罪にある人々を神の子とするために

「罪にある人々を神の子とするために」 クリスマスイブ礼拝 宣教 2021年12月24日

 ヨハネによる福音書 1章4〜5、9〜12、14節     牧師 河野信一郎

ヨハネによる福音書の1章4節から5節、9節から12節、14節をお読みします。

4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 
5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 
9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 
10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言をめなかった。 
11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 
12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる格を与えた。 
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

クリスマス、おめでとうございます。2021年のクリスマス前夜に、神様からプレゼントされた神の御子イエス・キリストのお誕生をお祝いする礼拝をこのようにおささげすることができて、本当に感謝です。クリスマスは、神様からこの地上に遣わされたイエス・キリストがわたしたちの救い主であること、神様はわたしたちをそれほどまでに愛してくださっていることを知り、感謝と喜びをもってイエス様を迎え入れる時です。

2020年と、あと1週間で終わる2021年は、新型コロナウイルスやその変異株に翻弄された2年間でしたし、2022年もどのような年になるのか、正直分かりません。しかし、そのような暗闇の中を彷徨うわたしたちと共に歩んでくださるために神様は救い主を与えてくださいました。礼拝への招きの言葉として読みましたヨハネによる福音書1章1節から5節には、このイエス・キリストが神様から離れ、神の言として、救い主として、この世の闇の中でわたしたちを照らす「光」として、この地上に来てくださったということが記されています。

しかし、多くの人々は、自分の生活が楽しすぎて、忙しすぎて、あるいは心が疲れすぎて救い主を心に迎える暇や余裕や興味がありません。クリスマスも自分や愛する人の心を喜びや感動で満たすためのイベントとなっています。聖書は語ります。「あなたがたを照らすまことの光があなたがたの只中に誕生されたのに、あなたがたはその光・救い主を理解しようとしない。認めようとしない。受け入れようとしない」と。

わたしたちは、自分という存在を理解してもらうために、認められるために、受け入れてもらうために一生懸命に生きて、勉強したり、仕事をしたり、愛したり、物や何かを人にあげたり、ある程度のことは容認したり、犠牲もある部分我慢したりします。

しかし、自分の思いが理解されなかったり、頑張りようが認められなかったり、存在を受け入れてもらえなかった時、わたしたちは悲しみます。拒絶されたら、わたしたちは人の渦の中で路頭に迷い、ある人は価値のないものと自分を判断し、ある人は人々を憎み、ある人は他の関係性を探そうとするでしょう。

しかし、自分の民のもとへ来たにも関わらず理解されない、認められない、受け入れてもらえなかったイエス・キリストは、自分を卑下したり、誰かを憎んだり、他の民を探して関係性を築こうとはせず、ご自分の民の只中に残り続け、教え続け、祈り続け、愛し続け、最後にはご自分の命をもささげてくださいました。何故それほどまでにしてくださるのでしょう。

その答えが聖書にはっきりと記されています。ヨハネによる福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。これがクリスマスのメッセージです。

すべての人は神様によって創造され、命と息が与えられ、生かされています。しかし、わたしたちの多くは、神様という存在を無視し、神様の愛に頼って生きるよりも、自分の知恵と力、富や健康を頼りに生きる道を選び、自分の持っている運やポテンシャルに人生をかけてみようとし、努力の上に努力を重ねます。自分なりに人生計画や目標を立て、それを得るために様々なことを犠牲にしてきました。しかし、新型コロナウイルスという目に見えない恐れが襲来し、立てた予定、計画、目標が崩れ、あるいは大幅な修正・変更、または諦めることを余儀なくされました。自分の力だけでは防ぎようのない大きな力を経験し、人生の危機、孤独、恐れ、暗闇を経験します。

ある人たちは「諦めが肝心」とすぐに切り替えができるのですが、わたしを含めて多くの人はそのようにはいきません。何がいけなかったのかと悩み、自分を責めたり、最悪の場合、誰かの所為にしてその人を恨んだり、そういう中で心を消耗して落ち込んでゆきます。人前では大丈夫かのように嘘の笑顔を振りまき、自分にも人にも嘘をつき、もっと虚しさや孤独感にさいなまれて落ち込みます。どうにかこうにか生きてはいるけれども綱渡り状態、何処に向かって歩んでいるのかも分からない。わたしを含め、ほとんどの人が心に何かしらの「闇」をもっているのではないでしょうか。そのように生きることは、とても辛いことです。

 愛する人を失ったり、家族から離れている人。困窮した状態にある人。病いにある人や愛する家族が病いを負って苦しんでいるのをいつも見て傷んでいる人。親子関係、夫婦関係、人間関係で行き詰まっている人。家族の看病や介護で疲労困憊の人。将来に不安を抱いている人。思いや熱意が理解されなかったり、頑張りようが認められなかったり、受け入れて欲しいのに受け入れてもらえない。わたしたちは、そのような一人かもしれません。

 しかし、そのようなわたしたちに寄り添い、光の中に招き入れ、心が離れていた神様に再びつなげるために、イエス様は救い主としてわたしたちの只中にお生まれくださったのです。

 去る日曜日のクリスマス礼拝では、イエス・キリストはわたしたち罪にある人を神様につなげるためにこの世に来てくださった救い主であるということをお話しいたしましたが、今夜は、わたしたちを神の子とするために神様から遣わされた救い主であるということをお伝えし、神様からのプレゼントとして、イエス様を心に受けていただきたいと願っています。

 11節と12節に、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とあります。

ここに神の子となる「資格」をイエス様が「与えた」とあります。この「資格」という言葉は、特権、権利、力、権能という言葉にも訳されていますが、神の子という身分になることは恐れ多いと感じるかもしれませんし、そんな資格は自分にはないと思われるかもしれませんが、それは当たり前に抱く感情です。わたしたちは神様に背を向けて生きて来た「罪びと」です。神の子になる資格も、権利も、力もありませんし、その術も知りません。明日の命があるかも分からない、そういう弱いわたしたちです。

しかし、わたしたちに神の子となる身分を与えてくださるのは、神様であり、そのためにイエス様はこの地上にお生まれくださった。この救い主が神様とわたしたちを隔てていた罪からわたしたちを解放し、神様に再びつなげ、神様の子として永遠に生きる者とするためにわたしたちの罪をすべてその身に負ってくださり、十字架に架かって死んでくださり、復活をもって永遠の命への扉を開いてくださいました。

12節をもう一度読んでみましょう。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる格を与えた」とあります。イエス・キリストを救い主と信じ、受け入れた人が神様の愛を受け取り、神の子とされる恵み、救いが与えられるのです。

聖書のお話、キリスト教のこと、救いのこと、理解できないことがまだたくさんあります。自分が罪びとであると受け入れるのも困難です。しかし、わたしたちを決して諦めない愛の神様とイエス様が共にいてくださいますから、わたしたちも諦めてはいけません。大切なのは、理解と受け入れることと認めることができるように心を神様に向けて開いてみること、そしてお祈りしてみることです。ご一緒にお祈りいたしましょう。

「神様、わたしは自分が何者であり、どこに向かって生きているのか分からない、闇の中で苦しみ悶えている者ですが、そのようなわたしをあなたが愛してくださり、救い主を送ってくださったと今夜聞きました。わたしの心をあなたに開きますので、どうぞわたしにあなたの愛を教えてください。あなたの愛を信じ、喜ぶ者にしてください。御名によって祈ります。」