聖霊:力を与える神

「聖霊:力を与える神」 ペンテコステ・五月第四主日礼拝宣教 2021年5月23日

 使徒言行録 2章1節〜13節      牧師 河野信一郎

おはようございます。主イエス・キリストに代わる助け主として主が約束され、神様から派遣された聖霊の降臨を記念するペンテコステの日の朝です。今朝も皆さんとご一緒に喜びの賛美と感謝の礼拝をオンラインでおささげできる幸いを神様に感謝いたします。今朝も大久保教会のオンライン礼拝に出席くださり、ありがとうございます。とても感謝で嬉しいです。

教会員の方々はもちろんのことですが、客員の皆さん、ゲストの皆さんがオンタイムでご一緒に賛美と礼拝をおささげくださって心から喜んでいます。あとでビデオをご覧くださる方々もおられますので、その方々も感謝です。このカメラの向こう側にどのようなお方がおられるのか全て把握できませんが、そういうはっきりしないことも、それはそれで良いのではないだろうかと去年の7月頃から、あることがきっかけに感じるようになりました。

去年の今頃5月6月は、ライブ配信をフェイスブックで見てくださった人数だとか、「いいね」の数だとか、ユーチューブの視聴回数などをとても気にして、「今日はとても多い、今日は少ない」と勝手に喜んだり、勝手に落ち込んだりしていたのですが、そういう人のリアクションとか数字にとらわれることは馬鹿馬鹿しいと感じるようになりました。本当に大切なのは、神様がこの礼拝を喜んでくださっているか、それが第一。第二に、礼拝をささげて宣教を聞いておられる方々に福音がしっかり届けられているかということです。

先週、ある方とお話ししている時に、その方のお友だちが健康上のことやコロナのこともあり、教会からしばらく遠ざかっている、礼拝に出席して牧師のメッセージを聞いても心に入ってこないと言われたということを聞きました。高齢になり、長時間の電車での移動も身体にこたえるようになった、だから教会から足が遠のいているという言葉を聞いて寂しさも覚えましたし、「自分の宣教は聴く人たちの心に入っていっているのだろうか」と感じました。

そういうモヤモヤしたわたしの心の中にベストなタイミングで入ってきたのが使徒言行録16章14節15節の言葉でした。本来は、今朝の教会学校の中でご一緒に聴く箇所でした。「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者もバプテスマを受けた」という言葉です。ここに記されているのは、リディアという女性が自分の意思で心を開いたからイエス様を信じてバプテスマを受けたということではありません。確かに彼女にも救い・平安・喜び・希望を求めている心はあったでしょう。しかし、「主が彼女の心を開かれた」のです。よろしいでしょうか。神の霊である聖霊が彼女の心を揺さぶり、彼女の心を開き、神様の愛を注がれたのです。人の業ではなく、神様の御業なのです。

今朝の宣教のテーマは、この「主が彼女の心を開かれた」というみ言葉にインスパイアされました。聖霊の導きを感じたということです。今朝は、聖霊がイエス・キリストを救い主と信じる人々の只中に神様から派遣された理由は何であったのか、聖霊が降臨したのはどのような目的が神様にあったのかということをご一緒に聴いてゆきたいと願っています。そして最終的には、わたしたちに必要な「救い」というのは、わたしたち人間の業、努力と行いによるものではなく、神様の愛の御業であり、神様からのプレゼントであり、神様からの一方的な恵みであるということをご一緒に聞いて、喜んで、感謝して、リディアのようにイエス様を信じたいと願われる方は今朝お心にイエス様をお迎えいただいて救いを受けて欲しい、そして新しい週を聖霊に励まされて、聖霊と共に歩み出していただきたいと願っています。

今朝ご一緒に聴いてゆきたい聖書箇所は、聖霊降臨というペンテコステの出来事が記されている使徒言行録の2章の最初の部分ですが、先週の主日礼拝において石垣副牧師が3章から宣教されました。神殿の「美しい門」の廊下で長年足が不自由であった男性と出会い、彼に対して使徒ペトロが「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と宣言し、その男性を立ち上がらせると、彼はたちまち癒されて歩けるようになり、道ゆく人たちから施しを乞う者から神を賛美する者へと変えられたという救いの出来事を聴きました。

