自分を見つめ直す時

「自分を見つめ直す時」 十月第四主日礼拝宣教 2021年10月24日

 ネヘミヤ記 9章32〜37節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。日に日に秋が深まる中で肌寒さも増しておりますが、今朝も神様からのお招きに与り、オンラインで、またこの礼拝堂で、皆さんとご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。すべてが神様の愛とお取り計らいの御業、恵みで本当に感謝です。早いもので、10月もあと1週間となりましたが、日々いかがお過ごしでしょうか。

先週、わたしの生活の中でとても面白い現象があったので少し分かち合いたいと思いますが、わたしは「河野」と申します。教会では耳慣れた名前だと思いますが、初対面の方などは、わたしの名字をご覧になってどのように読むのか、選択肢が二つあるので少し不安になられると思います。ふりがながふってあれば、間違いなく「かわのさん」と呼んでくださいます。

しかしながら先の自民党総裁選で名字が同じ漢字でも読み方の違う方が総裁に立候補され、その方のお顔とお名前が連日メディアで報道されましたので、この三水偏の「河」に野原の「野」の名字は「こうの」と読むと思い込まれる方が多くなったと思います。わたしが長年お世話になっています病院で受診しましたが、受付の係りの方も、看護師さんも、内科のお医者さんも、薬局の薬剤師さんも、それまで正確にわたしを呼んでくださっていた方々が、「こうのさん」と100%呼ぶようになり、テレビやラジオ、SNSの媒体から音として流れてくる情報、耳に入ってくる情報はわたしたちに非常に大きな影響を与えるのだと痛感いたしました。

わたしたちを取り巻く社会は、わたしたちに大きな影響を与えるもので溢れています。わたしたちが生活する上で身を置く環境、そして日々受ける教育や情報は、すべて良いものとは限りません。知らず知らずのうちに誤った情報が入り込み、わたしたちに悪影響をもたらすものもあるわけです。悪い情報や考え、思想や知識をあたかも正しいこととして教えられたり、刷り込まれたりしますと、わたしたちの思考は誤った方向に進んでしまい、特に対人関係に甚大なる影響を及ぼし、不必要に戦い、傷つき、分裂し、恐れや不安を抱くようになり、そのため心と身体がアンバランスになります。恐れや怒りや不安の奴隷になってしまいます。

まず心がアンバランスになるので、思考と行動に狂いが生じ、身勝手な言動を起こすようになり、愛する人や周りの人を苦しめたり、傷つけてしまうようになる。それは神様の御心、願いとは大きくかけ離れている行いであり、わたしたちはいとも簡単に捉えてしまい、水に流してしまう些細なことと扱ってしまいますが、神様の目には、それは「罪」であります。ですから、恐れや怒りや不安の奴隷ということは、罪の奴隷になっているということです。

わたしたちに本当に必要なのは、被造物である人間から出た知恵に影響されるのではなく、ご計画をもってわたしたちを創造され、愛と憐れみをもって生かしてくださる神様の声、主イエス・キリストの言葉に聞くことです。聖書のみ言葉によって日々正しい導きと力強い影響を受けながら生きることが重要であり、主のみ言葉に聞き従いながら日々生きる時、わたしたちは祝福に満ちた人生を送れます。何故なら、神様が救いと祝福の源であるからです。

さて、いま日本では衆議院選挙の戦いが全国各地で繰り広げられており、残念ながら、次の主日の31日が投開票日となっています。けれども、皆さんにおかれましては、期日前投票を30日の土曜日までに済まされるか、あるいは31日は礼拝後に投票に行っていただくかして、31日の主日は是非とも礼拝にご出席いただきたいと礼拝へのご案内をさせていただきます。

なぜそのような案内をするのかと申しますと、来週はネヘミヤ記10章から宣教をする準備をしていますが、この10章はわたしたち大久保教会にとって、また一人一人にとって非常に重要な箇所になるはずです。何がそんなに重要なのかと思うと思いますが、どうしても出席できない場合は、後で教会ホームページに掲載されます宣教の原稿をお読みくださるか、教会のユーチューブチャンネルにあります礼拝の模様をぜひご覧いただきたいと思います。また、大久保教会の会員でなくても、神様とあなたとの関係性においてとても重要な神様からの語りかけになると思います。この10章はネヘミヤ記の学びの中でも中心的な箇所になりますので、ぜひオンラインか礼拝堂での礼拝に出席いただきたいと心から願っています。

