、ドイツ語ダニエル書を献呈します。わたしがこのダニエル書を翻訳していたときのことですが、翻訳すべき聖書はまだ残っていますのに、66巻、全ての聖書の翻訳を終えないうちに、終末が来てしまうのではないかという恐れが、今、わたしに迫っています。」と書きました。

そしてルターは続けてこう書いたのです。

「しかし、明日、世の終わりが来ようとも、今日、わたしはリンゴの苗木なえぎを植えます。」と書いたのです。

 

ルターが手紙にこのように書いたことで、「明日、世の終わりが来ようとも、今日、わたしはリンゴの苗木なえぎを植える。」という有名な言葉が残りました。

わたしたちは、世の終わり、終末について不安を抱くことがあります。しかしこれを気にしないと、ルターは言っているのではありません。ルターは、ダニエル書を翻訳している時に、「世の終わりと自分の終わりを受け入れよう。同時に、この世の終末の時期は、神様に委ねよう」、そのような信仰に導かれていったのです。そして、「そのときが来るまで、与えられた一日一日を大切に生きる、そのような生き方を選び取ろう。」そのような思いを、ルターはこの言葉に表したのだと思います。

「明日、世の終わりが来ようとも、今日、わたしはリンゴの苗木なえぎを植える。」

皆様は、「終りの時」について、どのようなお考えをお持ちでしょうか。

コロナウイルスが発生し、終息の見通しが得られない中で、多くの人が疲弊しています。

現在は、地球全体で異常気象となり、各地で大規模な水害や森林火災が頻発しています。

そのうえ、もう本格的な戦争は起きないと思われ、長年にわたって融和の試みがなされてきましたのに、ウクライナを戦地とするロシアとの戦争が起きてしまいました。そのためわたしたちは、裏切られたとの思いを持ち、人が信用できなくなりました。

これらを終末の現象と捉えるには早すぎるでしょうか。

8月の途中から9月にかけて、みなさまと一緒に教会学校でダニエル書を学ぶ予定でしたが、それは叶いませんでしたが、8月に続き、今朝はダニエルが経験したことを通して、「終りの時」、「終末」に向かって歩むわたしたちの生き方をダニエル書に学びたいと願っています。

 

「ダニエルの生涯と晩年」

ダニエルは少年のころ、同世代の三人と一緒に、バビロニアの王宮に仕えるため、ユダヤからバビロンに連れてこられ、そこで高度の教育と格別のもてなしを受けて生活していました。

しかし、恵まれた異国での生活によって、むしろユダヤ人であることを強く意識するようになり、自分に与えられていた信仰を捉えなおしながら、異質な教えとの闘たたかいを、繰り返すことになりました。

 

現代に於いても、日本はもとより世界中に、こうした異質な境遇で生きるように導かれた多くの人々の姿を見ることが出来ます。ことに宗教の問題になりますと、みなさんが、そうした境遇の中で、試練と闘って生きています。キリスト教国に生きるキリスト者であっても、それだけで安心という事はありません。むしろ、更に深刻な苦しいみを強いられることもあることでしょう。

 

ダニエルは、初めは役人として登用され、やがて政治家としての高い地位が与えられますが、どのような立場に就いても、ユダヤ人であることを忘れず、主なる神への信仰を貫きながら生きていきました。そのために、繰り返して試練を受けますが、最初に与えられていた「主なる神」への信仰が、ダニエルを守り、逆に、主なる神を証しする生き方となりました。

 

今、ダニエルは晩年を迎えています。高齢になったダニエル自身が、この世の最後の有様について御使いと対話をしています。

十二章のはじめには、「その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。」とあります(12:1)。

そして、「しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。」と書かれています(12:1)。

「あの書」とは「命の書」(フィリピ4:3、黙示3:5)のことです。

神様はご自分に属する者たちのことを書き留めておられると言われます。わたしたち信仰者一人一人は、神様の記憶の中にしっかりと刻まれているという事です。

しかしこれで終わりではありません。12章2節と3節を注意して読む必要があります。

多くの者が地の塵の中の眠りから目覚めるある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。(12:2)

「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。」と、わたしたちの復活を言っています。しかし皆が復活して永遠の命に入るとは言っていません。そこには区別があると言っています。

「ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」。

過去のことは皆、水に流してしまうと言うのではなく、その人がどのように生きて来たのか、そこには区別があると言っています。

12:3 目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。

「多くの者の救いとなった人々」とは、多くの人々と共に、神を中心とした生活に導かれて生かされていくことです。

あなたは、そのような意味ある生き方を、神の前にしてきたのかと、そのことが問われると言っています。とても厳しい言葉です。

 

5節以下の言葉に移ります。

12:5 わたしダニエルは、なお眺め続けていると、見よ、更に二人の人が、川の両岸に一人ずつ立っているのが見えた。

12:6 その一人が、川の流れの上に立つ、あの麻の衣を着た人に向かって、「これらの驚くべきことはいつまで続くのでしょうか」と尋ねた。

6節に、「これらの驚くべきことはいつまで続くのでしょうか」と尋ねたとあります。「これらの驚くべきこと」とは、このダニエル書が生み出された時代の苦悩を言っています。