「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」というペトロの言葉、確かに初対面の人が何十年も足が不自由であった人に対していきなり「立ち上がり、歩きなさい」というのは乱暴な言い方であると思います。しかし最も重要なのは「イエス・キリストの名によって」という言葉です。ペトロは、自分の目の前の人は、イエス様の救いの力、復活の主の力によってでなければ救われない、彼に必要なのはお金ではなく、イエス・キリストであると確信していたのです。ペトロのこの確信、そのように宣言する大胆さと勇気を彼に与えたのは、神様である聖霊です。ペトロにそのような力があったからではありません。聖霊がペトロを導き、力づけ、目の前の人をじっと見つめ、真剣に向き合い、確信をもって癒しと救いを宣言する言葉と力をお与えになった。その前の2章14節から記されているペトロの説教もすべて、聖霊による満たしと励ましと言葉が彼に与えられた恵みの結晶なのです。

ペトロの言葉に励まされ、その言葉を素直に聞いた男性は神様からの救いへの招きに素直に応えることによって癒され、不自由さから解放され、大きな喜びに満たされました。しかし、彼の心も神様が開かれたのではないでしょうか。わたしはそう感じます。彼は人々の一時的な憐れみではなく、神様の永遠の憐れみ、愛を必要としていて、イエス様という主の憐れみを素直に受け取ることによって癒しと救い自由が与えられます。すべては神様の恵みです。

皆さんはどうでしょうか。一時的な救済処置や休息や平安・平和ではなく、ずっとずっと続く救いと平安を追い求めておられるのではないでしょうか。それを完全な形で与えてくださるのが、父なる神、御子イエス・キリスト、そして聖霊なのです。三位一体の神なのです。

神様が御子イエス・キリストをこの地上にお遣わしになられるまで、わたしたちは罪によって神様から離れていました(Disconnected)が、イエス様によって再び神様につなげられる救い・恵みが与えられました(Connected)。イエス様がわたしたちの罪の代償を十字架上でその命をもって支払ってくださる中、そのつながりはさらに強靭なものになりましたが、イエス様が十字架で死なれた時、弟子たちはイエス様とのつながりは終わってしまったと悲しみ、途方に暮れていました。しかし神様がイエス様を死から引き上げて甦らせ、復活したイエス様が弟子たちに出会って励まし、地上でのこれからの使命を明確にお与えになりました。

しかし、弟子たちと40日間過ごされた復活の主イエス様は、弟子たちの見ている前で天へと引き上げられてゆきました。物理的と言いましょうか、肉体的にイエス様と弟子たちのつながりが途絶えてしまったかのような形です。しかし、弟子たちと、そしてわたしたちと時と空間とありとあらゆる物理的障害を越えて霊的につながるために、神様は聖霊をこの地上にお遣わしになられました。物理的・肉体的なつながりには様々な制限や障害がありますが、霊的なつながりにはそのような制限や障害はありません。神様はイエス・キリストを救い主と信じるすべての人とつながり続けるために聖霊をお遣わしになりました。

さて、ペンテコステの日の出来事を2章の1節から読んでゆきましょう。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」と2節までにそう記されています。「彼ら」とは、イエス様を救い主と信じる人々のことです。キリストに従う人々の群れです。

ここからご一緒に覚えたいことが二つあります。一つは、聖霊はイエス・キリストを信じる者たちの集まりの只中に与えられたということです。当たり前のことですが、イエス様を信じない人、信じられない人には神の霊は臨まないということ。ですから、イエス様を信じる者たちの集まりには大きな意味があるということが分かると思います。もう一つは、イエス様を救い主と信じる人々の集まり、群れ、教会に「天から」、つまり神様から愛と力が豊かに注がれるということです。わたしたちの努力とか信仰という以前に、神様から祝福をもって与えられ、わたしたちは素直に、へりくだって、ただ受ける信仰だけで良いということです。