今朝の宣教は、ネヘミヤ記9章の後半部分をテキストに聴くことにしておりますが、実は2週間前にご一緒に聴きました8章と今朝の9章はとても重要な箇所であり、特に9章全体は来週の礼拝までにぜひ一度読んでおいていただきたい箇所です。

今朝はこれまでの宣教の内容に少しだけ触れながら進めてゆきたいと思いますが、ペルシャ帝国の王の許可を得てエルサレムに戻ったゼルバベルとエズラと捕囚の民は破壊された神殿の再建に着手します。神殿再建は神様から命じられたことではありましたが、イスラエルの民にとって彼らの生活の中心に主なる神様を再びお迎えするためにとても重要なことでした。

神殿が完成しますと祭司エズラは神様のみ言葉、律法を守ることがイスラエルの生活の中心であると強調します。そしてその後に帰還したネヘミヤは強いリーダーシップを発揮して民を励まし、確かに内外から様々なチャレンジがありましたが、神様への信頼と祈りの中で、人々と協力しながら、たった52日間でエレサレムの城壁の再建・修復工事を終わらせました。ネヘミヤ記8章と9章にはその完成した直後にイスラエルの民が心を一つに何をしたのかが記されており、それが土台となって重要な10章に入ってゆきます。

それでは、イスラエルの民は心一つに何を行動に移して行ったのでしょうか。前回の宣教で聴いた部分ですが、イスラエルの民はある広場に集まって、主なる神様がイスラエルに授けられたモーセの律法の書に耳を傾けたと8章3節に記されています。神殿と城壁の再建という大きなプロジェクトが完成した後、達成感から安心して気持ちが緩み、自分のための時間を過ごそうかと考えてしまうのが普通だと思いますが、彼らは神様の言葉に耳を傾けます。

20ヶ月に渡る新型コロナウイルス感染の不安、4度の緊急事態宣言から解放され、ワクチン接種も進み、感染陽性者数や重症者数も大幅に減る傾向の中で、気持ちに緩みが生じ、今まで我慢してきたストレスを発散させるかのように自分や家族のために時間を過ごそう、どこかへ行こうと考えてしまうのが普通なのかもしれませんが、わたしたちは今朝、神様に礼拝をささげ、み言葉を聴こうと耳を傾けています。どうしてでしょうか。わたしたちを創り、生かし、恵みを与えてくださる神様と救いを与えてくださる救い主イエス様を礼拝するためです。そして礼拝の中でみ言葉に聴くことによって今日から始まる新しい週を歩むための力、霊的糧が神様から与えられると信じ、期待しているからです。

しかしモーセの律法が読まれる中で、イスラエルの民は嘆きはじめます。律法が読まれれば読まれるほど、彼らの心は悲しみに打ちひしがれます。なぜでしょうか。み言葉に触れれば触れるほど、真剣に向き合えば向き合うほど、先祖たちと自分たちが神様に対して犯してきた間違いの大きさと数の多さに圧倒され、申し訳ないと恥じ入り、悲しむしか方法が見つからなかったからです。しかしネヘミヤとエズラは民全体に、「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはいけない。行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と励まし、悲しむのではなく、神様の憐れみに感謝し、喜び祝いなさい、そこにあなた方の生きる力があると示します。

神様の言葉、モーセの律法を聴いた後、イスラエルは仮庵の祭りを行います。この仮庵の祭りには二つの目的があります。一つは大地の実り、収穫を与えてくださる神様に感謝をささげるということ。もう一つは、祭りの期間に仮庵という一種のテントのような中で過ごし、主なる神様が40年に渡って荒野でイスラエルを守り、すべての必要を満たしてくださったこと、その神様の真実さを覚えて感謝するためです。8章18節に、この仮庵の祭りの期間、「最初の日から最後の日まで、毎日彼(エズラ)は神の律法の書を朗読し、彼ら(イスラエルの民)は七日間にわたって祭りを行い、八日目には定めに従って終わりの集会を行った」とあります。

さて、9章1節から3節に「その月の二十四日に、イスラエルの人々は集まって断食し、粗布をまとい、土をその身に振りかけた。イスラエルの血筋の者は異民族との関係を一切断ち、進み出て、自分たちの罪科と先祖の罪悪を告白した。彼らは自分の立場に立ち、その日の四分の一の時間は、彼らの神、主の律法の書を朗読して過ごし、他の四分の一の時間は、彼らの神、主の前に向かって罪を告白し、ひれ伏していた」と記されています。そしてレビ人がイスラエルを代表して神様に祈り始めます。その祈りが9章5節から37節です。