12:7 すると、川の流れの上に立つ、あの麻の衣を着た人が、左右の手を天に差し伸べ、永遠に生きるお方によってこう誓うのが聞こえた。「一時期、二時期、そして半時期たって、聖なる民の力が全く打ち砕かれると、これらの事はすべて成就する。」

「一時期、二時期、そして半時期」とは、これは、苦難がいつまでも続くのではないことを言うために、敢えて時を区切っています。それぞれの時代には、終わりがあるという意味です。

ダニエルが最初に仕えたバビロニアは、やがてペルシアに滅ぼされます。長く続いたペルシア帝国も、マケドニアに打ち負かされました。ところがマケドニア王アレキサンダー大王の突然の死によって、ギリシャの四つの国に分けられ、その時代のユダヤは、隣国シリアの支配下に置かれました。著者ダニエルは今、そこに生きています。

 

「ダニエルの時代」

ダニエル書は紀元前二世紀半ばに書かれました。

著者は、ダニエルという架空の人物の名前を借りて、シリア王、アンティオコス・四世エピファネスをの政治を批判します。直接語ることには恐れがあり、時代を400年遡さかのぼったバビロン捕囚、紀元前六世紀に設定して、現在の政治を批判しています。あなたの時代はいつまでも続くのではない、歴史は神が支配していると警告しているのです。このように、間接的にしか、今の時代を批判できないという、その時代の苦悩が偲しのばれます。

シリア王エピファネス四世は、ユダヤのギリシア化を進めました。

エルサレム神殿に、ギリシヤの神ゼウス像を置き、これを礼拝せよと命じました。

そのうえ、ユダヤ人が最も嫌う豚肉を食べるようにと強要しました。

このように、信仰も生活もギリシャ風になるように支配し、ユダヤ人の尊厳を傷つけたのです。

そのために、ユダヤ人反乱分子が起こす暴動が頻発した時代でもありました。

しかし抵抗できる手段は限られ、失望感が人々を覆おおっていました。

そのような時代に、顔を伏せて生きなければならない人々を励ます目的で、ダニエル書は書かれました。

救いのことが語られ、命の書のこと、神に知られていると語られました。死では終わらない、やがて復活すると告げられていました。そして最後に、神の裁きが語られました。

さて、ダニエルは、これで納得できたのでしょうか

 

「わたしには理解できなかった」

「こう聞いてもわたしには理解できなかった」ので、尋ねた。「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか。」(12:8)

ダニエルはここまで聞いて来ても「理解できなかった」のです。6節で、川岸に立つ人が「いつまで続くのでしょうか」と、終わりの時を尋ねたように、ダニエルも「終わりはどうなるのか」と重ねて尋ねています。

 

一年ほど前のことですが、ある日の祈祷会で、お互いに、どのような思いで信仰の道に進んだのだろうかと、対話したことを覚えています。

その時の強い印象として残っているのは、「お互いに、十分にすべてが分かって信仰に入ったのではない」という事でした。それだからと言って、何も分からぬまま、何かの感情に引きずられて従ったのではなく、十分には分からないところを残しながら、教会と教会の導きを信頼して従ってきたのではないか。

信仰には、「分からないが従う」という、そうした面があるのではないか、そのような話を交わしました。

 

これまで沢山の苦難を経験をし、繰り返し神の導きをいただいて来たダニエルですが、十分には分からないし、分かり切れないものが沢山ありました。それでも、正直に「わたしには理解できない」と言いつつ、なお尋ね求めていったのです。そこが大事だと思います。

わたしたちの周囲には、わたしたちを神様との交わりから引き離そうとする力が働いています。イエス・キリストに従うことから遠ざけようとする力に溢れているのです。

そのような惑わす力が働く中で、ダニエル書は次の言葉で終わっています。

「 終わりまでお前の道を行いき、憩いこいに入りなさい」(12:13)と。

 

続けて御使いは、「時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」と言われました。「お前は復活し、永遠の命を受ける」と、御使いは告げたのです。

ダニエル書3章には、13節以下で、ダニエルたちの次のような決意が記されており、ダニエル書の核心だと言われています。

あるとき、ネブカドネツァル王が造った金の像を拝まなかったことで、ダニエルの三人の友は、熱く燃える炉に投げ込まれようとしていました。そのとき王は、「お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」(3:15)と問いかけています。三人は、「わたしたちの神は必ず救ってくださいます。たとえ、そうでなくとも、王様の神々や金の像を拝むことは致しません」(3:17,18)と答えました。

「お前たちの神は、救う力があるか」と、現代のわたしたちも問われています。

わたしたちにとって、今、明確な救いが見えないと思われるようなときにも、主は、どこまでも共に居てくださいます。「たとえ、そうでなくとも」と言い切ったダニエルたちの信仰に倣って、わたしたちも歩んでまいりましょう。

ダニエルたちは見ることが出来ませんでしたが、やがてこのことは、主イエスご自身が、十字架と復活によって、わたしたちのために勝ち取ってくださいました。

そのように備えられていますので、わたしたちは今、与えられている現在の命を大切にし、神に委ねて日々歩んでまいりましょう。【祈り】