次の3節に「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。神様から送られた「舌」がクリスチャン一人一人の上にとどまったとあります。オカルト的なことに思いが傾いてしまうかもしれませんが、重要な問いは「何のために神様から聖霊が派遣され、舌がイエス様を救い主と信じる者たちに臨んだのか」ということです。

何のために聖霊が遣わされたのかという理由は、神様とわたしたちをつなげ続けるためです。何故つなげられているのか。つなげられていないとわたしたちはまた神様から離れ、神様を見失い、闇に逆戻りし、その中を苦しみ悶えながら彷徨うようになるからです。つなげられていないと自分の力や努力や信念だけで生きてしまうからです。神様につなげられていないとこの地上で生きてゆく意味、目的、生きる力、喜びと平安と希望が与えられないからです。

イエス・キリストを信じる者たちの上にとどまった「舌」は、神様の愛と赦し、イエス様による贖いと救いと希望を語るため、人々と分かち合うために与えられた神様の力です。聖霊が遣わされたのは、神様の力によってわたしたちが満たされ、励まされ、聖霊が語らせるままにイエス・キリストの十字架と復活を、その出来事を通してすべての人に与えられている救いを大胆に分かち合うため、共に主の恵みに与るため、永遠に与るためです。

聖霊に満たされた弟子たちは、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と4節後半に記されていますが、続く5節から13節にはこの神様の御業、天からの音、弟子たちが他の国々の言葉でイエス様のことを語っている出来事を見聞きした人々はあっけに取られてしまったと記されています。ある人々は驚き、ある人々は怪しみ、ある人々は「いったい、これはどういうことなのか」と戸惑ったと記されています。その中には「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける人たちがいたとも記されています。神様の真の力を受けない人は、あっけに取られるか、驚くか、怪しむか、戸惑うか、あるいは自分たちの経験だけで結論づけて笑い飛ばすしかリアクションの取りようがないのです。

さて、聖霊とはわたしたちに力を与えてくださる神であることを今朝お伝えし、そのことを今日から始まる日々の中で心にとめ、主に委ねて生きていただきたいと願う者ですが、皆さんは次のうちのどちらの力をいつも神様に求めて祈っておられるでしょうか。一つは「○○できる力」。もう一つは「○○する力」。例をいくつか挙げてみたいと思いますが、例えば、信じることができる力と信じる力、喜べる力と喜ぶ力、感謝できる力と感謝する力、祈れる力と祈る力、賛美できる力と賛美する力、歩ける力と歩む力、献げられる力と献げる力、委ねることができる力と委ねる力。他にもたくさんありますが、どうぞご自分のこととして少し振り返ってみてください。皆さんはどのような力を神様に求めておられるでしょうか。

「○○できる力」とは、自分の力を保持しながら求める力、もっと簡単にいうと「自分の力プラス足りない部分は神様お願いします」という力です。「神様、これだけは信仰をもって、責任をもって頑張りますから、もし足りない部分が出たらその時が許してください」という力です。もう一つの「○○する力」とは、神様の御力にのみ信頼して前進する力、信仰です。

「神様、あなたを信じます。どうぞわたしに力を与え、この者をあなたが力づけ、導き、あなたの御用のために用いてください。わたしには傲慢になる力はあっても、へりくだって人々に仕える力はありません。主よ、どうぞあなたの愛と力でわたしを生かし、その憐れみと恵みを分かち合う者としてください」と切に祈り求める者に礼拝と賛美の力、さらなる祈りの力、神と教会と人々に仕える喜びと感謝という力が豊かに注がれ、与えられ、主の栄光、喜びのために用いられるのではないでしょうか。主イエス・キリストの十字架と復活を証しする言葉と機会と勇気が与えられるのではないでしょうか。今朝、主はこのみ言葉をもってわたしたちを励まし、それぞれの持ち場へと派遣されようとしておられるのではないでしょうか。すべての力はイエス・キリストに結ばれる中でその言葉と聖霊を通して与えられます。