彼らが神様のみ言葉である律法を読めば読むほど、3つのことが鮮明になってきます。わたしたち一人ひとりが日々聖書を読み続けるならば、3つの大切なことが聖書から分かります。1)主なる神様はこれまでイスラエルのために何を成してきてくださったか。2)イスラエルの民が神様に対していかに不忠実に生きてきたのか。3)それでも神様は自分たちを見捨てることなく愛し続け、守り導いてくださっているか。この三つの真実を知ることができるようになります。つまり、主なる神様は確かに生きておられ、世界をご支配され、憐れみ続けてくださっているという神様の真実さを知ることができるようになるのです。

9章全体を読みますと「ネータン」というヘブル語が15回用いられています。この言葉の意味は、「与える」で、他に「授ける」、「行う」という言葉に訳されていますが、イスラエルの歴史の中で何度も間違いを繰り返す民、罪を犯し続けるイスラエルが記されています。しかしもう一つ記されている真実は、それでもイスラエルを憐れみ、愛と赦しを与え、悔い改めるチャンスを与え続けてくださる神様がおられるということです。そしてその神様の真実さは2021年の今も変わることなく、イエス・キリストを通してわたしたちに示されています。

今朝は読みませんでしたが、31節に「まことに憐れみ深いあなたは彼らを滅ぼし尽くそうとはなさらず、見捨てようとはなさらなかった。まことにあなたは恵みに満ち、憐れみ深い神」という叫びがありますが、今朝もわたしたちに、あなたに、わたしに神様から憐れみと愛が与えられ、悔い改めて神様に立ち返るチャンス、罪の赦し、救いへの招きが与えられ続けています。わたしたちに差し出されているこの恵みを受け取るか、それとも受け取らないか、わたしたちの自由でありますが、すぐに決断をするのではなく、まず自分と正直に向き合う時間、今までの自分を振り返る、見つめ直す時間が本当に必要であると思います。自分以外の人のことはどうでも良いのです。今は自分の心の状態、自分のことに集中する必要があります。

今朝はイスラエル全体の悔い改めの祈りの最後の部分を読みましたが、この32節から37節を読んで、どの言葉が皆さんの心に強く迫ってきたでしょうか。「この苦しみすべては起こるべくして起こったのです」、「わたしたちはあなたに背いてしまいました」でしょうか。わたしには36節が強烈に迫ってきました。主よ、「御覧ください、今日わたしたちは奴隷にされています。先祖に与えられたこの土地その実りと恵みを楽しむように与えられたこの土地にあって御覧ください。わたしたちは奴隷にされています」という言葉です。もう一つ迫ってきた言葉は、37節後半の「わたしたちは大いなる苦境の中にあるのです」という叫びです。

皆さん、あなたは神様の愛の中で、恵みの中で生かされていますが、それを忘れて「自分は奴隷になっている、苦境の中におかれている」と苦しみながら生きておられないでしょうか。いつも過去の間違いや苦しみに支配され、恐れを抱きながら、将来への不安を抱きながら苦闘していないでしょうか。暗闇を彷徨っていないでしょうか。この36節の言葉を神様に叫んだイスラエルの民の軛は何であったのでしょうか。彼らは何に支配されていたのでしょうか。彼らは捕囚の地からエルサレムに戻ることができましたが、それでもまだペルシャ帝国の王につながれていました。そのことが37節で叫ばれています。「諸国の王のものとされている。」

イスラエルの叫びは、「主なる神様、わたしたちはあなた様の憐れみと慈しみのもとにつながれ、生かされたい。主よ、どうぞ罪深いわたしたちを憐れみ、救ってください。あなたの民としてください」という叫びでした。この36節と37節は、「神様、わたしたちは自分の罪のために苦しんでいますが、あなたがわたしの唯一の救い、希望です。あなたを信じ従います。どうぞ憐れんで救ってください。わたしをあなたの民としてください」という叫びです。

皆さんにはどのような悩みや苦しみや不安があるのか、わたしには分かりません。しかし、主なる神様はあなたのすべてを知っておられ、あなたに何が必要か知っておられます。わたしたちに必要なのは、神様を信じて、神様の救いを、愛と憐れみを日々受けて生きることです。